既視
それにしても本当に授業は退屈だ。
今は国語の時間で、教師は板書をしながら中原中也の「汚れちまった悲しみに」を解説していた。
恋人を友人の小林英雄に寝取られた中也の愚痴の様な詩だった。国語の担当は地味な眼鏡をかけた文学少女をそのまま大きくした様な若い女性。絶望的に授業がつまらない上に声が小さくて聞こえない。
退屈な授業でも真面目に聞いている振りをしないと内申点に差し障る。何せ生徒の人数は十名に満たないからさぼっていると目立つのだ。
そもそも失恋の勢いで書かれた様な詩を解説する意味が分からない。論理的に分析したところで言葉を選んだ意図も心象も、書いた本人にも分からないだろうに。
詩の中で何度も繰り返す「汚れちまった悲しみ」は最後には悲しむ事にすら飽いた様に思えた。
「鉄雄!」
廊下から名前を呼ばれた。良く知っている小等部の少年がランドセルを担いでずかずかと室内に入って来る。
クラスメイトは少年を横目に談笑していて、気が付かない内に授業が終わっていた事を悟る。寝てしまっていた様だ。
「校庭でサッカーやろうで」
併設されている小学校の五年生。可児充希。短髪に洗いざらしたシャツと短パンから覗く肌は日に焼けていて、活発な印象の少年だった。充希は近所に住んでいる少年で、常日頃から遊び相手になって居た。
土曜授業の四時限目が終わり、帰宅準備を始めている生徒も居た。鉄雄は教科書を通学用のリュックに放り込みながら「ごめんね、今日は塾に行かなきゃ」と答えた。
「なんや。つまらんの。じゃあ俺も帰ろうかな」
帰り支度を済ませると、サッカーボールを抱えた充希が跡をついてくる。二人で自転車を転がしながら、まだ日が高い空を歩いた。
「でさぁ、うち今BS入らんの」
充希はサッカーが好きで、親が加入している衛星放送の有料サービスでプレミアリーグの試合を片っ端から録画して言う。
以前充希の家に遊びに行った時にリバプールの試合を一緒に観た。続けて鑑賞したJリーグの試合は素人目にもレベルが違っていて、同じ人間が同じ競技をしている様には思えなかった。
充希は良く喋るから、余り話すのが得意ではない鉄雄には楽だった。ころころ変わる表情と話題に相槌を打ちながら歩く。
今は充希の家の衛星放送が急に受信出来なくなったと言う話だった。
「電気屋のおっちゃんに診てもろても原因分からんって。他の家でもCS以外観れやん」
拗ねた様に小石を蹴飛ばした。
「大人しく友達とサッカーやるなり、遊ぶなりするしかないね」
「あいつら、ボール追い駆けて団子になるだけやさけ。なあ、鉄雄んち遊びに行ってもええ?マリパやりたい」
「だから今日は用事があるんだって」
「用事って何よ」
「来週塾の」
小テストがあると続けようとして、充希の顔がみるみるうちに曇る。塾の小テストなんて嘘っぱちだ。
今家には誰も上げる訳にはいかないのだ。
しかし、落ち込んだ様子の充希を見て思わず「来週なら」と続けてしまう。
見る間に機嫌を回復させる充希に諦めて言葉を続ける。
「小テスト終わった後なら良いよ」
「ほんま?いつ終わる?」
「うーん、金曜日」
「来週は土曜日休みやんな?夜泊まってええ?」
「良いけど、お母さんには言うんだよ」
また不機嫌になった充希が言った。
「おかん、気にしやんよ」
喧嘩でもしたのだろうか。
「最近、なんか怖いんや」
充希の父は漁師をしていて一年の殆どを家に居ない為、普段は母親と二人で暮らしている。何度か挨拶した事はあるが仲睦まじい親子の様に思っていた。
喧嘩をする事くらいあるか。気を逸らす様に映画も観ようと提案する。王陵町のレンタルビデオ屋は意外と品揃えが良かった。
目を輝かせて何が良いかなとタイトルを次々と口にする。
田んぼに囲まれた分かれ道「じゃあな」と手を振る充希を見送った。
初夏の海沿い。蒸し暑さに額を拭いながら鉄雄は砂浜に降りた。穏やかな波が傾いた陽の光を照らす。
裸足になって砂浜を進む。一晩経って意識を取り戻した女はギノと名乗った。不愛想ながらも丁寧な態度で説明を求める鉄雄に応じた。
