その箱の中身
lager
その箱の中身
美しい小箱だった。
両手に収まるほどの大きさで、天面はブルーを基調とし、その他はベージュ。
その全てに、六芒星をモチーフにした精緻なパターン模様がびっしりと描かれている。
いや。描かれているのではない。
嵌めこまれているのだ。
色とりどりの星と花。
海原のような。宇宙のような。万華鏡のような。
碧、蒼、黒、黄、白、朱。
艶やかで、それでいて慎まやかすら感じる、計算され尽くした微妙な絵柄。その模様一つ一つが、黒檀、ナツメ、真鍮、貝、駱駝の骨を加工して作られたパーツによって組み上げられているのである。
――
その芸術品のような小箱を、皺の寄った小さな掌が、優しく撫でさすっていた。
「おばあさま。その箱には何が入っているのですか?」
そう問いかけた柔らかな黒髪の少年に、揺り椅子に深く腰掛けた祖母は静かに微笑みかけた。
「この箱にはね。私の全てが詰まっているのよ」
「全て?」
「ええ。色々なことがありましたからね。とても一言では言えないわ」
そう言って、もう一度小箱を撫でた祖母の顔が、とても優しくて、それなのにどこか悲しそうにも見えて、少年は何故だか落ち着かない気持ちになった。
「うふふ。でもね、全部大切なものなの。そう。全部が特別で、かけがえのないもの。だから、こうして箱の中に詰め込んでるのよ」
けれど、愛おしそうに箱を撫でる祖母の掌の動きと、そこに描かれた鮮やかで精緻な模様に、少年は魅了された。
きっと祖母にとって、その箱は本当に、本当に特別で、大事なものなのだ。
このくらいの歳の少年にとって、誰かが大切にしているものというのは、それだけで不可思議な魅力を持つものだ。それが自分にとってどんな意味を持つか、そんなことは関係なく。
祖母がこれほど大事にしているのだ。きっと、すごく価値のあるものなのだ。
そうだ。だって、あんなにも美しい。
少年の中では、既に箱の中身と箱自体は等質のものとなっていた。
「僕もその箱がほしいです」
「うふふ。そうね。いつか見つけてご覧。あなただけの特別な箱を」
「僕だけの……。そんなにきれいな箱が、他にもあるでしょうか」
「そうねえ。残念なことに、これを作ってくれた
「えっ」
なんでも、ハータム・カーリーを作る職人が跡継ぎを決める前に亡くなってしまったのだという。
「昔はね。色んな所に職人がいたのよ。けれど、最近は流行じゃあないなんて言って、作る人がどんどん減ってしまったの」
「そんな」
どうしよう。少年は狼狽した。
そこで、じゃあ自分が作れるようになるよ、なんて言えたらどんなに良かっただろう。しかし、彼の家は代々軍人を排出してきた生粋の武家だ。
少年もずっと、士官を目指して勉強と訓練を重ねてきた。
今さら工房に弟子入りなんて、できるはずがない。
「安心をし」
「おばあさま?」
「大丈夫よ。こんなに素敵な技なんだもの。決してなくなったりしないわ。ほら、ご覧」
そう言って祖母が顔を向けた窓の先には、日差しを浴びて宝石のように光るカスピ海が見えた。少年の思い出と共にある、美しき祖国の景色。
「美しいものはなくならないの。人の思いも、技も、繋がれて、継がれて、続いていくのよ」
「続いていく……」
皺だらけの掌が、青い小箱を撫でる。
それ自体が宝石のような、美しい箱。
少年の瞳に、今、その光が受け継がれた。
◇
それから、少年は育ち、成長した。
かねてからの望み通りに軍人として国に仕えた。
最初は騎兵隊の馬丁から始まった。
朝早くから馬の世話をし、体を鍛え、心を鍛えた。
恋をしたこともあった。
無茶をしたこともあった。
仲間とはしゃぎ、家族を愛し、国にその身を奉じた。
やがて連隊長となった。
将校となった。
そして軍の総指揮官となり、戦を起こした。
外国の支配下にあった首都を奪い返し、祖国の力を取り戻したのだ。
少年は英雄となった。
少年は国主となった。
少年は国のために戦い、民のために戦い、そして。
そして――。
◇
そして、少年は今、すっかり皺の寄った指で、小さな箱を撫で摩っていた。
掌に収まるほどの大きさの、六角形の小箱。
小さく美しい、ハータム・カーリー。
彼は国主として、様々な事業を行った。
司法改革、国民銀行設立、女性解放、国土縦貫鉄道の開設。
そして、教育改革。
その一環として開校された工芸学校では、廃れかけていた伝統芸能を復活させるべく、国中から職人を集めて技術の継承に注力させた。
その、第一期卒業生から贈られた、記念品である。
世界を火にくべた戦の炎は少年の祖国をも巻き込み、少年は国主を退き外国へと追いやられた。その際に、この小箱だけは失くさぬよう、懐に入れて大事に持ち出していたのである。
二度の亡命を経て、少年はいささか疲れていた。
ここ最近は、起き上がって散歩をするのも億劫になっていた。
眩い日差しが照りつける窓に手を伸ばし、カーテンを閉めた。
たったそれだけのことで、少年は大儀そうにソファへ深々と腰かけ、溜息を漏らした。
再び美しい小箱を手に取ると、周りに誰の気配のないことを確認し、一度だけ目を閉じ、箱を開けた。
その、瞬間。
風が吹いた。
緑色の風だ。
潮の匂い。
美しきカスピ海の輝き。
鳥の声。
花の匂い。
祖母の揺り椅子。
鮮やかな絨毯。
両親の掌。
馬の嘶き。
日差しの熱。
熱い風。
涙。
友の声。
女の体の柔らかさ。
赤子の頬の柔らかさ。
酒の飛沫。
星の輝き。
故郷の歌。
土の匂い。
鉄の匂い。
青い空。
白い空。
どこまでも続く――。
――――。
「閣下?」
不意にかけられたその声に、少年は我に返った。
振り返ってみれば、少年の身の回りの世話を焼いてくれる若いメイドが、不思議そうにこちらを見ている。
空の小箱を開けて、夢想にふける老人の姿を。
「その箱、いつも大事そうにしてますけど、何が入っていたんですか?」
その質問に、少年は柔らかく微笑んで答えた。
「私の全てさ」
◇
ペルシャ最後の王朝、パフラディー朝の初代皇帝――レザー・シャー・パフラヴィーは、イランの近代化を推し進めた国主として歴史にその名を残した。
彼が成し遂げた業績の中に、廃れかけていた伝統工芸の復興があったことも、歴史書の片隅にひっそりと記されている。
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