第22話 子供
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徒歩五分。長谷川は、目的地の窪みに到着した。トーチカから、二百メートルほど離れた場所。足元が悪いため予想以上に時間がかかる。
窪みのぎりぎりに立った。急な坂道と、地面のずれが合わさって出来た谷間の端。つまり、紙でスパッと指を切った傷口だ。だから、くぼみというよりも割れ目かもしれない。その裂け目には、期待していたような地層はない。
落下しないように、重心を心の片隅に置きながら、身を乗り出すようにして、深さ二メートルの底を確認する。転がり込んだ噴石が堆積しているのではないかと。
彼女は、悲鳴を上げた。
心臓へ冷たい液体が流入する。谷底で、冷たい白色をした子供が膝を抱えていた。その血の気のなさ、ふやけたような肌の色、外国人ではなく、もっと病的な白さ。死んでいるのだろうか。
「助けて」
か細い声。少女と目が合っていた。真っ赤な瞳だった。
幽霊、の二文字が長谷川の海馬から剥離して、脳髄の表層にぷかぷかと浮かぶ。その子の浮世離れした幽玄さ。真っ白な肌、真っ赤な光彩、真っ白な髪、真っ赤な唇。悪趣味な浮世絵が胸で浅く呼吸をしている。現実への冒涜感。
「おい、大丈夫なのか」
「助けて、お願い。落っこちて、上がれなくなったの。妹を助けなきゃいけないのに」
助けるべきか、そっちの世界にやや詳しい黒井の判断を仰ぐべきか。安易に手出しすると、懐かれたり、憑かれたりするのではないか。彼女は非科学的ながら、そう思った。
だがしかし、足踏みをしていて手遅れになるのも問題だ。見るからに体調は悪そうだし、そうでなくても、天然の落とし穴でいずれ餓死してしまう。これから先、己になにが降りかかるか分からず、そうなれば、この子は放置される。だから、善は急げ。
「助けてやる」
手袋を脱いだ。中指に二本格納できるよう手袋は二回り大きいので、するりと抜けた。指を他人に見られるのは恥ずかしいが、しかし、つかみ損ねて怪我されるよりもずっと良かった。崖のへりに腹ばいになり、利き手である右手の "六本指" を伸ばした。
「お姉さん、その指」
そんなことをいわれても、長谷川は思う。それよりも、お前の肌のほうが、と言いかけてやめた。その痛みは誰よりも知っている。ずっと、苦しい思いをしてきた。人と違うと、いろいろ苦労するものだ。
「我慢してくれ。少しだけだ」
学生時代、手をつなぐ際、まるで汚いものを掴むかのようにする同級生。始業式、運動会、文化祭、卒業式、その経験は水晶の曇りのように汚く思い出に残存した。先生は手袋を装着することを許さなかった。校則で授業中に手袋をしてはならない決まりだった。なし崩し的に、防寒具が導入される危険があったからだ。
長谷川は心底馬鹿らしかった。規則の奴隷じゃないか。手段と目的が逆立ちしている。そんな不合理は、おぞましいことおびただしく、世界に氾濫していた。彼女が倒立しているのか、はたまた彼女以外が転倒しているのか。区別はつかなかった。
「そうじゃなくて、ただ」
よっと、右手を引き寄せると、少女の両足が浮いた。子供は十二歳かそこらで、やせ型なので、体重も十キロからに十キロしかない。加えて、長谷川は日ごろから運動をしている。
「お姉さんはここにいてはいけないと思う」
助けられている身分で注文の多い子供だ。しかし、真剣さからして少女もまた長谷川を、どん底から引き上げんとしているのかもしれない。彼女は耳を傾ける。
「子供がこんな森の中にいる方が、問題だが」
崖の上に引き上げる。その反動で少女は長谷川の胸元に倒れ込んだ。学者の上に童女が覆いかぶさる構図は春画めいている。絹のような髪の毛は、金魚の尾ひれ式に、ぱっと開いた。付け根まで白いので染めたわけではないらしい。
「右足が戻ってくるかも」
「右足とは、一体なんのことだ」
長谷川は、少女を抱きかかえるように起き上がった。少女はずっと氷の無表情で、人形とそう変わらない。
「私みたいに使役されているの。だから生贄とは違う。その彼、右足がないの。ずっと生贄を探している」
「さっぱりだな」
長谷川は興味ないことには、とことん興味を示さない。
「とにかく、山を下りて欲しい。ここを真っすぐ下ったら、藪に穴が開いている」
「そこから来た」
「妹のために掘ったの。でも間に合わなかった。儀式のために囚われている。清めてる。早く助け出さないと。あっ、ねえ入口は隠しておいた」
少女のやや鋭い目は、ばっくりと見開かれた。瞳の色は心臓色で、見つけられるとゾクリとする。
「いいや。そもそも覆いもなにもなかったはずだが」
「猪にやられたのかも。帰るときに閉じておいて」
「お前、注文が多いな」
少女は目を伏せた。
「拾われたときから、ずっと命令しかされてこなかったからかもしれない。私、使役されているの。妹を生きながらえさせるため。最近、約束を反故にされたからやめたんだけど」
「契約違反でストライキ中ということか。最近の子供は、ずいぶん大変なのだな」
長谷川は鼻を鳴らした。
「そう、大変なの。だから、早く山を下りて」
「お前も一緒にこい」
森に子供を放置するわけにはいかない。それに、こんな電波な子なのだ。黒が探しているという子供は彼女かもしれない。長谷川は手を差し出した。
「妹を助けないと、殺されちゃう。逃がすまではここを離れられない」
「一緒に来るんだな」
少女は、むっとしてから、脱兎のごとく駆け出した。とても素早く、森に慣れていることがわかる。裸足でよくもまあ疾走できるものだ。やがて少女の姿は、木々の重なりで見えなくなった。
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