幾千光年の孤独
解熱剤が効かない。
水で解いたポカリをコップの底のだまごと飲み干すと床の間の畳に転がった。
「ほら、起きて。火傷してしまうよ」
お盆に湯気のたつ丼を乗せた充希がキッチンから現れる。「はい」とテーブルの上に出された丼を覗く。
うどんだった。
「頂きます」と言って卵が溶かれた関西だしのうどんを啜る。シャワーを浴びて服を鉄雄から借りた充希は問いたげではあったが無言だった。軒先に干された服に目を向けると、少し不機嫌な様子で鉄雄を睨む。
部屋の隅にギノが所在なさげに胡坐をかいていた。目が合うと、少し草臥れた無表情をしていた。
きっと自分も同じ顔をしているのだろう。
うどんを啜りながら、茹った頭でどう説明したものか考えていた。
意外な程簡単に説明はついた。
ギノは瀬戸内町に訪れた観光客で、宿が見つからず困っていたところを鉄雄が泊めていること。部屋の血の後はギノが頭を打った際に流血したものだと説明した。
「量が多く見えるだけで実際は大した事ないんだ」
鉄雄と黙って頷くギノを胡乱な瞳で見る充希だったが、深くは追及してこなかった。
鉄雄の熱が下がり始めた事もあって、リビングのテレビで買い置きのジュースやお菓子を摘みながらスターウォーズのシーズン1を見始めた。
ギノは勿論、充希も観た事がないと言っていた。二人とも、今となっては古臭い絵柄を馬鹿にして見始めていたが、連続で見始めたシーズン2を見終わる頃には勝手に本棚を漁って続きを探す程熱中していた。
母が趣味で集めていた洋画のDVDで、スターウォーズ以外にも数多くの洋画、特にSF作品が揃っている。
そう言えば関西に出来たと噂の、ハリウッド映画を題材としたテーマパーク。開園したら連れて行って貰う約束だったと言うのに。
シーズン4のDVDを手に取った充希にそろそろ帰らなくて良いのか聞くと、
「鉄雄の家に泊まるって言うて来た」
とあっけらかんと言ってきたので、諦めて米を何時もより多く炊く。なるほど、さっき追及してこなかった理由が分かった。
「戻ってくるまで続き観たらあかんよ」
順番に風呂に入る事になった。昨夜に風呂に入る間もなく高熱に倒れた鉄雄は丸1日風呂に入る事が出来て居なかった。
何より寝汗で気持ちが悪い。さっさと入れと手を振りながら「十分で出なかったら僕も一緒に入るからな」と言うと顔を真っ赤にして風呂場に駆けこんだ。
怒ったのだろうか。意外な反応を目の当たりにして戸惑っていると、ギノは『もしやと思ったが』と口を開いた。
『気づいていなかったのか。充希は女の子だぞ』
「えっ」
風呂場の方でどたどたとした音が聞こえる。もう出た様だ。碌に体を洗えていないだろう。
「出たよ!」
濡れた髪をタオルでガシガシと拭きながら現れた充希を見て、
『これが女の子、と思っていても言ってはいけない』
腕に着けたままだった時計から声は聞こえた。驚きに思わず声を上げそうになる鉄雄を充希は不思議そうに見上げた。
ギノを見ると、彼は少し悪戯気に笑っていた。
常夜灯を見上げていると視界に薄っすらと格子状のラインが入る。暗さから判然としなかった室内がハッキリと見て取れた。
隣の布団に眠る充希を見た。普段は活発に動く表情も今は緩み、気持ち幼く感じる。
言われてみれば、確かに女の子とも見える。
いや、実際に女の子なんだよな。
『身体の調子はどうだ』
隣の部屋、ソファに横になるギノの声だった。慣れれば実際に声を出さずに会話をする事が可能らしいが、鉄雄にはまだ出来なかった。
『答えなくて良い。お前の身体に起こった事について簡単に説明する。そしてこれからの事も』
鉄雄を治療する為にギノが投与したナノマシンは全身に回復薬を消化、効能を発揮する為の受容体と同時に量子ネットワークを構築、疑似的なシナプスの様に繋がる事で構築された電脳にプリセットのソフトウェアがインストールされている最中なのだと言う。
『レイヤー1で上位権限の設定はおろか、干渉も出来ない、最もセキュアな代物だ』『アンナマリーのアクセス鍵も兼ねているからな』『初期状態では精々が目と耳が少し良くなったなと思う程度だ。気にする必要はないだろう』
次々と紡がれる言葉が、やがて途切れる。
『私は“果樹園”を探している』
果樹園。その言葉を紡ぐギノの声には抑制された、しかし煮えたぎるものが隠れている気配がした。
『果樹園?』心の中で呟いたつもりが、発声を伴わない通信を成功させてしまった。『上手いじゃないか』と言って言葉を切り、
