アイリスの箱

ただのネコ

ある夜の話


「困ったときは、この箱を開けなさい」

 魔女だった祖母はそう言って、手のひらサイズの立方体の組木細工を遺した。

 部品を少し動かしてみたが、開け方はまるでわからない。放っておくとそのうち勝手に元の形に戻っている。さすがは魔女の遺品。



 その夜も酒場で、組木の箱をいじっていた。

 少し喉が渇いたので、箱を置いてエールを一口。


「お手伝いしましょうか?」


 そう声をかけてきたのは、眼鏡の男だった。


「開けられるの?」

「自信は無いですけど」


 私は椅子を勧め、彼の手に箱を押し付けた。


「何が入ってるんです?」

「さあ?」

「さあって……」


 呆れてるが、箱をいじる手を止めない。真面目なやつめ。


「祖母の形見でね。困ったときに開けなさいって」

「困ってるんですか?」

「その箱が開かなくて困ってる」


 彼の指の動きが早くなる。私では動かせなかったところが動き、立方体が花のように広がっていく。


「それって、意味なくないですか?」

「そうね」


 多分、別の困りごとがあったはずなのだ。なんだっけか。息子が魔女を継がないってゴネてること?


「開かないなら、開けるべき時じゃないのかもですね」


 彼は部品の一つに指をかけて動きを止める。鍵のような形の部品には、アヤメの花が彫られていた。私の名を示す花だ。


 私はそれほど困ってないのかもしれない。

 別にいいじゃないか。息子は息子の生き方があるのだし。時が来れば祖霊のお導きもあるだろう。まぁ、多分。


「おごるよ、飲みな」

「どうも」


 彼は箱を置いて、私が押し付けたエールのジョッキを干した。

 その後、箱が勝手に元に戻るまで彼と一緒にいた。


 そんな一夜の事を思い出し、私はベッドであおむけのまま組木の箱をいじる。あの夜以来、アヤメの彫られた部品を見たことはない。

「ん、その箱開けるの?」

 隣に寝ていた旦那が、枕もとの眼鏡を探す。その手を押しとどめて、頬にキスをした。

「んーん。まだいい」

 箱の中に何があるのか、幸いなことに私はまだ知らない。

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