彭城の振鼓(ほうじょうのふりつづみ)

百舌すえひろ

彭城の振鼓

ひさしの下で風船のように膨れ上がったスズメバチの巣を源次げんじの素手が叩き落とす。

離れた場所から見ていた佳乃よしのと母親が金切声を上げるが、源次はどこ吹く風だ。

ランニングシャツにステテコスタイルという無防備な格好のまま、スズメバチに向かってしまう。


源次は今年米寿を迎える。小柄で、骨に皮が張り付いたような老人。

しかし、その体から繰り出される打擲ちょうちゃくは、しなる鞭のように派手な音を立てる。

あの腕に打たれようものなら、三日間は痛みと痕がひかない。

普段は寡黙で話す声も小さいが、くしゃみと笑い声だけは家中に響くほど大きい。

スズメバチ相手に素手で立ち向かうなんて正気の沙汰じゃないのに「おめぇっちはおおげさなんだぁ」と額をテカらせ、歯がほとんど抜け落ちた口を開け、笑いながら縁側で履物を脱いだ。


「まぁた源次げんじさんかぁ」

玄関の生け垣から、庭の様子を眺めていたお向かいの蓬田よもぎださんが笑っていた。

「あの人はいくつになっても元気だねぇ」

蓬田さんが佳乃と母親に声をかけると、家の中から「義一ぎいちうるせぇぞ」と源次の声が飛ぶ。

「お騒がせしてすみません」

「源次さんは恐いもの知らずだから。困った人を見ると、何かしなくちゃ気が済まない質なんだもの。近所でも有名だい」

そう言うと、佳乃に向かって茶目っ気たっぷりに片眼を瞑る。

佳乃は蓬田さんの言葉に目を見開いた。

「やだ、おじいちゃんったらそんな名物爺になっちゃってたんですか……恥ずかしい」

「恥ずかしいことなんてないよ、凄かったんだから」



昔ね、川を挟んだ隣の十六町内で『狐憑き』騒動があったんだよ。

まだ携帯電話やインターネットが普及する前のことだから、口さがない人間から噂が回っていたのだけどね。


『狐憑き』ってわかる?

悪い狐の霊に憑りつかれると、人語を喋らなくなって、犬みたいに四つん這いになって歩いたり、わけのわからない叫び声をあげたりして、意志疎通がとれない状態になっちゃうことだよ。


十六町内会の端の家で、家族全員が狐に憑りつかれてしまったって噂される家が出てね。

その家の前を通ると、昼でも夜でも気の狂ったような女の悲鳴が聞こえて、その狐憑きを払うって名目で、その家にどこかの宗教団体みたいな白装束の人たちが絶えず出入りし始めて、活動拠点みたいになっちゃってた。


そこの町内会長をしていた人は、その家の周辺でうろつく不審者やゴミ、騒音の問題を警察に相談していたんだけどなかなか動けなくてね。

当然の成り行きだけど、近所の人は気味悪がって誰もその家と関わろうとはしなかった。

けどね、源次さんは隣の町内会にも関わらず、二十センチ四方の桐の箱を二つ持って、その家に突撃したんだ。


「こんにちは! オラぁ、十八町内会会長の礒崎いそざき言いますわ」

玄関先でそう言うと



「まって。なんで蓬田さんがその時のおじいちゃんの様子を知ってるの?」佳乃が口を挟む。

「その時、僕も源次さんに連れて行かれたからだよ」蓬田さんは眉を下げて苦笑いした。

「ねぇ、あとうちは礒崎じゃないよ」

「源次さんは偽名を使ってその家に上がってしまった」



「霊験あらたかなお方がいらっしゃると伺いましたァ」

源次さんはニコニコしながら白装束の一人に話しかけると、明らかな不審者に信者たちがざわつき、源次さんを追い出そうと二人の男が源次さんの肩を掴んだ。


「まってくだせェ! オラんとこものあるモンが蔵から出ちまいまして、どうか、ご教主さまにお祓いをお願いしたいんですわ」とその家の玄関の三和土たたきに額を擦りつけ、手をついて土下座した。


助けを求めに来た人間ならと教団の人間が部屋の奥に通すと、一段高い所に狐に憑かれたと噂の一家と、昼夜お祓いをしている教祖様という男が、源次さんと僕を見下ろした。


「すみません。これがね、蔵から出てきまして」そう言って源次さんは桐の箱のひとつをおもむろに開けると、覗いた教主は「でんでん太鼓か」と呟いた。


源次さんは再び頭を下げると「ハァ。そいつァ、誰も触ってなくても、ひとりでに鳴るんですよォ。オラんおっ母が満州行ってた時に、現地の支那人からもらったって聞いてたんですけどねぇ。『彭城鼗ほうじょうとう』と言う、値打ちのあるものだと言われてて、亡くなったかかあの思い出の品なんでなかなか処分できずに困ってまして」