『糞みたいな連中だよ』と吐き捨てた。
『この星の平和はな。危うい均衡の上に成り立っているんだ。惑星保護機構が幾ら規制しても企業連合体に金を渡して人を攫って行く様な連中が後を絶たない』
キャトルミューティレーションと言う言葉がある。宇宙人にアブダクションされた家畜や人間が内臓や血を抜かれた状態で発見されると言う都市伝説だ。
ギノは言った。それらは実際にあった事だ。数十年前は協定を無視して、かなり大っぴらに地球人に危害を加える外星人が居たそうだ。
“果樹園”と言うのはそう言った組織の中でも特に人身売買を取り扱う質の悪い組織だそうだ。
『連中は現地政府にも根を張っている。俺だけでは対処出来ない。これからの話と言うのはな・・・』
一度言葉を切り、続ける。
『私を手伝ってくれないかと言う相談なんだ』
鉄雄は上手い言葉を見つける事が出来ずに黙った。ここ数日で冗談みたいな目にばかり会っているが、今聞いた話はそれに輪をかけて冗談の様な話だった。
何故自分なのだろうか?理由なんて、他に居ないからに決まっている。
命の危険は?当然ある。
理由を探せば探す程引き受ける理由はなかったが、鉄雄は『僕に出来る事ならね』と答えていた。
『すまない。ありがとう』
沈黙が訪れる。外から微かに夏虫の鳴く声が聞こえた。
『そう言えばなんだけどさ』と話題を変える様に切り出した。『宇宙人なのにスターウォーズなんて面白いのか?』
ギノは『ああ、面白いぞ』と答えて、少し間を置いた後に思い出す様に語り始めた。
『船の航行は殆ど自動化されていて一人で出来るからな。大抵は冷凍睡眠を併用しながらの一人旅だ。あんな風に仲間と旅をしてみたかったな』
宇宙は孤独だとギノは言った。海をヨットで旅をする様なものかも知れない。大抵は変わり映えのしない海原で一人きりであれば孤独だ。
『小惑星帯はもっとスケールが大きかったけどな』
『それは観てみたいな』
『観るか?』
『え?』
『繋ぐぞ』
視界が急に明るくなる。
『え?』
鉄雄は宙に浮いていた。灰色の床が下に見えるから、辛うじて上下の区別はついたが、まるで水の中に居るかの様に身体が軽い。
上を見上げれば夜空より精細な星々を浮かべる闇があった。
『これは、十年程前だったかな。確かセントラル星系を出たばかりの頃だ』
傍らに同じ様にギノが浮かんでいた。
『ここは無人の補給港だ。クレジットを支払う事で自動機械達が船の整備や様々なサービスを提供してくれる』
そこは巨大な通路の様だった。緩やかに上方向に湾曲していて終わりが見えず、何となく空港の連絡通路に雰囲気が似ていた。
ギノがある方向を指さした。差した先を見ると、オートバイの様な機械で巨大なコンテナを引く人影の姿が見えた。吸い寄せられる様に近づいてコンテナの上に降り立った。
オートバイに跨る人影はギノを幾らか若くした様だった。女は増えた荷物を気にした様子もなくオートバイを走らせた。
『このコンテナはユニット化された補給物資で、食料や燃料、航宙船の補修物資等が詰められている。宙域の果ての無人補給港とは言えメガストラクチャーは広大だ。輸送も自動機械に任せると倍近い料金になる。だからこうして自分で運ぶんだ』
コンテナの上から高速道路の様に変わり映えのしない通路を眺めた。星の海とも言える宙を眺める事にも直ぐに飽き、やがてコンテナはパーキングエリアの様な施設に入る。
誰も居ない駐車場に鍵もかけずにとめると、無人の店内に入る。鉄雄は興味津々で店内を見渡したが、文字が読めないバーコードの様になっている事を除けば殆ど地球のそれと変わり映えしなかった。
電子決済の券売機で買った食券をカウンターの向こうに居る人型の自動機械に渡すと湯気をたてたヌードルが出てくる。
『あれは塩だったかな。ナトリウムは比較的簡単に取れるからな』
そして食べ終わり器をゴミ箱に捨てると椅子を繋げて仮眠を取り始めた。
まるで長距離ドライバーだ。
『あと三日はこれの繰り返しだったかな。少し進めるか』
再び景色が変わる。オートバイをとめて息をつく女の前に巨大な巨大な長方形の物体が横たわっていた。
長方形の装甲の一部が開いてタラップが降りる。オートバイごと乗り込むと円柱に足の生えた自動機械が近づいて来る。
『代ヱ繧ソ繝シ繝ウ』
ピッと電子音が響いてセンサーカメラをコンテナに向ける。
『讖溯繝サ遐皮ゥカ』
自動機械に背を向ける男について行く。長い通路を歩きながら、途中途中で様々な部屋が覗く。食堂、トレーニングルーム、そして誰も居ない個室がずらりと続く。
