ぼくはクソッたれ小学生・轍

佐々岡式大回転

第1話「つらいにょ~」

 物心ついたときから、おおよそ脱構造だつこうぞう的な夢をみたことがなくて。気づいたときには僕の夢はすでに物語的構造に犯されてしまっていた。構造的な夢と脱構造的な夢の違いは、ソレが始めから終わりまで一本の軸になっているか、切り取られた場面であるかだ。もっと簡単に言うと、ソレにオチがあるか否かだ。僕の夢はたいてい、いかに突拍子とっぴょうしもないような設定であっても必ず始めから終わりまでの軸がそなわっていて、なおかつオチがあるのだ。


 じりりりり、り。

 目覚まし時計を止め、ベッドから起き上がる僕はそんなことを考えていた。

 ちなみに昨日みた夢は巨大化した僕が竹下通りを破壊している夢だった。


 べつに僕は竹下通りを毛嫌けぎらいしているわけではない。いや、竹下通りを闊歩かっぽする人間という、自分が気持ちよくなるためだけに他人の身体および精神や環境を破壊しソレを「生きるためにはしょうがないことだよ」とほざく腐れ外道な生物は嫌いだが、街自体は好きだ。街とは歴史の産物である。僕は人間が嫌いだが人間が創造した歴史は好きだ。もっと言うと、自分の手にえないような巨大なエネルギイを秘めている物体が好きだ。歴史はエネルギイの集合体だ。だから僕は歴史が好きだし、街が好きだ。ではなぜ夢の中で僕は街を破壊していたのだろうか。その点に関してはほんとうに覚えていなかった。というか明記されていなかった気がする。


 夢の始まりは、僕が巨大化したところにあった。その際、キメ台詞せりふに吐いた言葉は「そんなの知ったこっちゃねえ」とかだった気がする。そんなのってなんだろう。人命だろうか。ひくわ。


「知ったこっちゃねえ」と吐いた僕はしゅわんしゅわんしゅわんって感じで大きくなり、たぶん、高層ビルと同じくらいの大きさになった。あとこれは不確かなのだが、たぶんBGMはノーモア映画泥棒だった気がする。で、とりあえず僕はビルを破壊していった。人間はいなかったと思う。いたのかもしれないが、気づかなかった。ひとつ確かなことがある。僕は殺されたのだ。それが夢の顛末てんまつである。僕は夢の中でヒトに殺された。犯人は寺〇心である。僕は寺〇心に殺されたのだ。膝蹴りされた。まさかの体術であった。補足として言いたいのだが、この〇田心というのは小児しょうにの寺〇心である。というか僕は幼い〇田心しかしらない。つまり僕はガキの膝蹴りで死んだのだ。この場合、人類から見た僕は悪なので、退治されたと言ったほうが適切てきせつかもしれない。竹下通りを破壊した僕は寺田心に退治されて目覚めたのだ。最悪な目覚めである。芦〇愛菜に水筒で撲殺ぼくさつされた夢と同じくらい最悪な目覚めであった。なぜ子役は僕に対する殺意が高いのか、その真相は不明だが、次に僕を殺しに来るのが鈴〇福であることは間違いない。ベッドから起き上がった僕はスマホを手に取り、ブラウザで「鈴〇福 弱点」と調べた。当然、それらしい検索結果は出てこず、ブラウザの一番最初に表示されたのは〇木福のウィキペディアであった。今の時代、ウィキペディアに適う情報教材は存在しない。僕はウィキペディアで鈴〇福の弱点を探した。なかった。それどころか、ウィキペディアに記載されていたのは鈴〇福の華麗なる人生であった。彼の人生は、精神が自己を獲得してから今日までずっと仕事であふれかえっていた。こわかった。僕は仕事がこわい。かわいい自分自身が大きな社会に都合よく消費されてりつぶされていくのがこわい。そんな仕事を浮世うきよに降りたって三年も経っていない頃から今日まで行っているという鈴〇福が、すごすぎて、本当にこわい。この畏怖いふをどう説明したらいいのだろう、たとえるならそれは、いぜん新宿付近で出会った四足歩行おじさんを目にした時と同じこわさだった。


 あのおじさんは四足歩行で進む事をほまれと感じていたに違いなかった。おじさんはみ切った顔で、曇りなき眼で道をながめ、サイやゾウなどの大型動物のように、ゆっくりのそのそと四足歩行していた。狂気の沙汰さただった。彼は自分が四足歩行をしていることに一切の躊躇ためらいもなく、また奇抜きばつな事をして目立めだとうという薄汚ねえ承認欲求もなかった。ゆりかごから墓場まで私は四足でござんすとでも言うように、四足で新宿の街を生きているのだ。