「なるほど、私が預かってもよいが……」教主は言い淀み、隣の幹部女性を見ると「喜捨せねば、呪いは解けませんぞ」女性の声は室内を震わせた。


「すぐ、この場では解いてもらえませんか」と源次さんが食い下がると、「呪詛された物の浄めには時間がかかるものだ」と言われ、「そこをなんとか」と周囲の信徒たちが止めるのも聞かずに箱の中のでんでん太鼓を取り出したんだ。

朱色の塗装がはけ、素地がむき出しになり黒ずんだそれは、両側のバチに当たる玉飾りが紛失していた。にも関わらず、


ぽっぽんぽぽんぽんぽんぽぽぽんぽんぽぽん――……


源次さんが取っ手を持って宙にかざすと勢いよく鳴り出した。

「ホォラ、見てくださいよォ」源次さんは心底困ったという顔で教祖ににじり寄った。


「呪物なぞではないわ」

でんでん太鼓を見て教祖は笑い出した。

つづみの中に何か入っておる! たばかりおって」そう言うと、教主は周囲の信者たちにも聞こえるように太鼓を一番近くの信者の耳にかざす。


――ぶぶぶぶぶぶ……


鼓の皮が弾かれる音に隠れて、かすかな羽音が聞こえた。

「中に虫を入れておる!こんな子供だましで教主様を試そうとしたのか」信者たちが一斉に源次さんを抑えつけようと向かってきた。


「そこに入ってるのはスズメバチですがね」

源次さんの言葉に、信者たちが止まる。

「虫ごときで騒ぐな!」

教主が怒りを露にして、振鼓を床に叩きつけた。

床に落とされた振鼓を源次さんは慎重に拾い上げると「スズメバチに刺されて死ぬことは恐くないんですかね」と怒りでわななく教主の顔を覗き込む。


「教主様は俗世の欲など、凌駕されておられる」女性信者が平然とした顔つきで源次さんを見下ろした。

「ああそう。じゃあ破ってしまおうや」源次さんはあっさり鼓の皮を破ってしまった。


中から三匹飛び出し『ぶぶぶぶぶぶぶ』と勢いよく部屋の中を飛び交うと、周りの信者たちはあたふたと部屋から逃げ出した。


残された教主は「そんな茶番を仕掛けに来たのか」と怒鳴ると、源次さんはそれに負けない大声で

「神仏を崇めるのは結構だが、他人様の難儀に付け込んで金品巻き上げる輩はでぇっ嫌いなんだぃ!!」と言うと、教主に向かって振鼓を投げつけたんだ。

中に残っていた一匹が教主の眼前に飛び出した。


「ひいっ」と短く叫ぶと、彼は手を振りながら部屋中をまわり、入り口の襖を開けようとした。


「まだあるぞ。どうすんだい」源次さんは後ろから、もうひとつの二十センチ四方の桐の箱を恭しく差し出した。


箱の中からは、さっきの鼓とは比べ物にならないほどの羽音が響き渡った。


「やめろ、開けるな! 持って帰れ!!」

教主は部屋から出ようにも、一足先に外に出た信者たちが外から襖を抑えてしまったため、彼は締め切られた襖に手をかけながら叫んだ。

源次さんは怒鳴った。


「あんたらが立ち去れぃ! 近所迷惑なんじゃぁ!」


*


「それでそのカルト教団は出て行ったの? ……じいちゃんは、気に食わないからと言って、他人様にスズメバチをけしかけたのか」佳乃が顔を引きつらせると、蓬田さんは「どうかな?」と言って側に来ていた源次に視線を投げる。


「太鼓にも箱にも、入れてたのはクマバチじゃ。そんな大量に入らんわ」

そう言うと、さっき処理したスズメバチの巣を45Lゴミ袋に入れて口を結んでいた。


「オラが就任した役職は、後にも先にも『町内カラオケ会長』だけじゃ」

源次は皺くちゃの顔をさらにくしゃっとさせると、片耳に小指を入れて目を細めた。


「狐憑きにあってた一家はどうなったわけ?」佳乃がうろん気に源次を見る。


「蜂が出た時点で他の信者と一緒に逃げてたよ。本当に正気を失くしてたなら、正常な判断なんてできないものだけどね」

蓬田さんはそう言うと「スズメバチに刺されて死ぬ恐怖を考えたら、演技や思い込みより、生存本能が勝るのかもねぇ」と苦笑いした。

彭城鼗ほうじょうとうってなに?」と佳乃が聞くと、

「それっぽく見せるための出まかせじゃ」と尻をかきながら源次はあくびをした。

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