有体に言えばギノは宇宙人と言う事だった。資源が豊かで景観に恵まれた地球を巡って、随分前から外星人は互いに争っていて、主だった勢力間の均衡により直接的な干渉を禁じる協定が存在するそうだ。
ギノは協定と言う建前の裏で、密かに地球に降り立ち暗躍する外星人を追う、賞金稼ぎの様な仕事をしているそうだ。
『しくじってこの有様だがな』
ギノは身体の痛みに耐えながら肩を竦めた。
鉄雄は左手に巻いたGショックの様な時計に向かって「着いたよ」と告げた。
『すまんな。三〇秒程動かないでくれ』
夕暮れの砂浜にふわりと風がまって砂が飛ぶ。巨大な質量が上空へ持ち上がっていく様な気配がした。
飛行機が徐々に遠くなっていく様な音が微かに聞こえる。
『もう良いぞ』
ギノの言葉を聞きながら何も見えない空を見上げた。僅かに雲の浮いた青々とした空だった。
砂浜を踏む音が聞こえて振り返ると、観光客らしき二人組の男がこちらに手を振っている。半袖短パンに大きなバックパックを背負っていて、夏の王陵島では良く見かける風体だった。
「おーい、君さっ」
男の片割れが気さくな笑顔でかける。連れの男は砂浜を見渡す様にしながらゆっくりと歩いて後に続く。
「君さぁ、ここらで隕石落ちたって聞いたんだけど知らない?」
「隕石、ですか?」
いや、聞いた事ないですねと言いながら。十中八九、男が言う隕石と言うのは巨人同士の戦闘の事だろう。反応を示さない様に慎重に言葉を紡ぐ。
「塾が近くて、でも隕石?はちょっと聞かないです」
「そう?昨日の事みたいなんだけど。昨日もこの辺は通った?」
男は観察する様な瞳で鉄雄を見ていた。「いいえ」と答えたかったが、男の視線は嘘を見逃さない厳しさがあった。思わず「そうですね」と答える。
本当に旅行客だろうか。
「じゃあおかしいじゃん。見てる筈だよね」
逃げるべきか。しかし、もう一人の男は追い付いてきて鉄雄に問いかける男の肩を叩く。
「清久、反応があった。もう十分だろ」
そう言って鉄雄に銃を突き付けて来た。黒々とした鋼が高く差し込む日差しを鈍く照り返す。
引き金が引かれスライドが後退、排莢された黄銅の筒がくるくると回り、思いのほか多い煤煙が銃口から撒き散らされる。
鉄雄は気が付けば砂浜に倒れ伏していた。何が起きたのか理解できない。左の脇腹が火傷を負った様に熱い。
『何があった!』
ギノの声が聞こえる。そんなに大声を出したら周囲に聞こえてしまうと思い、そう言えば彼の声は鉄雄にしか聞こえないと言う事を思い出す。
「何をやっているんだ甘利!」
「この餓鬼は嘘をついている。それで十分だろう」
甘利と呼ばれた男は鉄雄の傍らに屈み込むとその手に持った銃を鉄雄に握らせた。
「お気に入りの砂浜で拳銃自殺。餓鬼の癖にクールじゃねぇか」と巫山戯た調子で言う男
に「証拠を残すつもりか!?」と返す男。鉄雄は助けてと言おうとして辞めた。きっと清久とか言う男も鉄雄を助ける様な事はしない。言い争っている内容も、人に見られたらどうすると言った内容だ。ギノに助けを求めたところで間に合うとは思えないし、そもそも重病人だ。
激痛を堪えながら頭をフル回転させる。手がない訳ではない。鉄雄のポケットの中には十錠のエメラルドグリーンのカプセルがある。ギノが寝ている隙にポケットに入れたそれが。人の物を勝手に持ち出す罪悪感はあったが、これがあれば万が一重傷を負っても瞬く間に癒す事が出来る。言わば保険のつもりだった。
万が一の保険を使う時が今来てしまった。
しかし、今は言い争って気が逸れているとは言え、ポケットからカプセルを取り出し、飲み下すまで見逃してはくれないだろう。
傷を癒しても、また銃弾を喰らって今度こそ積む。だから・・・。
渾身の力を振り絞って立ち上がると背を向ける自身を撃った男に向けて引き金を二回連続で引いた。一発目は外れたが、二発目が運よく後頭部にあたって男は倒れる。
驚いて固まるもう一人の男に向けて更に引き金を引く。腹を狙った一発が太腿に掠り、男は仰向けに転んだ。二発目、外すな落ち着けと言い聞かせて引き金を引くと狙い通りの鳩尾を銃弾が抉った。
