第45話 解凍
「この山はずっと我々の先祖が鎮めてきた。いわば適性がある。ここ以外はありえない。それに、あまりにも、このやり方とこの場所は填まりすぎていた」
ぱちぱちと枝を踏む破断音に似た響き。
「自分のような被害者を、これ以上、生み出さないためだ。両親が免罪でね、子供時代に自殺したんだ。いやいや、免罪が両親を殺したわけじゃないよ。だって、免罪は人間じゃないんだから。そうだよ、周りの人間が殺したのさ。みんな意地悪だから死んだ。日本国民が卑劣だったからだ。少しでも、想像力があれば。ちょっとでも、感情的な決めつけがなければ。全員が愚かだった。なのに自分達が理性的だと信じていた。馬鹿だ。それでいて、冤罪がわかると、彼らは忘れることで、なかったことにしたようだった。人殺しを許さず、いざ人殺しをすると己を許す。これが許されると思うな」
神宮寺は終始穏やかな口調であった。人間に対する諦めと、まだ諦めきれない優しさが二重螺旋のように出会うことなく同居していた。
彼は、狂わされた人間の一人。むしろ、この世の中が狂っているのかもしれない。もしも、地球がもっと、まともならば。
「もう、この国は末期だ。いいや、どの国だって、この星全体が死にかけなんだ。このまま放置すれば、被害者は呪術で死んだ数どころではない。必要悪なのだよ。そっちの君は、長谷川君といったね。西田から指の話は連絡があった。そんな君は、今までの話に多少なりと同意してくれるだろう。隣の彼に言ってやってくれないか、彼は正しいと」
「今まで、この指で苦労したことはない。いい加減にしろ。どいつもこいつも、私に可哀そうな姿を押し付けるのは、それこそ想像の欠如とやらだ。偏見だ。人と違ったら、差別されなければならないのか」
黒井は、隣の横顔を見た。顔色は変わらないが、瞳だけが空虚さを湛えていた。
「まあいいさ。みんあ不幸になれ」
彼の口調が、どす黒い粘着質に変わった。それも次の一瞬には、元に戻っていた。
「そしたら、みんな優しくなれるだろう。こうするしかなかった。現実的な話、この事件が世の中に露見すれば、それだけでも少しは効果がある。懐にあるのは、そのための遺書だ。燃えない素材に書かれている。あとは幸運なことに君たちもいる。人生最後の最後に、神様が微笑んでくれたようだ。君たち、この事件について講演を開いて稼ぐといい。小遣い稼ぎになる」
黒井には、その言葉は聞こえないようだった。ただ、直前の言葉が、ぐるぐると蝸牛管にとらわれ続けていた。
「お前の本質はそれか。結局、みんなを不幸にして復讐したいだけか。そのやり方で、お前は幸福にはなれない」
と、叫んだ。
「ところがそうではないのだよ。私なりに考え抜いた結果だ。むっ、そろそろ倒壊する。君たち、離れたたまへ。未来ある若者を殺したら、後味が悪すぎる。それに、せっかく不幸な世を経由するものの、幸福な時代がやってくるのだから。また、あの世で会おう。その時は、私が死んだ後のことを聞かせてくれ」
「お前は地獄だ」
「仏教ならば、たいがいは地獄だ。それに、世間の人間は地獄だ。いや、すでにもうここが地獄かもしれない。これから、私と彼女たちの灰を二上山の神へ献上する。山は噴火して未曽有の大災害として歴史に刻まれるだろう。この国を再建してみせる。そのために叩き潰す。これは再生の炎だ。不死鳥がやり直すための儀式と同じだ」
そう宣言すると、また読経を唱え始めた。これは、救世観音のご真言。
「あれは無理だ。放っておけ」
長谷川はあきれた様子だ。
「あんな大悪人が満足して死ぬなんて、釈然としないだろ。それに、見殺しには出来ない」
「それでも、あの火をくぐるのは無謀だ」
梁が折れて、彼の背後へ、火の粉が降りかかり、本尊を覆っていた布が発火した。干上がるように、ゆっくりと燃焼の陣地を拡大させ、下から仏像の素肌が現れる。
「だから、あの双子は最後まで残ることができたのか。どうやって、あの体で戦いを勝ち抜いたか疑問だったが、贔屓があったんだろうな。あの子達が勝つような細工とか」
と黒井。その仏像は畸形だった。
一つの体に、二つの顔、四つの腕を持つ、二面四臂の像。それはおそらく、あの結合児の生前の姿と同一だろう。
「黒井。なんて仏像か知ってるか。私は宗教に疎くてな」
「阿修羅、違うな。それは三面六臂だ。きっと土着信仰 ………、いやまて、これは二上山だ」
彼は突然のひらめきを得た。
「神道では山を崇拝することは珍しくなくて、その場合、異質な山が好まれる。山頂が二つある二上山が崇拝されてもおかしくない。おそらく、その仏像は、二上山そのものさ」
「似ても似つかないな」
「二上山ってのは、二つの神で二神山と解釈することもできるだろ」
「駄洒落か」
「その通り。でも言葉ってのは重要なんだよ。古代なんかは、もっとそうだった。言葉には不思議な力が宿るとされていたんだ」
落雷のような大轟音。建物は崩壊した。読経が消え、静寂が一人の人間の死を報知した。肉が焼けるような匂いはしなかった。風向きのためなのか、彼がすでに人を辞めてしまったからなのか、彼らには区別がつけられなかった。
虚構、崩壊、狂気、三位一体に渦巻きながら、夢の残りで燃焼する瓦礫の山。呪いに世界が焦がされていく。そして、それらは大いなる飛翔を始める。灰の羽毛を軌跡に残して天へ。
「黒井、帰ろう。私たちはなにもできない。彼が此方になんら影響を及ぼさないように、私たちは彼方に干渉することは叶わない」
「俺は誰も救えなかった。妹の恨みも晴らせなかった。ついに傍観者だった。子供も、妹も、双子も、それに西田も、神宮寺だって、全てが手遅れだった」
事件の終幕をなすすべもなくただ目撃した、というのは、この事件のあまりにも率直すぎる総評だろう。
「あの姉妹は救っただろう」
長谷川は彼の肩にぽんと裸の右手を置いた。
「もう死んでる」
「お前は、とことん私がいないとだめだな。怪物がいないように、幽霊なんていない。私たちが見せた幻想だ。よし、旅館に帰ったら推理の続きをしよう。一体、誰があの双子を殺したのか」
どのようにではなく、誰が殺したのか、は、まだ未解明だ。
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