 僕にとって、その四足歩行おじさんと鈴〇福は同じ存在である。同じくらいこわかった。両者に共通する点は、理解も共感もできないというところだ。僕は共感できない人類に何度なんども出会ってきたわけだが、しかし理解できない人類に出会ったことはあまりない。どんな共感できない価値観であっても、なんとなく、その一部に自分と通ずる部分があれば僕は他人を理解することができる。だがくだんのふたりは別だ。僕は生まれてから今日にいたる時間軸の中で四足歩行で生きようと思ったこともないし、ずっと仕事をし続けようと思ったこともない。理解が、できない。なぜそうなったのか。つらくなった。辛くなってウィキペディアを閉じ、画面を下から上にスワイプしてみる。ブラウザに表示された他の記事は、「鈴〇福 弱点」と検索したのに関わらず、彼を賞賛しょうさんする意見ばかりであった。胃がぎゅっとつかまれたような気がする。そうか、と。この世界では仕事をする人間こそがめられるべき存在であって、僕みたいにのうのうと時間を無駄に消費するだけのたんぱく質のかたまりは誰にも価値を見出みいだされずに死んでいくのだと。僕はベッドに沈んだ。泥のように沈んだ。もはや僕とベッドの境界線がわからなかった。僕はベッドになった。身体と物体の境目が不明確ふめいかくになることで、自分の心が丸裸にされていく。そこでようやく僕は自分が他人に承認されないと生きていけない事実に気づいた。しかし、はて。承認とは。なんぞソレ。考えてみると、自然とそれは「生きること」であると気づいた。僕は生きていく事を誰かに認められたいのだ。存在ではない。存続することの承認をください。僕は願った。それは誰かと自分を比較しているからこそ出る願いなのだろうか。否、そんなことはなかった。僕の世界には僕しかおらず、僕は僕しかみていない。ではなぜ僕は生きることの承認が欲しいのか。それは生まれてからこの方、誰にも生きていいよと言われていないからだった。椅子取りゲームで、僕は初戦で椅子からはみ出たドブカス野郎やろうだった。花いちもんめで、僕は最後まで残り続ける存在であった。いや、そもそも参加すらさせてくれなかった。僕は誰にも「ここにいていいよ」と言われたことがない。僕は誰にとって生きていい存在なのだろうか。やべえ、めっちゃこわい。目をつぶる。頭の中で何度も妄想するのは、後悔の記憶である。就寝前の前戯ぜんぎは決まって記憶の上映会である。ただ、けして記憶の捏造ねつぞう、たとえば自分がハーレム的存在になる妄想はできない。しようと思うと、理性か何かが僕の頭を鈍器どんきで殴ってくる。記憶は純正じゅんせいな記憶として打ち出される。その記憶が本当の歴史だという確証はどこにもないけれど。