通路の終端の自動ドアをくぐると、そこは操縦席の様だった。半球状の壁と天井にはガラス窓の様に周囲の状況が映し出されていた。
複数の座席に囲まれて、一段高い位置に艦長席と思しき場所に女はどかりと腰を降ろした。
『船についても変わり映えしない事は変わらないな。飯食ってトレーニングして、航路を決めて。冷凍睡眠を使用する事もある』
宇宙船の船内の光景が掻き消えて暗闇に戻る。浮かんだ常夜灯の明かりが現実に戻った事を告げていた。
『どうだった?』と聞くギノに鉄雄は考えながら答えた。
『何と言うか、物凄く地味だったな』
笑う様な気配が伝わる。
『生殖可能なバイオロイドを連れて家族ごっこしている奴、戦闘用の自動機械に自分を総統と呼ばせている奴。色々な奴に会って来たけどな。そもそもが、宇宙は人が行くには孤独すぎるんだと、私は思うよ』
桟橋に降り立った可児雄二は揺れない地面に気持ち悪さを覚えながら大きく息を吸い込むと湿気た空気の感触。空は濁り、地面を小さくぽつり、ぽつりと濡らす。
一カ月ぶりの帰港だった。
「雄二、喜美ちゃんの店に飲みに行くけど。おんしゃなっとーする?」
「すんません。直ぐに帰るって道子に言うてしもたんで」
「ええってええて」
雄二の肩を笑って叩く男の後姿に軽く会釈しながら、重いドラムバッグを背負いなおす。
流石に早く熱い風呂につかりたい。船の連中は飲みに行く様だが、流石に磯臭い身なりで店側も迷惑ではないだろうか。
いや、流石に汗を流して着替えるくらいはしてから行くか。以前に参加した時はそうだった。
王陵町の方から出張って来た漁協と仲卸の連中が冷蔵トラックに積み込んで行く。
端の方に放置されたケースを覗いた。
「これはアイゴか?」
「せや。数も少ないし珍しいさけ、仲買人は誰も買わん」
瀬戸内町を担当している漁協の職員だった。
「うまいんやけどな。幾らですか?」
財布を取り出す雄二に「ええよ。持ってけ」と言った。
「魚市の連中にはわしから言うとくさけ。たまには嫁さん喜ばしてあげな」
ビニール袋に氷ごと入れて寄越された魚を受け取ると、増えた荷物の心地よさを感じながら帰りの坂道を登り始める。
瀬戸内町は漁港から住宅と田畑がある方向にかけては坂道になっている。津波の事を考えれば安心感はあるが、やはり帰り道は辛い。
途中、立ち止まって遠くに見える古い民家を眺める。分かれ道の十字路で、雄二の家がある方向とは違う。
小さな町だ。住民の事も良く知っている。娘の友人が住んでいるともなれば猶更。
長男の方を晩飯に誘ってやろうか。三嶋の息子が再婚で出来た義母と折り合いが悪くて、殆ど一人暮らしに近い状況である事は知っていた。
「息子になるかも知れんさけな」
魚を冷蔵庫に突っ込んだら呼びに行こう。
遠目に見る自宅は明かりがついていなかった。帰る日に留守だった事は余りなかった。
雨足が強くなってきた。
「うおっ、やべぇやべぇ」
雨に追われて道を駆ける。玄関に手をかけると鍵はかかっていなかった。
少し胸騒ぎがした。
「ただいま」
日常は退屈に満ちている。子供の頃に夢見ていた様な非日常が訪れる事はなかったし、物語の主人公の様に才能に溢れていると言う訳でもなかった。
精々、近所で評判の美人を一生懸命デートに誘って嫁にしたと言う程度だ。
自分にしては大したものだとも思っているが。しかし、この期に及んで、その不吉な事が起きようとしているのではないか。
薄暗いリビングをテレビの明かりが照らしている。妻の道子が電気も付けずにテレビの明かりを眺めていた。
「電気も付けやんでなんしちゃるんや」
電気を付けても道子は反応した様子を見せずに画面をじっと見つめていた。
妻は、道子は快活な女だった筈だ。そう言えば漁に出る間際、娘の充希が母の様子がおかしい事を気にしていた。
「充希っ、充希っ、おるかっ!?」
廊下から二階に向けて声を張り上げるが返事はなかった。
「なぁ、充希はどこに行ってん?」
道子は答えない。
「なぁ」
本当に自分の妻なのだろうか。無機質な表情はまるで中身を刳り貫いて剝製にしたかの様で、息をしている事の方がかえって不気味だった。
「なぁ、ほんまにどうしてもうたん」
半ば祈りを込めて呼びかける。
「道子ぉ?」
妻はぐるりと振り返った。
その目は洞の様に光を吸い込んでいた。
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