第26話 自販機
今夜は、事件のことや、長谷川のこと、片田村の情報がぐるぐるして眠れそうになかった。
黒井は眠ろうと目をつむるたび、脳内で自分自身に向けて、今日あった出来事の説明を試みてしまう。脳みその奥、海馬の辺り、痛みがじんわりとにじみながら外を目指している。その不快感で目が冴えるのだ。
朝まで起きていよう。
彼の場合、こういう日はいっそ徹夜してしまった方が、次の日、調子よくいられる。一日くらい寝なくたって、別に死にはしない。
部屋から出て、階段を降りる。階段の終わりは、玄関で、照明がついたままである。一番下の段を踏んだ時、長谷川がお手洗いから出てきた。個室は階段に埋まる造りだ。
彼女は、黒井を認めるやいなや、急いで手袋を装着する。知り合いになったとはいえ、あまり見られたくない。
「どこへ行く」
長谷川のパジャマは、長袖のジャージだった。紺色で、蛍光オレンジのストライプ。ジャージと言えど、やや光沢のある厚手の生地で、断熱性に優れている。
「まだ、起きてたのか」
自分を棚に上げて、彼は質問を質問で返す。
「まだ十二時じゃないか。私は夜型の人間でね。十時からじゃないと、スイッチが入らない。一時までは眠れない」
「俺もそんな風さ。もっとも、妹が死んだときのストレスが原因だろうが、癖になっちまった。まあ、仕事を辞めたから、いつまでも寝てられるしな」
「それはそうと、どこへ行くんだ」
彼女は本題を思い出し、引き戻した。彼は、長谷川を無言で見つめた。
廊下は奥へ行くほど薄暗い。玄関のちらつく電灯のためか、質の悪いカメラで記録した粗さがある。彼女は猫のような眼を、急に光をあてられた野生動物のように、動かさないでいる。
「森に行くんだろう」
と、黒いから目を離さないまま、問いかけた。一言も発さない彼は、玄関の方で佇んでいる。獲物を狩る前の肉食獣と、同じ気配がする。
「やめておけ。妹の一件は無念だったろうが、無謀なことはするな。方向音痴なのだろう」
この学者が悲鳴を上げたときも、彼は迷子になっていた。
「違うさ。お茶でも買いに行こうと思ったんだよ」
黒井が目を話したとき、異様な空気感は、さっと引いていった。
「眠るために暖かな飲み物が飲みたい」
冷えた脳みそをほぐす。緊張状態が緩和されれば、情報痛ともいえよう、入眠時の興奮も収まるはず。さすれば、彼も眠りにつける。
「身体の温かさと、心の温かさは、同じ領域で感じるともいうしな。にしても、この辺に自販機ななんてあったか」
長谷川は問うた。どうしても、彼の言葉を信じられない。一見すると、心を病み、冬の山に入山自殺する男だ。
「ここから少しのところにある酒屋の前」
「待ってくれ」
手袋の右手を前に突き出して制止する。
「私も買いに行こう」
彼を放ってはおけないのだろう。
彼女は自室に戻ると、ジャンパーを羽織り、ポケットに百円を二枚入れた。
小鳥みたいだ。戻ってきた長谷川を見て思う。そのジャンパーの裾は、お尻の辺りで山折りになっている。それがまさに小鳥の尾羽なのだ。
*
宿から自販機までは、五分程度の道のりであった。
目的の赤い自販機は、水晶みたいに透明な光を放っている。閉じた冷蔵庫の内部は、こんな世界なのだろう。人が自然に親しみを見出すのは余裕がある場合で、脅かされている時は人工物こそ安心する。
「寒いな。雪が降るくらいだから、氷点下。マイナス二度くらいか」
黒井は当てを付ける。降る雪はてんてんで、深海に降るマリンスノーといった趣だ。周囲は暗く、吐く息は白い。深夜で、酒屋さえシャッターの瞼を降ろしている。
「違う。摂氏、マイナス五度だ」
と長谷川は短く断言した。確信めいた響きは、黒井を驚かせる。
「わかるのか」
「高校時代、通学路が国道沿いでな。電光掲示板が道中に下げられていたのだ。そして、気温を当てるのが、毎朝の、友達との賭けだった。賭けに勝ったらココアを奢ってもらえる」
冷気ににじむオレンジの数字。予測精度は、繰り返しの中で向上していった。ついに、この賭けで彼女の右に出るものはいないくらいに。
黒井は無言で小銭を入れて、ココアを中指で押した。
「俺からの奢りだ」
「ありがとう。昔を思い出せそうだ」
ココアの容器を傾けると、暖かさが身体の中を滑り落ちるのがわかった。
「陸上部で、私はエースだった。大学時代に、運動する習慣は途絶した。なんだか不思議な気分だ。あんなに日常の一部だったのに。部活帰り、知り合いと、学校の自販機で買った自分と、今の私には本当に連続性があるのだろうか」
「陸上部。背が高いもんな」
「普通よりやや高い程度だ」
少し気にしているのか、彼女は身長を低く見積もる。
「お前は何部だった。私の見立てでは、光画部だ」
光画部とは、古い言葉を使う。
「広報委員でさ、それが部活動のようなものだったかな」
いろいろな記事を遅くまで教室に残って仕上げる毎日。あの時の情報取集は、最近になってようやく役に立った。あの経験がなかったら、今日、ここでこうして駄弁っていない。
「ジャーナリストか」
大きく冷たい瞳が悪戯っぽく細められた。
「指摘されるまで気づかなかった。言われてみると、昔から、真実を追うことに興味があったのかもしれない」
黒井はその憧れを発見する。
「世の中そんなものだな。近すぎるものは一歩引いてみないと全貌が掴めない。失って気づくのはそのためだ」
人が本当に大切なことを知るときには、すでに遠くまで来てしまっている。そして、取りに帰ることは永遠に出来ない。
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