 頭の中に浮かぶ記憶は、小学五年生さいごのお楽しみ会での写真撮影だった。写真撮影をする際、男女混合で手を繋がなければならなかった。僕はそのとき他人の皮膚ひふ体液たいえきといったものにはげしい嫌悪感を持っていて、写真を撮ったあと、誰にも見てないことを確認すると真っ先に手を洗いに行った。そしたらそれを見られた先生に大声で怒鳴どなられた。「めだ」「こんなの意味がなかったんだな」「最悪だ」と、色々言われた気がする。その時の僕はひどく混乱していた。まず悪いのが自分だという自覚はあった。でも、じゃあどうすればいいのかわからなかった。僕は相手が誰でも手を洗った。その子だからではない。人間だから手を洗ったのだ。洗わなければ、皮膚の表面に赤い斑点はんてんが浮き出てそれがいずれ体ぜんぶを侵食してかゆくなるような気がした。でも配慮はいりょはしたつもりだ。相手の女子が他の子と喋りだしたから僕は急いで手を洗ったのだ。女子が僕を見ていなかったから。でも先生が激怒したゆえ、みんなの視線が僕に向いた。誰も僕を責めることはしなかった。ただ、面倒を増やすなよというあきれや軽蔑けいべつが視線に含まれていた気がする。ゴミを見るような目を向けられても僕は手を洗うことがやめられなかった。先生がわざと大股で僕まで近づくと、びしょ濡れな僕の片腕を力つよく掴んだ。ぼくの全身の産毛うぶげが逆立った。ゾクゾクゾクッ。「来い」先生は僕を女子の席まで連れてきた。「謝れ」先生が言う。僕は自分が悪いことを自覚していた。でも、僕は女子に謝りたくなかった。プライドとかではなく。いや、プライドだったのかもしれないが。自認としては、教師が作り出したイベントで謝るのが嫌だったんだと思う。たとえばこれが、その女子が僕が手を洗っている姿を見て、ひどく心を痛ませたのならまた別だった。しかしこれはそうじゃない。僕が手を洗っている姿が教師の倫理りんり的に嫌悪の対象であるから、見せしめとして謝罪させられているのだ、僕は。そんなかたちで謝りたくなかった。だけど僕が謝らなければこの場は一生いっしょうこのままであることも明白であった。だから僕は謝った。「ごめんあさい」あさいだった。はなをずいずいすすっていたため、うまく言葉が出せなかった。ひどくみじめだ。こういうとき、決まって思い出すのは母の顔だった。いつもにこやかな笑みを浮かべ「いってらっしゃい」と僕を送る母は、こんな僕の醜態しゅうたいを見て一体何を思うのだろうか。気にして余計よけい、みじめになった。床に水が垂れた。腕と顔から。女子は「べつに気にしてないです」と僕ではなく先生に言っていた。すると先生が「もう一度撮る。次は絶対に手を洗うな」と僕に言った。なんでそんなことをするのかわかならかった。「はい」僕は言った。「約束だからな」「いいか、絶対だからな。今日、五組の最後のお楽しみ会で撮る意味わかってるよな」僕は全部に「はい」と応答した。頭に砂嵐が流れていた。もう一度写真を撮る。みんなで並んで手をつないだ。僕は同じくはしっこの位置。あの子の手をにぎった。柔らかい皮膚の向こうに肉の弾力があって、水でぬれた僕の手と合わさったことでぬめり気がそこに生じていた。クラスの雰囲気は良くなかった。でも盛り上げ役の子が僕の醜態を茶化ちゃかしてくれたおかげで、みにくい僕をおかずにみんなもりもりと笑いをたくわえてくれた。先生がカメラを手に取った。「はいチーズ──って言ったら撮るからな」というお決まりのギャグ。わはは。僕の右手にはあの子の感触。湿気しめりけ、滑り気。手のひらに青かび。ほんの少しの異臭。柔軟剤の匂い。人工甘味料的な臭い、それに隠れてけものの匂い。他人の匂い。力は普通だった。一回目の時より弱かった。「気にしてないからね」と言ってくれた。僕は泣きそうだった。「おい泣くなよ」先生が笑いながら言った。わはは。僕もみんなにならって両方の口元を上ずらせた。鼻水の味がした。「はい、チーズ」シャッターがおりたらしい。


 みんなが解散する。僕の右手は真っ赤に染まっていて、ねっとりした体液がこべりついてはなれない。かきむしる。最中、先生が急いで僕の元へとかけつける。「女子と手をつなぐのが恥ずかしいとか、そういう気持ちはわかるけど、それで人を傷つけちゃだめだろ、な」先生は背中をバシンと叩いた。先生そうじゃないんです、違うんです。でもそれを吐いたらまた崩壊する気がしたから、先生が笑顔なら僕もハッピーっすよマジでって感じで僕は「あはは、あは、はい」と笑った。みんなが席に着く。僕も席につく。手のこうをずっとく。先生が最後のあいさつを行う。「このクラスはほんと個性が強いやつのあつまりっていうか、わがままな奴が多いっていうか、な?」と僕のほうを向く。わははは、みんなが僕を見る。わははは。僕も笑う。手の甲を掻きむしる。爪の間に皮と一緒にあの子の感触と体液がつまる。でもまだ他人がそこにる気がしてならないので、僕は掻きむしる。先生が話す。僕はもうわけがわからなくなって立ち上がった。僕の右手は血だらけで、なんなら肉も見えていた。僕は走った。水だ。水で洗い落としたかった。急いで水道まで向かって、蛇口じゃぐちを捻った。すると先生が慌てて走ってきた。「そういうことやるからさ」そして僕の両脇を抱えると、ひょいっと。さよなら~って感じで窓から突き落とした。

 わ~。

 すっげ、すっげ。マジ無重力。マジ?

 折り紙の青みたいな空、僕は落ちる。

 そして、


 びくっ。

 痙攣けいれんで僕は目を覚ました。

 ベッドの上だった。

 夢の内容は覚えている。絶望。でも安心感のある目覚めだった。夢は八割が現実のやつで、いうならばドキュメンタリー映画だった。

 あーくそが。

 やはり自分の見る夢は、どこまでいっても物語の構造から脱出されることはないのだ。

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