朝露の如く

 玄関を開けた瞬間に襲う激しい雨足にすぐさま引き返したくなった。


 鉄雄は傘を広げると玄関でサンダルを引っ掛けた充希に言った。


「行くぞ」


 今日は充希の父が遠洋漁業から帰港する日らしい。充希は家に帰りたくない様子だったが、それでは充希の父が可哀そうだろうと言う事で家まで送る事にした。


「約束やさけね。父ちゃん帰ってくるまで一緒におってや」

「分かったって」


 足元はあっと言う間に水浸しになった。雨音が強くて、少し声を張らないと聞きとりづらい。


 傍らの充希を見て、そう言えばと思い出す。充希くらいの歳の頃には、雨の日はこうして燈子を傘に入れて家まで送る事が良くあった。


 鉄雄は思う。自分は人殺しだ。半ば忘れかけていたが、つい先日も、正当防衛とは言え、二人も殺めた。


 充希もまた、鉄雄が人殺しだと知ったら離れていくのだろうか。考えて、離れていくのだろうなと結論付ける。それが健全な反応だし、充希は健全な少女だった。


「どうかしたん?」

「何でもないよ」


 雨の中を進む。傘からはみ出した肩はずぶ濡れで、水滴が腹を伝い気持ちが悪い。


 昨夜に観た光景を思い出して身震いする。恐ろしく殺風景な営みだった。昔、映画で砂漠を横切る道路を延々と車で走るシーンを見た事があるが、それよりも殺風景で殺伐とした景色だった。


 ギノは言った。人が生きるには宇宙は孤独に過ぎると。“果樹園”と言う敵が居て、彼女は“果樹園”を斃す為にあの遥かな孤独を経て来たのだ。


 何が彼女をそこまでさせたのだろうか。


 可児家の門扉の前まで来た。充希が勢いよく傘から飛び出すと玄関まで駆けて、鍵のかかっていないドアを開けて家の中を覗く。


「あ、父ちゃんおるみたい」


 薄暗い廊下の先にリビングから明かりが漏れていた。「ただいま」と廊下を進む充希の背を見守る。


 どうやら問題なさそうだ。胸をなでおろして踵を返した瞬間の事だった。


 甲高い悲鳴が聞こえた。充希の声だった。


 反射的に土足のまま廊下を駆ける。


 薄暗い屋内に反応する様に視界に輪郭を確かめる様な光が奔る。暗視装置の様に暗がりを明るくした。


 視界の端にゲームの様なミニマップが表示され、リビングの方に赤い光点が発生する。


 リビングに入ると蛍光灯の真下、フローリングに倒れ伏す人影があった。ぐっしょりと濡れたシャツから滴る血が水溜りをつくっている。


 へたり込んだ充希に駆け寄る。


『どうした。何があった』


 ギノから通信が入った。鉄雄が辿々しく『人が、充希のお父さんが死んでる!』と答えると『すぐに向かう。充希を連れて直ぐに外に出ろ』と指示を出した。


『分かった!』と返して充希を抱える様に立たせた。


「ほらっ立って、いったん外に出よう」


 充希を立たせたところでミニマップの赤い光点がリビングから玄関に移動している事に気が付く。


ガチャ


 独りでに鍵が締まる音が聞こえた。


『ギノ、勝手に鍵が締まった。それに赤い点が』

『何ッ』荒い息遣いだ。『それは敵だッ!離れろ!!』


 玄関から走る様な足音が聞こえる。音の大きさに反して姿は見えなかったが、後先考えずに充希を抱えて体を投げ出した。

 

ヒュッ


 何かが空を切り、横たわる遺体の背に小さな穴を増やした。受け身も碌に取れず背中に激痛が奔るが歯を食いしばって立ち上がり、自分達がいた辺りを睨みつける。


『やっぱり見えない』

『気流探査モードに切り替えろッ!空気の流れで見るんだ!!』

『どうやってっ』

『とにかく念じろッ!出来なければ死ぬぞッ!』


 空気を見る。流れを見ると目を凝らすと白い靄が見え始めた。白い靄は遺体の上の辺りで淀み、人の様な形をかたどった。


『見えたっ』


 目が合った様な気がした。人影の動きが止まる。鉄雄は後ろ手に窓の鍵を開けると充希に言った。


「逃げ」

「お母さん?」


 透明の鱗が剥がれ落ちる様に姿を現した人影は充希の母、可児道子のそれだった。

 無感情な、昆虫の様な瞳を娘に向ける。

 

