崖っぷち大正ガール、誰にも言えないお仕事をする

珠山倫

船、沈没す

 「長きに渡り大変お世話になりました。どうかご家族皆様、お元気で」


 茉由子が幼い頃から遊び相手となり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたミチが玄関で深々と頭を下げた。すでに執事は去り、彼女が去れば見送りは終わりだ。


 「急なことで本当にすまなかった。君の話は先方の家にしっかり通してあるから、茉由子にしてくれたように、半年後に生まれる赤子を可愛がってあげておくれ。ほんの少しばかりだが、お給金が出るまでの足しにしてほしい」


 父はそう言いながら封筒を差し出した。ミチはそれを恐縮しながら受け取り、茉由子の方に向いた。


 「茉由子様。利発でお話上手で、可愛い茉由子様が大好きでございます」


 ミチの言葉を聞いた茉由子は思わず、子供の頃にしたようにミチにぎゅっと抱きついた。そして西條邸には家族3人が残されたのだった。


 ***


 前日の土曜日に、茉由子が女学校から帰宅した時はまだ家はいつも通りだった。

 昼食を母の美津子と食べ、美津子が神田須田町で購入してきたわらび餅を二人で食べながら庭で満開に咲き誇る一本桜を眺めていると、父が唐突に帰宅したのだった。


 「船が沈んだ」


 開口一番、真っ青な顔でそう言った父はそのまましゃがみこんでしまった。

 茉由子の父である穣は家具の輸入事業を展開している。新品からアンティークまで、既製品を主として取り扱っているが、富裕層の細かい要望を受けた特注品にも力を入れている。


 「芝山様のご新居に入れるはずだった調度品がほとんど沈んでしまったんだ」


 穣が絞り出したその言葉に、茉由子は息をのんだ。

 個人宅であるのに、その建築が進む様子がしばしば雑誌で取り上げられるほどの芝山新邸。穣はそのすべてのインテリアに関してコーディネートと調達を任され、ここ一年ほどそれに心血を注いでいた。向こう三年は何もしなくても安泰なほどの巨額の契約だったはずだ。

 その「ほとんど」が日本に届かなかったとは。


 「あなた、しっかりなさって!保険をかけてあるから大丈夫なはずでしょう?芝山様にはご迷惑がかかってしまうけれど、もう一度急いで発注すれば…」


 「保険が足りないんだ」


 穣が美津子の言葉を遮った。


 「保険が全額下りてもすべて賄えない」


 「お父様、いつも保険はしっかりかけていらっしゃるのに、どうして」


 自分が口を挟むべき状況ではないと理解しつつ、茉由子はたまらず会話に入った。


 「保険証書が改ざんされていたんだ。十割補償だと認識していたのに、保険会社にある書類には五割だと書かれていて、こちらの印鑑も入っている」


 「なぜそのようなことが!?」


 美津子は動揺し、穣の隣にへなへなとしゃがみこんでしまった。穣は頭を抱えながら小さな声で言う。


 「田中くんに任せていたんだ…」


 田中弥吉。茉由子はその人物を苦々しい気持ちで思い出した。

 五年前に商売を畳んだ取引先から雇い入れた田中は、半年ほど前まで父の会社で真面目に働いていた。少なくとも、穣を含む会社の人間はそう捉えていた。

 しかし次第に、酒を飲んで出勤したり無断欠勤したりと勤務態度の悪化が目立ち始めた。茉由子は一度、一升瓶を抱えながら、目つきの悪い男と連れ立って歩く田中の姿を女学校の近くで目撃している。


 そして昨年、経理作業が忙しい年の瀬に田中は忽然と姿を消した。下宿先には家財道具一式がそのまま残されており、社長である穣を含む社員全員が警察の聞き込みへの対応に追われたのだった。


 「お父様、じゃあその差の分は田中さんが使い込んだということかしら」


 茉由子の問いに、穣は


 「そう考えている」


 と言いながら頷いた。

 父も母も放心状態で時間がかかったが、茉由子はその後少しずつ会社のお金回りや芝山家との契約について質問し、全容を把握した。

 沈んだ家具の再発注に必要な資金は保険金では賄えず、会社の資金をかき集めてぎりぎり足りるかどうかというところで、このまま商売を回し続けることは不可能となる。それに加えて、期日までに納品できないことが確実となったため違約金の支払い義務が発生するのだが、会社にはもはやそれを支払えず、穣個人が追うこととなる。


