洗濯婦、工員、調理婦…
昨日の驚天動地の出来事により眠れぬ夜を過ごした茉由子は、ミチを見送った後の一日をほぼ図書室で過ごした。
麻布本村町というお屋敷街にこそあるが、茉由子の家は豪邸というほどの規模ではない。しかしその大きさに不釣り合いとも言える立派な図書室は、応接間より広く、床から天井まで何百冊もの本が並んでいる。
一部茉由子が読めない言語の本もあるが、ほとんどの蔵書は英語であり、茉由子は幼い頃から暇さえあればここに来て本を読んできた。
穣は若い頃に英国に留学しており、そこで本人曰く「世界に触れた」らしい。帰国して結婚し、生まれた茉由子が本-実際はその挿絵だったのではないかと思うのだが―に興味を示し始めると、穣は喜んで英語の猛特訓を始めた。友人たちには驚愕されたが、女学校に入学するまで英語の家庭教師以外の習い事もしたことがない。
こうして出来上がったのが、お琴や裁縫などおよそ令嬢に求められる要素はいつも落第ぎりぎりの評定だが、英語だけは他者の追随を許さない、いささかアンバランスな西條茉由子という人間だった。
(作法が完璧とは言い難い私には、良家に奉公に出るという道は少なくともないわね。百貨店の接客も作法が求められるから、すぐにぼろが出てしまいそう)
茉由子はソファに腰かけ、アメリカの婦人雑誌に載っている求人票を見た。
日はすでに傾いており、200ページ読んでも何も頭に入ってこなかった小説は諦めてサイドテーブルの端に放り出した。明日以降、東京でどのような仕事を得られるのか情報収集せねばならないが、とりあえず手持ち無沙汰なので外国の情報を見ながら考えてみている。
(裁縫も得意じゃないので縫い子さんは難しい。帳簿の勉強をするか…でも女はなかなか雇ってもらえないかもしれないし、お給金がもらえるまで時間がかかってしまうわね)
学費の払い込みが済んでいる学期末までは学校に通うのがいいのか、さっさと学業に見切りをつけて、何でもいいから雇ってくれるところに飛び込むのがいいのか。そもそもそれも分からない。
洗濯婦に工員、調理婦、営業、販売員。さまざまあるけれどなかなかぴんとくるものがない、と考えていた茉由子が手を止めたのはタイピストの特集ページだった。
(タイピスト、それも英文タイピストっていうのはありかもしれないわ。女学校は卒業できないから、学歴不問のところを探すことができれば…。日英翻訳も、仕事としての経験がなくて、女でも雇ってくれるところがあったらいけるかもしれない)
学歴が問われなければ。女でも雇ってもらえたら。たらればがたくさんついてしまうけれど、根気よく探せばできる仕事はあると思えてきた茉由子は、少し前向きな気持ちになってきた。当面同じ家に住み続けられる見通しであるし、女学校を出てよく知らない相手と結婚し、家庭に入るよりも面白いことがあるかもしれない。
(私が悩んだからといってどうにかなるわけでもないし、とりあえず頑張って仕事を探すのみ)
茉由子は元来あまり悩まないが、さすがに家の一大事とあって昨晩は眠れぬ夜を過ごし、一日図書室にこもって己の未来について考えることになった。しかしどうやらそれが限界のようで、もはや悪い想像やネガティブな気持ちといったものを己の思考が拒否しているのを感じる。
(普通に結婚していたならば、塩加減を間違えた料理を出して、でっぷりと太ったお姑様にねちねちと苛められたかもしれないわ)
(いや、子供だけ産まされて適当な理由で実家に送り返されていたかもしれない)
女学校でまことしやかに囁かれる「気の毒な先輩令嬢の結婚逸話」を思い出してそう考えながら、一方で冷静に茉由子は思う。
(今は目の前の事態に向き合うことから逃げているだけかもしれないけれど、悩んで落ち込むくらいなら私はこれでいい)
すっかり暗くなった部屋で茉由子は立ち上がり、伸びをした。
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