死に近い場所
千羽稲穂
ふらふら、ふらふらと幽霊のように。
これで五件目の不動産だ。地元から離れ、なんだかんだ仕事になじめずに、引っ越しをして、違う土地に行きつく。そのたびに不動産をはしごすることが多くなった。この土地では既に五件目の不動産。内見の数はもう覚えていない。朝、「お部屋をお探しですね」とにこやかに営業スマイルを持って内見していたはずの営業さんは営業終了時間間近になると既にくたびれていた。
「どこでもいいんです」とぼんやりと言っていたからか、「では、ここなど駅に近くていいんじゃないでしょうか」と何かズレた答えが返ってくること数時間。そうではないんだ、と薄い意識で、「はあ」とだけ応えてしまう。
「一階が良いでしょうか」
「いえ」
「それでは二階」
「えっと、」
「女性ですし、防犯のことも考えて、交番の近くなど」
「そうではなくて、」
「バス・トイレ別などの条件も」
「それも、ちょっと、」
「では、どんなところが良いのでしょうか」
営業さんは何も悪くはない。次第に早くなる営業さんの貧乏揺すりも、早口になってしまう言葉も、早く決まってくれと眼力が強くなっているのも、私が具体的なことを何一つ言えないからだ。
生まれ持っての性質だろうか。どうでもいい、から、どこでもいい。あなたが決めてほしい、とメニューを相手に差し出してしまう。これでも努力はしているのだ。差し出されたメニューから、選びとったことだってある。でも、選んだ後は、冷や汗が止まらないし、舌はからからに干上がってしまう。相手の顔色を見すぎて、自分の顔色が青ざめていることに気づかない。一日憂鬱な気分に落ち込み、最悪次の日は起き上がれない。布団の中にまるまり「仕事、辞めます」と電話をかけたことなんて何度もあった。
自分がない、のではなくて、自分が持てないのだ。
ふわふわと意識が浮いているから、どこを見ているの?と尋ねられても分からない。私の身体はどこでもない場所を見ているし、いつもどこかへ行きたがっている。そうして流浪のように流れながれた先でも居場所は決まらなかった。定職もつけなかった。
とはいえ、帰る場所など流されにながされてしまい、どこにもないので、自分の居場所を見つけなければならない。
「では、ここなど、いかがでしょうか」
と、連れて行かれた場所は、海に限りなく近い場所だった。潮の香りが強く、故郷を思い出す。防波堤を挟んだ道の横、一軒家だった。
知らぬ間に、海近くの街までやってきていたのか。
家の中に入ると、何一つ歪みはなく、一階、二階と続いていた。一つ言うと、単身で住むには広いってくらいだった。
これでお家賃は二万前後。
その値段はさすがにおかしいと気づく。
「ここは心理的瑕疵物件なんです」
「はあ」
しびれをきらした営業さんが、自暴自棄になり連れてきたのだろう。過去に何回かそういった経験があった。大手心理的瑕疵物件サイトを見ると、すぐに出てきた。
『二〇一一年、老人が孤独死』
食指が動く。
もう一度、薄暗い室内を散策する。やはり海に近い場所では錆びが目立つ。全体的に旧古民家といった風貌で、階段は段差が高く、部屋を跨ぐにはいちいち小さな段差があり、縁側を仕切る磨りガラスにはとれないシミがついていた。いくらクリーニングをかけているとしても、何かしら影響がある。死、というものの香りは色濃く残っている。
でも、幽霊、はいない。
「こちらの物件は、海岸近くということもあり、津波の災害マップにひっかかります。なにしろ、防波堤が低い。数年前の対岸の地震でも避難警報が鳴りました」
「はあ」
「しかも心理的瑕疵物件ですので、それをご了承の上住むかたちになります」
「へぇ」
この営業さんは良い営業なのだろう。いくつか回ったが、私のような単身にこのような家も、デメリットも教えてくれるような営業さんは稀だった。
ここに住むと、洗濯は潮まみれ。自転車は錆びるのが早い。私の髪に潮がひっかかる。海近くなので日差しが強い。そう、二〇一一年の私もそうだった。
食指が動いている私に、営業さんも気づいていた。他の物件より内見の時間がはるかに長い。
「ここにします?」と営業さんがいって、えっと……とお決まりのしぶりが入ると同時に、「ここにしましょう」と押してきた。
普段はそうして決まっていたのだが、
「あの、幽霊……って、でてきます?」
私の口は滑っていた。
ぽーんっと営業さんの頭の上で電気が灯った。そういうことですね、と何かわけがわからない都合がついてしまったらしい。こうなればとことん付き合ってくれそうだ。
二〇一一年、私は流されるままに自分の住んでいた場所を離れざるえなくなった。
政治でもみくちゃにされる自分の街のこと。現場も本部も、きっとパニックになっていて、何が何か分からなかったのだ。私はそうすることが正しいと、なぜか身体が反応して泥にまみれながらも家族を探した。いくつかの避難所を見て回り、『無事です』の文字を探した。自分の家族は。自分の親は。流された自分の街は。すでに私の街だと思えなかった。何も、本当に何もなかったのだ。
一体どこにいるのだろう。
選べ、と差し出された人生のメニューに指をさすことができなかった。
そうするうちに知り合いは一人、また一人と遠方へ消えていった。
自分たちの街に残る人もいた。そういった人たちは何もしてくれない政治家たちに怒っていた。復興を成し遂げようと、ギラギラとした精神を在りし日の街に向けられていた。
ここでは生きていけない。