 端的に言うと、西條家とその事業は金銭的に行き詰まったのである。


 麗らかな春の日差しとはあまりに合わない厳しい事態に茉由子も放心しかかった、いや、したかったが、先に目の前で泣かれると泣くのを忘れる子供のように、なんだかタイミングを逃してしまった。

 ただ、もうこの先食べられないかもしれないと思い口にいれたわらび餅は、大好きなのに味がしなかった。



 その後父は会社に戻り、茉由子は母と二人で家の財産目録を調べたり、西條家の財産状況を詳らかにするため銀行に出向いたりと忙しく過ごした。

 美津子は多才な人だが、金勘定には疎い。そのため、本で読んだ知識をもとに茉由子が会話を主導するしかなかった。何も分からない女が何をしにきた、という気持ちを隠そうとしなかった銀行員が終盤、ちゃんと目を見て説明してくれるようになったのを見た時、茉由子は手あたり次第に何でも読む自分の読書癖に感謝したくなった。


 しかし判明したのは、やはり西條家の財産のほとんどを投げうってようやく違約金を支払えるということだ。夜遅くに再度帰宅し、茉由子と美津子を部屋に集めた穣が、


 「芝山様が、一家を路頭に迷わせるのは本意ではないから、家は売らなくて良い。その分の支払いは猶予する、と言ってくださったよ」


 と言った時には、身一つで野に放り出されることがなくなったことに少し安堵したが、結局のところは借金であるし、父の事業を畳むとなると返していく手立てがない。

 茉由子が悶々と考えていると、昼間とは打って変わって落ち着いた父は西條家の今後についてこう切り出した。


 「侑司さんがね―私の妹の夫だから、茉由子にとっては叔父さんの、あの侑司さんだ―彼が、自分の事業を手伝ってほしいと言ってくれている。

 会社の整理をして、社員の転職先をできる限り探したら、すぐにそっちに移ろうと思う。芝山様の調度品については、同業で引き受けてくれるところがあったから、そこ経由で調達してもらえることになりそうだ」


 「侑司さんということは、穣さんカフェーのお仕事をなさるの?」


 美津子が目を見開いて聞いた。無理もない。

 叔父の侑司さんは浅草から日本橋のあたりでカフェーを五店舗経営しており、そのインテリアに穣が協力したこともあって、二人の関係は良好だ。しかし穣はその父から貿易ビジネスを継ぎ、それ以外の仕事をしたことがないので、門外漢もいいところである。


 「日本橋寄りにある三店舗を統括として全面的に任せてくれると言っているけれど、実際私はカフェーのことは何も知らないから、しばらくは経理や備品の発注といった、今の私でもできる事からやっていくよ」


 芝山家に支払い期限延長の話をつけ、親族のつてで就職も決めてきた。狼狽えながら茉由子と母のもとに悪い知らせを持ってきた時から、数時間のあいだにここまで道筋をつけてきた父を、茉由子は素直に尊敬した。沈んでしまった荷物にしっかりと保険さえかかっていれば、この父の事業は今後も安泰だっただろうと思う。

 穣の答えをじっと聞いていた美津子は、しばし考えた後、決心したようにこう言った。


 「穣さんが家族のために新しいことに挑戦されるのであれば、私もそうしない理由はないわ。働きに出ますので、侑司さんのところで雇ってもらえないか、お願いしてみてくださらないかしら」


 お嬢様として育ち、奥様として暮らしてきた女性がこのような発言をすると驚かれることが多いと思われるが、茉由子は違和感がなかった。美津子は愛情深く、家族で楽しく過ごす時間を生きがいにしている人だ。また、趣味に社会奉仕にといつも走り回っている。普通の家庭で生まれ育っていたならば、家庭をしっかりまとめながらよく働く、肝っ玉母ちゃんになる素質のある人なのだ。

 家庭の一大事には自分も何か貢献したい、と考えるだろう。

 穣は頷き、顔を茉由子の方に向けた。


 「茉由子。女学校はあと一年だが、通い続けることは今の状況では極めて難しい。親として本当に申し訳ないが、退学してもらうことになる」


 銀行で明細を見て以来、そうなるだろうと思っていた茉由子は一言、わかったとだけ言って無理矢理微笑んでおいた。それをじっと見ていた穣は姿勢を正し、美津子と茉由子に向かって額と手をテーブルにつけた。


 「美津子、茉由子。私の不手際でこのようなことになって、すまない。君たちの暮らしがこれからまるで変わってしまうが、不甲斐ない私にどうかついてきてほしい」


 美津子は慌てて立ち上がり、茉由子もそれに続いた。親子は三人、黙って抱き合ったのだった。

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