目を細める美少女

 月曜日になり、茉由子は学校へ向かった。

 茉由子が通うのは渋谷女学館という学校で、広尾の高台にある。車の送迎で通う学生が多いが、茉由子は昔から自転車通学だ。茉由子の家からは坂道を上ったり下りたりせねばならず、夏などは特に大変だが、風邪ひとつ引かない体になったのはきっとこの朝夕の運動の成果だ。

 校門が見えてきた時、茉由子はふと思い出した。そういえば、違約金という名の借金を負う相手となった芝山には、この学校に娘がいる。しかも同じ学年に。

 彼女が父親からどの程度話を聞いているか分からないが、一言支払い猶予のお礼はしておいた方がいいかもしれない。



 「皆さんよろしいですか。この程度のことは良き妻、良き母として当然に出来なければ、本校の卒業生として恥ずかしい思いをなさりますよ」


 昼食の後の授業で、美しい縫い目を見せながら裁縫の先生が言うのを、茉由子は後方の席からぼんやりと聞いた。

 そもそも嫁に行く日がやってくるのか、増して人の親になる機会があるのか全く見えないのだ。これまでも苦手だと思っていた裁縫に、これまで以上に身が入らない。むしろ衣服の補修など実用的な技を教えてくれるのであれば、生きていくため真剣に聞く自信があるのだが、手先が特別器用でもない自分が和刺繍で身を立てられる未来は、茉由子には見えない。


 (この中でこんなことを考えている人、私だけだろうな)


 先週まではなんでも話せ、友人たちの背中が急に遠く感じられた。家の事情を話したら、親身になって聞いてはくれるだろう。しかしお互いの関係はその瞬間に変わってしまうのではないか。


 (言う必要が生じた時まで、秘密にしておこう)


 茉由子がそう決め、友人の桜子と次の教室へ移動している時、ふと視線を感じた。


 (あっ紅さん)


 芝山家の娘、紅が音楽室の前から茉由子をじっと見ていた。透き通るような白い肌と、肩の少し下で切ったつややかな黒髪。目尻がきゅっと上がった形の良い目から放たれる視線は批判めいたものではないが、不自然なほどに目を離さない。


 「ごめんなさい、私紅さんのお父様あての言伝を父から預かっているから、先に行っておいてくれるかしら」


 茉由子がそう言うと友人の桜子は頷き、


 「席を取っておくわね」


 と言ってそのまま廊下を進んでいった。紅はその間、片時も目を離さず茉由子を見ている。

 桜子の姿が見えなくなったのを確認し、茉由子は紅に近づいて頭を下げた。


 「紅さん。ご新居に入るはずだった家具が届かないことになってしまって、本当にごめんなさい。

 お引越しが遅れてしまうでしょう。父は事業を畳んでしまうから他の方にお願いするのだけれど、手配は必ずすると申しています。

 あと、違約金は少し時間がかかってでもしっかりお支払いしますので、どうかこれもお待ちください。

 猶予を下さったと聞いているわ。ありがとうございます」


 紅は何も言わずに茉由子の言葉に耳を傾け、ぼそっと


 「あなたも仕事をするの?」


 と聞いた。茉由子は


 「ええ、学費が出せないのよ」


 と言い、これだとまるで芝山家を恨んでいるように聞こえてしまうかもしれない、と考え、努めて明るく付け加えた。


 「そもそも私には向いていない気がしていたけれど、もう令嬢としてお見合いして良妻賢母…なんていう道もなくなったし、どうにかして働き口を探すわ。ただ、裁縫の成績が悪くてお針子さんなんてのも難しそうだし、割烹も女だとなかなか雇ってもらえないわ。

 私でもできる仕事があるか、求人票と自分の能力を見比べながら今日から探すつも…」


 「茉由子さん。兄に会ってほしいから今日の放課後、教室で待っていて頂戴」


 紅は突然、茉由子をさえぎるようにそう言った。


 (兄?なぜ兄?父親に謝るというならとにかく、兄?)


 訳が分からず、口を開けたまま紅を見ていた茉由子に背を向け、歩き始めた紅は一度だけ振り返り、眩しそうに目を細めて一言、


 「絶対よ」


 とだけ言って去って行った。謝罪が受け入れられたのか、兄とはいったい何者なのか、茉由子には何もかも分からなかった。



 放課後、紅は本当に茉由子を教室まで迎えに来、自分についてくるよう促した。

 校門では当然のように運転手が待っており、恭しく開けられたドアから車に乗り込む。自転車は学校に置いていくしかなかった。車の中で紅は特に話さず、外を見ていた。顔見知り程度で特に共通の話題がなく、しかも実家が相手の家に迷惑をかけた立場ではなんとも居心地が悪く、白金までの約20分のドライブは永遠に感じた。

 本邸を新築中の芝山邸は、今は仮住まいのはずだ。しかしそんなことを忘れてしまうほどの豪奢な洋館に、茉由子は思わず見惚れてしまった。女学校の友人にもなかなかここまでの財力を感じさせる人はいない。

 そんな茉由子を一瞥した紅は、


 「茉由子さん、淑女たるもの反応は控えめにするべきよ」


 と言って茉由子を室内へと促した。

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