ふと、そう思って命のメニューをきることにした。そのメニューを差す住人は多かった。生きていくか、死ぬか。何もない街で生きる意思を持てず、自分などお荷物だと自身の首を絞めるのだ。
でも、そのメニューすら、私にはきれなかった。宙を浮いている私は、幽霊に似ていたと思う。他の人が必死に建て直そうとしているところをふらふらと彷徨っていた。
そのとき、避難所に幽霊がでると噂がたった。
「あの人だ」
「裏の庭で子どもが遊んでいた」
「ひなたぼっこしている祖母が……」
涙ながらに話す人たちを横目に、私はふらふら、ふらふら。生きることも、死ぬこともできずに、ふらふら、ふらふら。私自身が幽霊だからか、私には、幽霊がでてこなかった。想いの強さが違うのだろうか。
ネットでは、「大変なことになった」だの「自分には何も出来ない、現地の人は大変なのに」だのと、『大変』だと自分を規定されたものが流れてくる。
私は『大変』なのだろうか。ふらふら、ふらふらと、幽霊が出てくるのを待っているだけの、幽霊すら出てこない、大変さなのに。
ふらふら、ふらふらしていると存在がぶれてくる。自分はどこにいていいのか分からず、気付けば知らない街にいた。不動産に事情は言わなかった。社会人年数が数年しかなく、貯金もあまりない自分のすみかを決めることは難しかった。山、がいい。少しそう思った。
最初に内見した場所は、山際のおんぼろアパートだった。一万前後と格安のアパートに、私は「はあ」と頷く。心理的瑕疵物件ではないみたいだが、数年前にアパートの隣の古民家が土砂崩れに巻き込まれていた。市の災害ロードマップは土砂崩れ危険区域として濃い赤で斜線がかかっていた。
ただ、あまりの意思のなさに、この営業さんには「いける」と踏み込まれたのだろう。「ここにしましょう」と押し切られ、判子を押した。
アパートは誰も住んでいなかった。物静かな一階だった。たまに上階に人が住んで、天井に重しがのしかかり、ぐぐっと軋む音がした。それもしばらくしたら消えて。そしてまた蘇る。まるで、幽霊みたいだ。
未だに私は幽霊を見ていなかった。
しばらくすると、ドラマや映画で私が受けた『大変』を描くようになった。決まって物語の終盤に差し込まれる。物語として消化される『大変』にそれが夢のように思えてきた。私があの街にいたなんてことは嘘で、両親などいなかったし、実家などなかった。そもそも故郷などなかったのだ。過去、で、懐かしむもの、で、教訓、で、ここにはないもの、で、メッセージとして分かりやすく、山場として盛り上がり、お涙ちょうだい、で。
もまれる事実と虚実、ネットの評価と批評、批判に私は目を背けた。
コンビニ弁当とお茶を毎日買って帰って、居間でほそぼそと食べる。
ぽ、ぽ、と弁当に滴が落ちた。
いつこのアパートは、土砂崩れに巻き込まれてくれるのだろうか。
あの日から命のメニューが開かれている。
営業さんがいくつか候補をあげてくれた。山に近い場所から海に近い場所、市街地まで。全て心理的瑕疵物件だった。その中でも、ひときわ危険区域に目を奪われた。選びはしない、が、私はふらふらと宙に漂って待っていた。営業さんも内見に付き合ってくれた。
「この街は、漁業が盛んでお魚が美味しいんです。どの魚もぶりっとしていて美味しいんですよ。あのお店なんて、よく行くんですがすごく良くて」この営業さんと長く内見を付き合っているからか、営業さんはよく喋るようになっていた。私はいつもの通り「はあ」ととぼけた回答をする。「学生はあんまりいないんですが、人がよくて。お年を召されたかたでも元気に仕事されていて」「はあ」「あ、つきましたよ」「はい」
営業さんが連れてきてくれた場所は、最初きた海辺の家屋の近くだった。驚くことに防波堤は作りかけで放置されている。残骸が置いてけぼりで、どこか寂しさがつのる。ここも心理的瑕疵物件だと言っていた。
「実は、過去に二人ほど入居されていたので瑕疵だと言わなくて良いのですが……でるそうです、アレ。流石に最初の物件と近すぎて、悪い噂も立ってしまって今では誰も案内しませんが。
ここにしません?
もうここで決定でどうです?
そうしましょう」
営業さんは私が内見に入る前に、書類を渡してきた。私は受け取りながら「はあ」と一応内見っぽいことはしないといけなさそうなので、入ってみた。さすがに二人入居していたので、歪みもなく、過ごしやすそうだった。なにより、放置された防波堤が玄関から見えたことに食指が向いていた。
あとは、水回り、と散策しようとしたが、
「はい、決定! よろしくお願いします」
営業さんは、既にやけになっていた。
すぐにすくない荷物を運び込み、コンビニ弁当をほそぼそと食べる生活に戻った。
と、ガタガタと家屋全体が震えた。ようやく見えるのか、とすっくと立ち上がり、家をふらふら徘徊した。しかし、途端に外で掘削機が道路を走った音が後からした。私は無表情で、食卓にもどる。今度はカタカタと食卓が揺れていた。ついに、と私は立ち上がると、洗濯機を回していたのを思い出した。古い家屋だ。洗濯機の震動が家に響いても仕方ない。また食卓について味気ないコンビニ弁当を口に運ぶ。
なんだ、結局こんなものか。
庭に出て、海を見つめた。潮風が前髪を吹き上げる。手櫛で髪をとくと、潮が絡まっているように思えた。海は凪いでいる。穏やかな波の音が聞こえてきた。
私は、いつかあの大きな波が怪物になり私を飲み込むことを夢に見ている。
死に近い場所 千羽稲穂 @inaho_rice
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