第31話 事件
「ここからトーチカは近い。血の足跡はどこまで続いているか見極められない。ならまず、トーチカを目指そう。そこで、なにがあったか手掛かりを得てから、血痕を追うか決めることにしないか」
「賢明な判断だ。もっとも、この血の足跡が目的地へ続いているとは限らないがな」
引き続き足跡を辿る。血の補助線は、やはりトーチカへ吸い込まれていくようだ。さて、問題の場所は暗闇で、ぼんやりと明るく光っていた。低い円柱の穴から、オレンジの輝きがあふれて、さながら火口だ。松明が燃えているのだ。
巨大な井戸に近寄るにつれ、男女の顔は橙に染まってゆく。金属の松明は、ごうごうと排気しながら燃え盛り、白い地面の凹凸がなす影をさざ波のように揺らしていた。石の要塞は、もう目と鼻の先にある。
「黒井。あれは」
入口というか、円の切れ込みから、望める内部の景色は、鮮明になるにつれて、尋常ではないと知った。彼らは石の門で立ち止まる。そこから先は、どうしたって足が動かなかった。
そこに地獄が跳ね返っている。黄金色の地獄だ。照明の煌びやかな燃焼が舞台を照らし、しかし、その上塗りでもごまかしきれなほどの唐紅が床を支配している。長谷川は思わず吐いてしまった。
白い内容物が、コンクリートの床にとろとろと吐出された。黒井には、それでさえ、この地獄絵図の中では清潔だと思えた。彼女の嘔吐物で口を漱ぎ、身を清めることだって衛生的だと思えた。
「うぐ。まずい、現場を汚してしまった。あとで、つまらぬ誤解を生むかもしれない。う、うえぇ」
涙が目玉の端に浮かんでいる。しゃがみこむ、彼女の背中をさすった。
「平気か」
「平気なわけないだろう!」
長谷川は怒鳴った。彼女の叫びで、黒井はかろうじて、冷静さを取り戻すことができた。
彼は、もう一度、現場に目を移すと、あいかわらず、雪と血だまりの上に、バラバラ死体があった。少女、二人分の残骸。頭、腕、胴体、足、で分割された死体。
長谷川の眼球が、てらてらと、炎の揺らめきを反射させている。
「死体は姉妹分ある。例の双子だ」
彼女は、そういって唇の端を親指でぬぐった。叫んだことで、気分が楽になったらしい。
「雪の子は、ここで命を落としたのか」
と彼は、はっと息を呑んだ。
両者とも、ずたずた悲惨な状態だが、長い髪の毛から女だろう。それに各部の可愛らしさから少女であったとわかる。また、体格や髪形の完璧な一致から、双子らしいことも見て取れる。
皮膚は鮮やかな橙、真っ黒な髪、目玉の真っ黒な光彩、赤く汚れた白と、パステルブルーの靴、投げ出された靴裏には、縦のジグザグが刻まれていた。
「額の彫り物。長谷川、この亡骸は手帳の持ち主で間違いない」
額の図形、丸い円から放射状に八つ線が伸びている。これは紛れもなく、片田村の神の印だ。
「くそ、ふらふらする」
彼女は、死体から怪電波が放射されているのではないか、というほど、面の皮膚に熱さを覚え、めまいがした。急性現実失調とでも名付けようか、この地面が揺れる感覚。まるで、地動説を初めて知った日の不安定さだ。
「この血の量、生きたまま切断されたのだ。心臓のポンプが動いている間に、体を損壊された可能性が高い。私は地質学者だから医学には詳しくないが。つまり、ただの推測だといいたい」
床の中央に、血の池ができている。
「生きたままなんて惨いな」
「中央部の血だまりまで二筋の足跡が続いている。うち一つは血だまりで折り返している。つまり、」
雪だから、血の上でも足跡は続く。乱れながら押し込まれる形は二種類で、靴裏の筋が縦のと横の。
「二人のうちどちらかが、あそこで折り返した、ということだ」
長谷川は、そこまで整理してぞっとした。そんなわけがなかった。なにかの間違いだろう。もう一度、遺体を注意深く検査するが欠陥はない。きちんと、この状況に、帳尻を合わせている。
しかし、彼女を戦慄させたのは、つじつまが合わないからではないのだった。問題は計算があってしまう、ということである。
「下半身が一つ足りない」
彼女は指摘する。二人の少女のバラバラ死体には、下半分が一つ不足していた。足跡通り。それが問題だった。順当に推理すれば、被害者らは並んで現場に入ったのち、ひとりでにばらばらになり、下半身の一つだけが現場から逃走した、となる。
黒井は、震える手で、警察へ連絡を入れようとする。誰でもいいから、銃を持った人間が直ちに必要だ。
「くそっ。どうなってる。どうして、つながらない。こんな不都合な時に、電池切れになるなんて」
「落ち着け。よく、思い出すのだ。お前が教えてくれたことだろう」
深呼吸をして、彼は思い出した。
ここ片田村一帯は圏外であること、仮につながったとしても、この積雪のために、助けはすぐにやってこないこと。すなわち、この陸の孤島で耐えねばならない。異常で残忍な『なにか』が潜んでいる、この地図にない村で。少なくとも太陽が昇り、すべてが融けきるまでは。
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