「がっ」
男の呻きを聞きながらポケットに手を突っ込んでカプセルを自身が吐いた血液と共に飲み下していく。
早く効いてくれと思いながらよたよたと男の下に歩く。男は情けない顔で「殺さないで」と命乞いを始めた。
鉄雄は男の額に照準を定めた。勘違いしてはいけない。自分は弱者なのだ。本当に運よく逆転の流れを掴んだ子供に過ぎないのだ。
小説か漫画か、何時か読んだ物語の主人公の台詞を思い出す。
「得物を前に舌なめずりはド三流」
引き金を引いた。硬い金属音と破裂音と共に銃口から放たれた銃弾は、螺旋を描きながら綺麗に男の額へと吸い込まれた。
幼い頃、母親に千葉県にあるテーマパークに連れていって貰った事がある。仕事の虫で家に居る事の方が少ない母親だったが、転職した時に有休消化で一カ月程休んでいる時期があった。
梅雨の時期の平日に、学校を休んで遊びに行ったテーマパークは驚く程空いていて、殆どのアトラクションを大した待ち時間もなく乗る事が出来た。
お化け屋敷を黒い椅子型ライドに乗って回るアトラクションがお気に入りで、帰る間際に乗った三回目でライドが数分間止まるトラブルがあった。
暗い中、ただ静かに待つ時間を鉄雄は好きだった。隣に座る母を見上げて、口を開いた母は一体何を言っていただろうか。
薄暗い室内で鉄雄は目を覚ました。
『気が付いたか』
頭上からギノの声が聞こえる。暗くて良く見えない鉄雄は探す様に視線を左右に走らせると、ギノは『ああ、そうか』と気が付いた様に言った。
『実現ディスプレイを起動すると言うんだ』
「・・・実現ディスプレイを起動」
言い終わった瞬間、まるで緞帳が上がったかの様に闇が取り払われる。
鉄雄は空に立っていた。夕暮れに照らされた海平線がゆっくりと太陽を飲み込んでいく。
「うわっ」
驚きの余りバランスを崩して転んだ。そのまま遥か下にある深い海に落ちていく様な錯覚を覚えるが、球形になっているガラス質の床に支えられていた。抱える様に硬く握った銃把から引き金を引いた感触が蘇る。
『身体の調子はどうだ』
問いかけるギノは球形の中心部、様々な装置が拘束具の様に囲む座席に腰かけていた。体の調子と言われて撃たれた筈の腹を見降ろす。血の沁み込んでシャツを捲ると傷一つない肌が現れた。
銃を向けられた記憶。無我夢中で抗い、そうだ。自分は人を・・・・。
「・・・僕、人を」
震える体は恐怖か。或いは罪悪感か。
ギノは座席から降りると銃把を握る鉄雄の手に包む様に重ねる。優しく指を一本一本解いていく。
『お前が悪い訳ではない』
「でも、僕、人を・・・」
『なら死んだ方がましだったか?中には他者を害するくらいならば自死を選ぶ者も居るだろう。そう言う生き方もありだ。お前はどうだ?』
聞かれた鉄雄の中に撃たれた瞬間に沸き起こった死に対する恐怖、理不尽に対する苛立ちが蘇る。
死んだ方がましと言う言葉がある。きっとギノの言う通り、人を殺めるくらいならば殺された方がましと言う人間も中には居るのだろう。
だが・・・そうだ。自分は少なくともそんな人間ではなかった筈だ。自身はおろか、自身の大切な者ですら、守る為ならば。
震えが収まっていく。
ギノは銃把から鉄雄の指を解くとマガジンを抜いてスライドを引いた。薬室から薬莢を抜くとマガジンを戻して安全装置をかけた。
『ほら』と言って返された銃を受け取ると、ギノは辺りを見渡して『ここらで十分か』と言った。
『アンナマリー、海洋へ投棄しろ』
『ラジャー、サー』
感情を感じさせない女性の声が響くと、球形のガラスの先、左右から巨大な腕が前に伸びた。掌には人がすっぽりと収まる黒い袋を二つ乗せて居た。
掌が傾いて黒い袋が空へ零れ落ちる。やがて小さくなって着水するとそのまま浮かび上がる事はなかった。
『着水と同時に内部の有機物ごと急速に分解しながら沈むボディバッグだ。もう二度と人目に触れる事はないだろう』
着水の飛沫を上げたきり、さざ波が寄せては消えるのを眺めていると不思議な程に心穏やかな気分になった。
人を殺めたと言うのに?
