六条御息所と末摘花の事件簿

あきのな

第1話 芥子の香箱

 どこもかしこも古くそして陰鬱ですらあるはずの家だが、そこかしこに妙に『華』がある。古い食器や家具は、外国から渡ってきた価値あるものばかりである。これでどれもこれもが埃まみれになってさえいなければ、の話だが。

 六条御息所は目を細め、そして館の荒れ果てた、密林にも似た風情の欠片もない庭に視線を投げてから、息を吐いた。そして、辛うじて慌てて掃き清められた館の床の抜けそうな廊下を、この館の使用人であろう、この館にぴったりな風貌の老女達に案内されながら静々と歩く。

 自分の突然の来訪に棒のように硬直し、部屋の隅でただただ目を白黒させていた『末摘花』と呼ばれる常陸宮の姫君は、宮中でかつて使われていたという香の種類を、それでも、いくつかぼそぼそと教えてくれた。

「常陸宮の姫君は香に詳しいとお聞きしたの。こうして訪ねて正解だったわ」

「こ、こ、香のことなら……」

「香合わせは……」

「笑われるのが、怖くて」

 あまりにも特徴的すぎる、彼女の赤く大きな鼻で香を嗅ぐ姿を笑われたことがあるのだろう。

 滅多に人前に姿を現さない古の高貴な姫君。朽ち果てそうな古い館に引きこもってしまったのには、そういった嘲笑もあったのかもしれない。

「………これが、私の館に毎晩送られてくるのだけれど」

 末摘花が目を瞬かせて、もう一度、差し出された香箱の香りをゆっくりと嗅ぐ。その巨大すぎる鼻で香箱に鼻を寄せる姿は、確かに滑稽でもあった。そんな末摘花が、首を傾げて言った。

「………芥子?………普通は、香には、使われない」

「え?」

「あまり、身体によくないと、兄が……私には、阿闍梨の僧になった兄がいるので……教えて、貰いました、です、はい」

 六条御息所、この平安の都におけるトップレディのひとりを前に、ぼそりぼそりと末摘花が言った。

「身体に、よくない?」

「修行に、使う………えっとむしろ、心を、どこかに飛ばして、しまうような」

 そんな香を自分に送りつけてきたのは一体誰なのだろう。

 源氏の君に入れあげたり、通われたりしている女は数多いというけれど、憎まれた覚えなどない。

 もっともあの薄情な年下の若者は、最近は自分のところに昔ほど通ってこなくなった。それを歯がゆく感じているのは自分の方だというのに。

 なんでも一晩だけこの常陸宮の姫君もまた、源氏の君と情を交わしたらしい。絶世の美女と勘違いして屋敷に乱入し、朝になって彼女の顔、特に特徴的な巨大な赤い鼻に驚愕したとかしないとか。面前の女性には悪いが、正直いい気味だ。そんな、顔中が鼻で出来ているような姫君が、言う。

「決して、いっぱい吸ってはいけません」

「心を、飛ばす………ね。いっそあの薄情な男のところに、飛んでいってしまいたいものね」

「いっぱい吸うと、変な気分に」

「そうね、あの男のことを考えると変な気分になるの。こんな香なんかいらないのに」

 六条御息所が溜息をつく。滅多に人前では弱音一つ吐かないトップレディが、何故か、ホコリまみれの古い館の、大きな鼻のレディの前で、本音を呟く。そんな自分自身に驚いたのか、数秒黙り込んだのちに、六条御息所は、庭に視線を投げる。自分の六条の舘の整った庭とは正反対の、『よく言えば』野趣に溢れた庭に、侘しいが、少し優しい風が吹く。その優しさがなんなのか、自分にはわからなかったが、もしかすると、孤独にただただ寄り添うだけのこの有り様が、今の自分には心地よいものなのかもしれない。

「………また、来ても宜しくて?」

「え、あ、は、はい。おもてなしも、なにも出来ませんが」

「いいの」

 六条御息所が静かに、香箱を手に立ち上がる。香なんかいらぬほどに美しい姿。

 末摘花は思わず首を傾げる。あの人、そう、源氏の君は何故、こんなにも美しい人を避けているのだろうか。

 常陸宮のひきこもりの姫君こと末摘花には、皆目見当もつかなかった。

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