ささやかな希望の実現を、喜んでくれる赤の他人がいること

 子供が漠然とした大人への憧れやイメージを持つ。好きな仕事に就く、外食をする、買い物をする、家族を持つ、住居を持つ……子供は大人(親)の決定に従って我慢を強いられるが、大人になれば自分で全部好きに決められるんだろう。そんなイメージは、現実の大人が労働により賃金を得て、その金銭的な制約の中で生きていることを、子供がまだ上手く理解できないことに由来する。実際に大人になってみると、夢想していたほどの自由はないことに気付く。

 そんな子供の頃のありふれた、一種の誤解ないし「夢」を、主人公と読み手に喚起させるところから本作は始まる。

 主人公は不動産屋と物件を回って内覧を続けてゆく。不動産屋の担当者は、やや浮薄で馴れ馴れしい。しかし客に過度に干渉はせずに寄り添い、騙そうともせずあくまで誠実な人間なのが気持ちいい。最後の物件が、主人公にとって子供の頃の漠然とした希望を満たすものだと知ると、不動産屋の担当者は主人公以上に我がことのように喜んでくれる。

 確かに大人は思ったほど自由でもなく、人生に苦痛はつきまとう。そうであっても、ふとした拍子に「何もかもが悪いわけじゃない」と人生を肯定できそうな瞬間が訪れる。実のところこの掌編は、主人公がかつて夢見ていた住宅の条件に合致したことそれ自体よりも、それを家族でも友人でもない、その時限りの付き合いでしかない他人が一緒に喜んで肯定してくれたことに、救われるような気持ちになるのだと思う。


(KAC第2回アンバサダー企画お題「住宅の内見」/文=八潮久道)