疑問符をうちそうになる思考を無理矢理掻き消す。それに後戻り出来ないのは今更だ。
『一つ言っておく事がある。傷を治す為に汎連合軍仕様のナノマシンを投与した。恐らく初期適用の為に発熱すると思う』
そう言えばと、勝手にエメラルドグリーンのカプセルを持ち出して服用した思い出しておずおずと告げる。ギノは大して気にした様子もなく、『だから効きが早かったのか』と答えて続けた。
『血中、それから体細胞内にナノマシンを持たない者が回復薬を服用しても効果を発揮しないんだ』
ぼんやりとギノの言葉を聞きながら夕暮れに染まる海平線を眺めた。「ああ、そうだ」と思い出した様に言うとギノは『何だ』と聞き返した。
「熱が出るなら解熱剤とポカリ買って帰らないと。連れてってくれる?」
ギノは『お安い御用だ』と言って笑った。
ざらついた石の階段を一歩一歩登る。木々の隙間を縫う様に狭い階段に落ちる木漏れ日を踏みながら可児充希は汗を拭った。
階段が終わり石畳が拡がる。褪せた鳥居の向こうに神殿と社務所が見える。
社務所の一画、お授け所と看板が掲げられカウンター越しに白い小袖を着た女性が充希に気づいて手招きをする。
「ほい、例のぶつだ」
パンパンに詰められたビニール袋を受け取り中身を覗いた。
「あ、ズッキーニもある」
「揚げ茄子にすると最高にジューシーで美味しいよ」
北塞ノ神神社。本州紀伊半島に位置する総本社の分社だ。瀬戸内町においては海鮮を目当てに漁港に続いて観光客が訪れるスポットだが、今は観光シーズンを外している事もあって充希以外に参拝客は居なかった。
山頂の社に続く長い階段は充希にとってお気に入りの散歩コースだったが、今日訪れたのは散歩の為ではない。仲良くしている神主の娘が本州の親類から送られてきた野菜を分けてくれると言ったからだ。
何を作ろうか夢を広げる充希に「あ、ズッキーニは早めに食べちゃって」と言った。
「スーパーで欲張っちゃったけど食べきれなかったやつだから」
「何にするとうまいかな」と聞くと神主の娘は「うーん」と「卵ときくらげ入れて炒めると美味しかった。中華っぽいやつ。クックドゥで十分だと思うけど」
「うち、元中華料理屋やで?舐めて貰うちゃ困るな」
店をやっていた祖父が亡くなるまで、充希の家は瀬戸内町で唯一の中華料理屋だった。家庭用では出せない高火力のコンロも健在だし、料理好きの父からも漁から返る度に料理を教わるから、それなりに自信があった。
神主の娘はにやりと笑って言った。
「流石じゃーん。いつでもお嫁に行けちゃうね」
充希は無表情を装いながらも顔をさっと赤くする。それは学校のクラスメイトに見せる活発さ異なる少女染みた恥じらいだった。
事実として充希は少女だった。
ズッキーニを抱えて家を出た。母に「鉄雄ん家に行ってくる」と告げると、頷きもせずにじっと此方を見つめて、すぐにテレビの方へ向き直った。
以前はお喋りで口数の多かった母も、今ではこの調子だ。何か理由をつけて家を離れる事も多くなった。
日持ちしない野菜をお裾分けする。絶好の大義名分を手に入れた充希は鉄雄の家に向かう。料理なんて碌に知らないだろうから何か作ってやろう。ご飯を炊いて一緒に食べて、あわよくば泊めて貰おうと思っていた。
「こんにちは」
縁側で洗濯物を取り込んでいた鉄雄の祖母に挨拶すると、奥の離れに向かった。玄関のインターホンを押すが、反応は無かった。
「寝てるんかな」
鍵は掛かって居なかった。「ごめんください」と敷居を跨ぐと、僅かに開いた寝室の扉から蛍光灯の明かりが漏れていた。
「鉄雄、おる?野菜もってきてんけど」
家に帰った時に飲みすぎた麦茶が膀胱に限界が近い事を告げる。しかし来て早々にトイレを借りるのも少し恥ずかしい。
さて、どう切り出すかと考えながら寝室のドアを開いた。
鉄錆の匂いが鼻をついた。
疑問に思う間もなくベッドを中心に壁、床に茶色の斑点が飛んでいる。ベッドに出来た一際大きな染みの中心に鉄雄が横たわっている。
ひゅ、と喉から短く呼気が漏れて後ずさった。人一人の血液だとしたら、とても無事で済む量ではない。
「ひゃぁっ」
玄関に向けて駆けだした充希は脚を縺れさせて転んだ。痛みに耐えながら体を起こすと、玄関のドアが勢い良く開け放たれた。
知らない、大柄な白髪の女だった。
その瞬間、膀胱の蛇口が一気に緩くなる。股間を湿らせる感触が伝う。ベッドが軋む音がして、寝室から鉄雄が茹で上がった様な赤い顔を覗かせる。
「これ、どう言う状況?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます