汗の薫り 陽春の風【KAC20243】

銀鏡 怜尚

汗の薫り 陽春の風

「この箱には、お父さんの想い出が詰まってるんだよ」

 すぐるは、愛娘の春華はるかに、白いがところどころみのついた箱を取り出して見せた。

「中に何が入ってるの?」

 傑は、説明するよりも見せた方が早いと思い、箱の蓋を開ける。

「わ! パパ、くさっ!」

「臭いって言うなよ」

 中には、白のラインが入った水色のアシックスのランニングシューズ。ただ、酷使したせいで黒ずみも付いているし、傑は汗かきだったから汗染みが付着している。

「この靴は何なの?」

 春華からしたら、汚い箱に入った何の変哲もない薄汚れた靴かもしれない。でも、世界でただ一つだけの想い出の靴なのだ。

「お父さんとお母さんを繋いだ、大切な靴なんだ」

「何それ? マリッジリングみたい」

 春華はお転婆てんばな小学三年生なのに、こういうマセた言葉をよく知っている。


箱根はこね駅伝えきでんって知ってるかい?」傑は春華に尋ねた。

「箱根って、パパの住んでたとこ? 駅伝? 駅弁なら知ってるけど」

「正確には小田原おだわらってとこに住んでたけどね。駅伝ってのは、マラソンのリレーだよ」

 春華はピンと来ないのか、頭にクエスチョンマークを浮かばせている。

「ほら、お正月に2日間に渡ってやってるやつ!」

「あ、フリーザ様が出てるやつね」

「印象に残ってるの、そこ!?」思わず突っ込んだ。


 フリーザ様とは、某人気アニメの敵キャラクターだが、箱根駅伝ではそのキャラクターに扮したコスプレーヤーが沿道で応援することで知られている。

 春華は、妻にそっくりで天真爛漫てんしんらんまんで、某アニメのアラレちゃんのように走るのが大好きだ。そして、思考も興味の対象も変わっている。


「そのフリーザ様の大会に出たの?」

「フリーザ様の大会じゃなくて、箱根駅伝ね。お父さん、1回だけ走ったんだよ」


 そう。

 傑は、大学進学を機に陸上を辞めようと思ったが、それを思いとどまらせたのが今の妻だ。

 妻は、一時は女子陸上界のスターと言われ、脚光を浴びた名ランナーだったが、病気で走れなくなった。その溢れんばかりの駅伝への情熱を、傑に託したのだった。

 

 最初は、あんたに駅伝をやらせるために同じ大学に入ったと、かなりぶっ飛んだ発言をしてたけど、あれがなかったら、憧れの箱根路を走ることもなかった。

 そんな妻と一緒に選んだ靴であり、またたすきを繋いだ仲間の想いも詰まっていた。


「でも、すごいね! パパ! あんな長い距離走ったの?」

「そうだよ。ま、パパは10区って言って、最終ランナーだったけどね」

「すごい! アンカーなんて!」

 箱根駅伝は、一般的なリレーと違ってアンカーは重要視されないが、春華にすごいと言ってもらえるのは悪い気がしなかった。


「アタシも、パパみたいにマラソン選手になりたい! パパみたいなカッコいい靴が欲しい!」

 そう言って、臭いと言っていた靴箱を持ち上げた。

 妻の遺伝子を存分に受け継ぎ、名前まで妻の漢字をもらった春華は、きっと名ランナーになるだろう。

「じゃ、今度、市民マラソン大会に出るか!?」

「うん!」


 窓の隙間からは、陽春の爽やかな風がそよぎ、麗らかな陽光が降り注いでいた。

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汗の薫り 陽春の風【KAC20243】 銀鏡 怜尚 @Deep-scarlet

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