ビシィッ


 肉が軋む様な、或いは破ける様な音がした。可児道子の額から顎先にかけて奔った亀裂は音を立てて広がり、やがて頭頂部を中心に花弁の様に咲いた。


 赤黒い肉色の花弁が銀色に染まる。中心部から花柱の様な黒い三角柱がせり上がるとルービックキューブの様にぐるりと回った。


 銀色の花弁がゆらゆらと伸びて触手の様に先を鋭くする。


 ヒュッと充希が鳴らした喉の音は果して彼女だけのものだっただろうか。鉄雄は開いた窓へ充希を突き飛ばした。


 左肩に衝撃と冷たい感触。鎖骨の辺りから銀色の針が生えていた。


バチッ


 弾ける様な音と共に意識が明滅する。電流を流されたのだ。数舜の間意識を失い膝を着く。


 動け。今動かねば死ぬぞ。


 倒れる様に窓の外に身を投げ出した。雨にぬかるんだ庭の土に転がる。


「鉄雄っ」


 助け起こそうとする充希に「逃げろ」と呻く様に言った。視界すら定まらない。


 窓から白銀の花人間が覗く。不味い。逃げられない。逃げ切れない。何かないか。他に出来る事、何か無いか。残された手が。


 乾いた炸裂音が響き、花人間が僅かに傾ぐ。


『待たせたな!』


 ブロック塀を乗り越えて現れたギノは立て続けにもう二発の銃弾を喰らわせると弾切れになった銃を捨てた。


 体当たりをする様な前蹴りを喰らわせて地面に転がすと、頭部の三角柱を掴んだ。


 三角柱を引き抜こうとするギノに花人間は激烈な抵抗を見せた。花びらを鋭く尖らせるとギノの身体を斬りつけ、或いは突き刺していく。ギノは血と共にエメラルドグリーンの液体を吐きながらも耐えた。回復薬を既に服用しているのだ。傷口から噴き出した血と共に煙があがり、たちどころに傷口を塞いでいく。


 鉄雄はよたよたと立ち上がるとギノと共に三角柱を引いた。攻撃が鉄雄にも及ぶが、的が二つに増えたせいで花人間のギノの邪魔する手が緩む。


 最早、痛すぎて痛くない。ギノの手によって三角柱が引き抜かれる。


 暴れる様にびたびたと花弁で地面を叩いていたが、やがて断末魔の声を上げる様に痙攣して動かなくなる。


「ああぁ」


 魂が抜ける様な溜息が漏らして、泥濘に尻餅をついた。




「ほら、もう行かないと」


 搭乗を開始した東京羽田行の便の案内を聞きながら、充希の手を引いて保安検査場の列に並ばせる。


「・・・行きたない」

「そう言う訳にもいかないだろ?」


 住む家が無いのだから。続きの言葉を紡ぐ事は躊躇われた。


 花人間を斃してから二カ月の月日が経とうしていた。ギノによれば、あれらは“端末”と呼ばれる存在で、外星人が地球に降り立つ際に使役する召使ロボットの様な存在と言う話だった。大抵は頭部を挿げ替える事によって造られるらしい。


 端末を斃した後に残されたのは充希の両親の遺体に、ギノと鉄雄の血液、指紋をはじめとした痕跡の数々だった。


『止むを得ない。熱気化弾頭を使用する』


 上空の人型兵器から投下された弾頭は周囲の空き地ごと、充希の家を消し炭へと変えた。

 同時に充希が母親の正体を知った事を隠す為でもあった。ギノの説得に充希は悲しく頷いて、野次馬と共に燃え盛る家を見守った。


 警察は碌な捜査もせずに事故と結論付けた。


 二カ月、夏休みを前倒しにしてする事を決めると、塞ぎ込む充希を励ます為に朝から晩まで遊び惚ける毎日を送った。


 王陵町のレンタルビデオ店で安い映画を山ほど借りて、一本観る度に三人で似非評論家ごっこをした。


 鉄雄の一番のお気に入りは『タップ』と言う一九八九年公開のタップダンスをテーマにしたハリウッド映画だ。刑務所帰りの落ちぶれたダンサーが立ち直っていく過程を描いた、ストーリーとしてはありふれたものだったが、主演俳優のダイナミックで躍動感のあるタップダンスは鉄雄の心を強く惹きつけた。


