小さな箱を抱きしめて

野森ちえこ

雨音を聞きながら

 どうしても持っていきたいものがあったらひとつにまとめておきなさい。おおきいのは無理よ。お母さんが片手で持てるサイズでね。

 そう母にいわれたのは小学五年生の冬。


 暴力的な父だからこそ、できることなら話しあったうえでちゃんと別れたい。

 しかしそれが現実的ではないということも母はわかっていた。

 話しあいが決裂したなら荷物をまとめている時間などまずもらえない。というより身の危険がある。

 かといって、せまい団地の部屋で父の目を盗んで荷物をまとめておくのも不可能。だからパッと持っていけるサイズであり、家のなかにあっても不自然ではないサイズである必要があったのだ。


 そうした条件のもとであたしがえらんだのは、縦三十センチほどの長方形のおかし箱だった。クッキーだかおせんべいだかがはいっていたやつだったと思う。

 そこにつめこんだのは、確かそのころ好きだったアイドルのプロマイドだとか、集めていたシャーペンのなかから特に気にいっていた一本だとか、いまにして思えばガラクタのようなものばかりだったような気がする。でもそのときは本気で大切にしていたものたちだった。


 そうして両親共通の知人にも第三者として同席してもらうことになっていた話しあい当日。

 あたしは遊びにいくふりをして、おなじ団地の階下に暮らしていた母の友人の部屋に避難していた。


 母の命が危険にさらされているのではないかと、身の縮むような思いで待つこと数十分。

 結果は予想どおりの決裂だった。

 第三者が父の足どめをしてくれているあいだに、あたしを迎えにきた母の手にはあたしのコートと手さげバッグがひとつだけ。

 そのバッグのなかには、あたしのおかし箱が確かにはいっていた。


 たぶん、このときの経験が原体験となったのだと思う。


 生活には特に必要がない、けれどとても大切なもの。それを守ってくれた母の気持ち。


 大人になったあたしは宝箱の中身なんてほとんどおぼえていないし、実物はいつのまにかどこかに消えてしまったけれど。

 それでも着の身着のままで父のもとから逃げだした、当時のあたしを支えてくれたことはまぎれもない事実だった。


 それからあたしは単行本サイズの小さな箱に『いまの大切』をいれておくようになった。

 一年に一度、その年のおわりに見直して、必要ならいれかえる。

 いつからか、気がついたときにはそれが習慣になっていた。


 お守りのような習慣だったけれど、あたしはいま避難所で、その小さな箱お守りを抱きしめている。

 暴風雨による土砂崩れで、ひとり暮らしをしていた木造アパートが半壊してしまったのだ。


 いまの宝箱にはいっているのは、祖母の形見のペンダントとか、はじめての給料で買ったピアスとか、友だちから誕生日にもらったメッセージカードとか、写真データがはいったUSBメモリとか。

 やっぱり生活には特に必要ない、というか役に立たないものばかり。


 だけどとっさの判断で、避難リュックと共にこの宝箱を持ちだした自分をほめてやりたいと思う。


 いまだ雨がつづいている現状でできることといったら精神の安定をはかることくらいだ。

 でもそれが、現在もっとも大切なことなのではないかと思う。

 いざ生活を立て直すときに必要になるのは心と身体の健康だろうから。


 だからあたしは、胸に小さな箱お守りを抱きしめて、荒れる雨音を聞いている。

 思い出とか、感情とか、あたしをあたしにしてきた、たくさんの記憶が心のなかで遊んでいる。


    (了)


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小さな箱を抱きしめて 野森ちえこ @nono_chie

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