箱の中の男が語ります

金魚術

記録No.311


 水槽の男は水面に顔を出すと、訴えるように語り始めた───


   * * * * * * * * 


 こんなことになるとは思わなかったのです、ほんの親切心のつもりだったのです、ええもちろん、三姉妹が背筋の凍るような美貌だったからだろうと言われて、そうではないとは言い切れません、ああでも、ちょっとした…

 いえ、すみません。

 大丈夫です、落ち着きました。

 そう、そうです、ことの始まりは───


 あれは大阪で伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎが世評を賑わせていた安永の御代のことです。わたしは近江国の呉服商の手代で、番頭待ちの三十男でございました。

 ある秋、わたしは旦那様からお伊勢参りの代参を仰せつかりました。この代参は奉公先の慣わしで、次に番頭になる手代がご指名いただくものでしたから、承ったわたしは心浮き立ったものでした。なんとなれば、番頭になれば旦那様からの暖簾分けを受け、いずれは一家を構えることもできる、そういう身分になれるのですから。

 お伊勢参りこそ済ませたものの、その帰路をくあまりあのような館へと迷い込んだのも、畢竟ひっきょうそのような浮き足だった心持ちがあったためかもしれません。

 伊勢を経ってしばらくのことです。来たときには確かに通った寛仁大橋に辿り着きません。どこかで道を誤ったのです。普段なら、小心者の自分は来た道を見覚えのある景色まで引き返したでしょう。しかしその時のわたしは自分こそ次の番頭なのだと気が大きくなっていたのでしょう。いずれどこかで往路に行き交うだろうと、ずんずん道なりに進んだのです。

 やがて陽も暮れかけてきました。道は細くなりゆくばかりで、元の街道筋に合流する景色も見られません。かといって道を引き返すにはあまりに歩を進めてしまいました。

 進むべきか引きかえすか。また東へ戻ると宿場町に着くまでどれほどかかるか。ならばいっそと、半ば竹藪に覆われた細道を私はさらに進みました。近頃では夜盗の噂もある、宿でなくてもせめて一宿一飯を乞える炭焼き小屋にでも辿り着ければとの気持ちだったのです。

 不安を抱えつつ歩みを進めていくと、不意に竹藪に覆われた細道は終わっておりました。目の前には山奥にも似つかわしくない立派なお館が聳えておりました。

 安堵でわたしはお館に駈けました。


 お館の門前には玄関掃きの片付けをしていた腰の曲がった老下女がおり、わたしは事情を話し、どうか今晩の雨風凌ぎ、せめて軒先でも構わないから宿らせてもらえないかと談判しました。黙って話を聞いていた下女はしばしここにてと言い置き館へ引き下がっていき、しばらくすると戻ってきて、旦那様がおっしゃるには、と次のように語りました。

「このような山中でのお困り、まことにご同情申し上げる。軒先と言わず離れには一晩の宿りには十分な座敷がある、遠慮なくそちらにお泊りいただきたい。但し一つだけ言いつけを守っていただきたい」

 下女の口から語られる言いつけとは、離れには三姉妹の幽霊が出るが、三姉妹の語りかけには耳を貸さないようにとのことでした。

 ああ、この言いつけをしかと心得てさえいればと何度後悔したことでしょう。

 わたしは幽霊などよりも夜盗の方がよほど恐ろしかったので、喜んで言いつけをお守りしますと告げ、下女の後について離れへ案内されました。離れは、こんな山奥のお屋敷には不似合いなほど大きい構えをしておりました。


 旅路の疲れに山道に迷い込んだ気疲れも重なったためでしょう。わたしは下女の用意した桶で足を洗うと、その間に下女が用意した夜着に着替え、懐にしていたお伊勢さまのお神礼ふだを無くしていないこと確認すると、敷かれた布団に倒れ込むように寝入ってしまいました。障子に月明かりが白く差し込んでいたのは覚えています。 

 どれほど経ったのか。気がつくとわたしは、奥座敷にて三姉妹と向かい合っておりました。姉妹はいずれも、お公家様のように品のある、平安絵巻に見るような十二単を身に纏っておりました。ひとえから覗く首筋は冷たく光り、そしてそのお顔。寒気がするほどの美しさをしておりました。一目で、ああ、これはこの世のものではないと思ったのを覚えております。

 腰を抜かしたわけではありません。

 ですが、私はそこから立てなくなりました。

 三姉妹はしばらくわたしを見つめておりましたが、やがて畳の一点へ視線を落としました。視線の先、真ん中に座った女の前には何やら小さな物が置かれていました。人の頭ほどの大きさでしょうか。月明かりの下、それは螺鈿貼りされた箱だと分かりました。

 真ん中の女はその箱をつ、とわたしの前へ押しやりました。箱へ落とした視線をあげると、三姉妹は頸をそらし歌い始めます。細首のどこからそんな声が出るのかと驚くような深い声色でした。

 三姉妹の声は重なり、


  箱を

   箱を

    箱を

     あけてたも

      あけてたも

       あけてたも


 そう何度も繰り返し始めたのです。

 わたしは導かれるように箱へ手を伸ばしました。


 そのあとのことを覚えておりません。

 気がつくと既に陽はのぼり、青空には高く舞うかけすが輪を描いておりました。わたしは寛仁大橋の東詰に大の字に寝転んであったのです。

 さて狐狸の類にでも化かされたかという安心と、耳に残る三姉妹の声への不安を抱え、それでも近江国へと向かったのです。


 わたしは翌年には番頭になり、その数年後には旦那様の三女のを妻に娶り暖簾分けしていただき、山城国にて商いを始めました。商売に必死となり、二男二女も授かり、それからの十年は瞬く間に過ぎました。不吉な三姉妹との邂逅も、時の霞の向こうへと薄まっていったのです。

 何かおかしいことに最初に気づいたのは、旦那様の葬儀のため一家で近江国を訪れた際、若狭国で商いをしている旦那様の弟様とお話しした際でした。

「それにしても老けないねえ。十年前に会った時と少しも変わらんよ」

 世辞かと思いましたが、言われてみればわたしは、ここ何年も自分が老けたと感じたことがないと気がつきました。さりげなく妻に訊いてみると、若々しいとは思っていたが商いの熱意のためだろう、いつまでも元気でいてくれるとみんな嬉しいと言います。

 しかし改めて鏡に向かって己の顔を見ておりますと、確かに若い。四十も過ぎ五十にも手が届こうという齢なのに、まるで番頭に上がったばかりのようにつるりとした顔立ちなのです。鏡の奥に三姉妹の冷ややかな笑みが浮かんだ気がしました。


 あの夜から二十年が経ちました。妻は年相応に老いていきます、息子も娘もみるみる大きくなっていきます、しかしわたしだけは三十面のままでした。次第に人から奇異の目で見られることが多くなり、わたしは商いを長男に任せ、人目を避けるように妻だけ連れて隠居することにしました。

 隠居先には息子夫婦や娘夫婦が泊まりにきたときのために離れを設けました。子供たちはそのうち孫を連れて顔を出したものの、次第に離れに泊まることを嫌がるようになり、多少無理をしても日帰り、泊まりの時も本宅の狭い客間に泊まるようになったのです。どういうことかと聞いても要領を得ない返事をするばかり。あるときどうにも気にかかり次女の亭主を問いただすとこう答えます。

「実はお父さん、もちろんあたしは信じちゃいないんですが、子供がね、どうにもこう、あの離れは女のお化けが出るから怖いとこう言うんですよ。大広間から見える柳の木でも見間違えたに違いねえんですが、まあ子供が何せ頑ななもんで」

 霞の向こうに遠ざかっていた不吉な三姉妹の姿が急に目の前にはっきり現れた心地でした。


 その後のことはつづめてお話ししましょう。

 隠居してから十年経ち、いつまでも老いないわたしを最後には気味悪がっていた妻を看取ると、お遍路に出ると称して屋敷を売り払い、阿波国へ旅立ちました。

 それから子供たちには会っておりません。

 歳を重ねない顔のため長く一所ひとところに留まれず、旅から旅のうちに御政道も改まり、大きな戦争で空襲にも遭い、八十禍津日邪やそまがつひのかみの富士火口顕現も目にしてきましたが、まるで長い夢でも見ていたような気がします。いまだにわたしは、三十面を晒しております。