 家の中で練習してみたが、運動神経の良い充希にあっと言う間に追い抜かれてしまった。


 列が進んで充希の番がやってくる。充希は仙台に住む叔父のもとに身を寄せる事になっていた。


「ほら、行きな」

「・・・・・・」

「電話するから」

「・・約束やで」


 充希がゲートの向こう側に消えるのを見送る。きっと直ぐに引っ越し先でも友達が出来るだろう。そして自分の事も、辛い事があった故郷の記憶も薄くなっていく。


「がんばれよ」


 鉄雄は小さく、囁く様に呟いて踵を返した。




 鉛の弾が目の前を通過した。


 正確に言えば鉛をギルディング・メタル、真鍮で覆った七・六二ミリ口径のライフル弾だ。発火炎と共に銃口から飛び出した銃弾が標的を破壊すべく飛翔する。


 福岡県警の警察幹部、山内一豊の眼前を横切った弾丸はやや離れた場所、拳銃を構える九州石動会傘下山神組の若者で、荒事があれば飛んでいく今時珍しい後知らず。


 銃を抜く間もなく柘榴の様に蜂の巣にされて地下一階の会員制高級クラブの床に血の染みを広げる。


 血の池が拡がるフロアをひたひたと歩く足音が近づいて来る。残りの命のカウントダウンを告げる様な不吉な足音だった。


 水面に広がる波紋の様に、水っぽい血の足音だけが響く。姿は見えない。ひたりひたりと足音は山内の前まで来ると止まった。


 ジィッと何か焦げる様な音と共に、透明の鱗が剝れ落ちていくかの様に目の前に白髪の女が姿を現す。


 現れた女は如何にも観光客と言った風体の軽装で、フロアを血の海に変えたであろうAK47を抱えていた。


 まるで魔法の様に現れた男に山内は声も出なかった。男はフロアに斃れる遺体の頭部に確かめる様に一発一発、銃弾を放っていく。


 懐には押収品を横流した足のつかないマカロフがある。隙を突いて反撃する以外に生き残る道はない。


 右の側頭部に硬いものが押し当てられる感触が伝う。銃口だ。反射的に目を向けようとすると「動くな」と銃口を押し当てる力が強くなる。


 両手を上げた山内の正面に立った声の主が懐のマカロフを取り上げる。


 そして山内は信じられないものを見た。


「なっ」声の主は少年だった。山内にはその少年が学生だとすぐに分かった。少年が詰襟の制服を着ていたからだ。


 学生の暗殺者なんて聞いた事がない。


『見つけた!』


 女が喜色に満ちた声を上げた。少年を油断なくゆっくりと距離を取ると視線だけを向けた。

 それは男の生首だった。ぶら下げる様に掴んだ髪の先に恐怖に歪む顔と滴る血。


 しかし、信じられない事に首から下を失ってもその表情は動いていた。


『か、勘弁してくれよぉ』


 情けなく響く掠れた声を信じられない様な心地で聞いた。


 少年は「今はそれより」と言って山内を銃口で指し示す。


「此奴はどうするんだ?連れて帰るのか?」

『うん?要らないんじゃあないか?』


 軽い調子で山内の命の行く末を決めようとしている二人に叫ぶ様に言った。


「俺は福岡全域を仕切る公安のトップだぞ!」


 山内の中で続きの台詞の選択肢が幾つも浮かぶ。「俺を生かしておいて損はないぞ」「お前ら警察を敵に回すつもりか」「金が目当てか」どれも違う。


 目的も背景も不明に過ぎる。


 言葉に詰まっている内に少年は女と目を見合わせると言った。


「知らないよ。そんな事」


 そう言って少年は引き金を引くと山内の眉間に銃弾を喰らわせた。




 空を見上げれば街灯の向こうに満天の星の海が広がる。


 誰も通らない道路を歩いて小さな砂浜に差し掛かる。暗がりを見通す瞳がぼんやりと誰も居ない砂浜を映し出す。全てはあの日、この場所から始まった。


 自分は何を得て、何を失ったのだろう。


 燈子の為に、手を汚したあの日から失ったものばかりを見て過ごしていた様な気がする。


 だが、最近は全てが思い過ごしだった様な気がしている。そもそも自分は何も得ていないし、だから何も失っていない。


 鼻歌を奏でながらステップを踏む。何度も繰り返したグレゴリー・ハインズの陽気なステップを。


『大分見れたものになってきたな』


 荷物を抱えながら後を歩くギノが言った。


「毎日、練習、してるからねっ」


 燈子も、仙台に引っ越した充希も鉄雄のものと言う訳ではない。離婚して会えなくなった母親だって、鉄雄のものと言う訳ではない。平和な日々も、別に自分が努力して成した結果ではないのだ。


 自身の命すら、自身のものではないのかも知れない。だから危険だと分かっても、ギノと共に銃を携えて外星人を狩りに向かう。


 自分がやるべきだと思うからだ。自分の命は自分がやるべきだと思った事のものだ。


 ニューバランスのゴム底の擦過音で無様なビートを刻む。

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放課後エイリアンハンター @kakeohayadori

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