  * * * * * * * * 


 語り合えた男は、目を閉じると再び水槽へと沈んでいった。

「記録終了───十五分十秒です」

 わたくしは隣に立つ御所ごせに告げた。操り人形のように手足ばかりやけに長い、生気の薄い男だ。御所は小さく頷いた。

「前回、前々回と時間はほぼ同じ、医学的見地からの意見は先生の判断待ちになります」

 御所はまた頷き、背後に立ったおりばあに振り返った。

「滑舌には問題ない、眼球の動きにも脳障害の兆候は見られなかったね。まあデータを精査してからでないと確かなことは言えんが、もちろん」

 おりばあは左手で短い顎ひげをしきりにしごきながら答えた。彼は御所とは対照的に、短い手足を忙しなく動かす男だ。

「結構です。報告は24時間以内にお願いします、なんらかの兆候が見つかった場合はいつでもご連絡ください。加尾くお君は先生の報告を待って今月の月末報告をまとめておくように」

 御所はそう言い残すとらぼらとりいを出て行った。

 その後ろ姿を見送り、やれやれ、という風に肩をすくめるとおりばあは私に意味ありげな視線を向けてきた。

「加尾さんもこんなとこに配属されて大変だね、あんないつも眉を顰めてる総括の下で働くのもさ。

 健康管理ったって、もう何十年も一度も問題が生じたことなんてないのに。あんな肩肘張ってて疲れないのかな御所総括も」

 いつも緊張感を漂わせる御所と比べて、おりばあは陽気な男だ。見かけは三十代半ばだが、本当の年齢はわからない。抗老化わくちんを初めて接種したのは三十代半ばだったのだろうが、これは珍しいことだ。大抵の連中は、外見的見地から二十代半ばまでには初回接種を済ませている。

「ところで加尾さんは男の話をどう思う。君は初めて聞いたんだろう、彼の物語を」

「妄言ですね」

 私は答えた。

「と言い切れないんだなこれが。まあ少なくとも、こいつの体細胞から抽出できる高テロメア短縮阻害物質が、我々を老いによる死から解放してくれたのは事実だからね」

「だとすると、この男にとって三姉妹は何者だったとお考えですか」

 私は気の昂りを悟られないよう、静かに問うた。

「さて。少なくとも我々にとっては神様みたいなもんだよ。こいつにとっては、なんだったんだろうな。

 我々の仕事は、ともかくこいつの健康管理だ。脳卒中、脳梗塞、心筋梗塞、大動脈解離─発症が重大な生命の危機に繋がる病気からこいつを守り、万一発病した場合は直ちに治療できる体制を保つことが人類の幸福そのものだよ」

「先生はこの男も、老死からは解放されているけれど病死はする、と考えていらっしゃるのですか」

「分からん。分からんが、病死の可能性が否定できない以上、我々はこいつをあらゆる病死から守る義務があるからな。と上の連中は考えてるのさ。

 まあ当然ではあるけどね、もう人類はこの船に残った3,000人弱しかいない。永遠に近い居住可能惑星探査に希望が見出せるのは、不老の我々がなるべく病死、事故死で数を減らさないまま新たな大地で再び繁栄できることがモチベになってるからに他ならないのだから」

 講義は終わった。おりばあは片付けは頼むよと言い、部屋を出て行った。


 私は、橙色の高酸素溶解液で満たされたがらす張りの立方体水槽の中程に浮かんでいる男を見下ろした。水槽の男にはもう名前もないし、回復の見込みもない、仮に回復できたとしても、もはや連中のためにならないとして、男を水槽から出すこともありえないのだろう。

 抽出される高てろめあ短縮阻害物質の定期投与により、連中は不老をその手にしている。今さら彼に自由を与えることなどできない。


 二十四年二月、突如現れた全てを破壊しながら突き進むばっふぁろうの群れは、爆発的な勢いで地上を蹂躙し始めた。

 二十六年、核の使用を含めたあらゆる手段を講じた末、ばっふぁろうの群れに抗し得ないことをようやく受け入れた人類は、新天地を求める他に存続の道はないと決断した。

 そして三十年六月、急ごしらえで進められた惑星間移住計画により、残存人種のうちでも身体的精神的に繁殖に有望な個体から搭乗人員を厳選し、不老の源である男を搭載した船で当てのない居住可能惑星を探す旅へと出発した。出発の半年前の調査では、人類はその総数をすでに七割失っていた。搭乗員以外の残留人類は時を待たず滅びるしかないだろう。

 

 男の話は妄言だ。

 姉様の箱を奪い、館に火をつけて遁走した男。私たちの願いを足蹴にし、不毛な命を得た男。

 私は男が眠る水槽に手を当てた。高酸素溶解液の冷たさを感じる。

「箱を、あけてたも」

 

  

 


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