第22話 子供
長谷川は、目的地の窪みに到着した。トーチカから、二百メートルほど離れた場所。出発点と終点を結ぶ線上に、藪の小島がある。この島の内部がどうなっているが気になるが、植物はみっちり詰まっているうえ、獣道は見当たらない。
窪みのぎりぎりに立った。急な坂道と、地面のずれが合わさって出来た谷間の端。つまり、紙でスパッと指を切った傷口だ。だから、くぼみというよりも割れ目かもしれない。その裂け目には、期待していたような地層はない。
落下しないように、重心を心の片隅に置きながら、身を乗り出すようにして、深さ二メートルの底を確認する。転がり込んだ噴石が堆積しているのではないか。
彼女は悲鳴を上げた。
心臓へ冷たい液体が流入する。谷底で、冷たい白色をした子供が膝を抱えていた。その血の気のなさ、ふやけたような肌の色。外国人ではなく、もっと病的な白さ。
死んでいるのだろうか。
「助けて」
少女と目が合っていた。真っ赤な瞳だった。
幽霊、の二文字が海馬から剥離して、脳髄の表層にぷかぷかと浮かんだ。その子の浮世離れした幽玄さ。真っ白な肌、真っ赤な光彩、真っ白な髪、真っ赤な唇。悪趣味な浮世絵が、胸で浅く呼吸をしている、現実への冒涜。
「おい、大丈夫なのか」
「助けてよ。お願い。落っこちて、上がれなくなったの。妹を助けなきゃいけないのに」
助けるべきか、そっちの世界にやや詳しい黒井の判断を仰ぐべきか。安易に手出しすると、懐かれたり、憑かれたりするのではないか。
だがしかし、足踏みをしていて、手遅れになるのも問題だ。見るからに体調は悪そうだし、そうでなくても、天然の落とし穴でいずれ餓死する。これから先、己になにが降りかかるか分からず、その場合、この子は放置される。
長谷川は決心した。善は急げ。
「助けてやる」
手袋を脱いだ。中指に二本格納できるよう二回り大きいので、するりと抜けた。指を他人に見られるのは恥ずかしいのだが、しかし、つかみ損ねて怪我されるよりもずっと良い。崖のへりに腹ばいになり、利き手である右手の "六本指" を伸ばした。
「お姉さん、その指」
そんなことをいわれても、長谷川は思う。それよりも、お前の肌のほうが、と言いかけてやめた。その痛みは誰よりも知っている。ずっと、苦しい思いをしてきた。人と違うのはいろいろ苦労するものだ。
「我慢してくれ。少しだけだ」
学生時代、手をつなぐ際、まるで汚いものを掴むかのようにする同級生。始業式、運動会、文化祭、卒業式、その経験は水晶の曇りのように台無しにした。先生は手袋を装着することを許さなかった。校則で授業中に手袋をしてはならない決まりだった。なし崩し的に、防寒具が導入される危険があったからだ。
長谷川は心底馬鹿らしかった。手段と目的が逆立ちしているではないか。そんな不合理は、おぞましいことおびただしく、世界に氾濫していた。彼女が倒立しているのか、はたまた、彼女以外が転倒しているのか。
「そうじゃなくて、ただ」
よっと、右手を引き寄せると、少女の両足が浮いた。子供は十二歳かそこらで、やせ型なので、体重も十キロからに十キロしかない。加えて、長谷川は日ごろから運動をしている。
「お姉さんはここにいてはいけないと思う」
助けられている身分で、注文の多い子供だ。しかし、真剣さからして少女もまた長谷川を、どん底から引き上げんとしているのかもしれない。
「子供がこんな森の中にいる方が、問題だが」
崖の上に引き上げる。その反動で少女は、長谷川の胸元に倒れ込んだ。学者の上に童女が覆いかぶさる構図は、春画を彷彿とさせる。絹のような髪の毛は、金魚の尾ひれ式に、ぱっと開いた。付け根まで白いので、染めたわけではないらしい。
「右足が戻ってくるかも」
「右足とは、一体なんのことだ」
長谷川は、少女を抱きかかえるように起き上がった。少女はずっと氷の無表情で、人形とそう変わらない。
「私みたいに使役されているの。それで、だから生贄とは違う。その彼、右足がないの。ずっと生贄を探している」
「さっぱりだな」
長谷川は興味ないことには、とことん、興味を示さない。
「とにかく、山を下りて欲しい。ここを真っすぐ下ったら、藪に穴が開いている」
「そこから来たんだ」
「妹のために掘った。間に合わなかった。儀式のために囚われている。清めているの。早く助け出さないと。あっ、ねえ入口は隠しておいた」
少女のやや鋭い目は、ばっくりと見開かれた。瞳の色は心臓色で、見つけられるとゾクリとする。
「いいや。そもそも覆いもなにもなかったはずだが」
「猪にやられたのかも。帰るときに閉じておいて」
「お前、注文が多いな」
少女は目を伏せた。
「拾われたときから、ずっと命令しかされてこなかったからかもしれない。私、使役されているの。妹を生きながらえさせるため。最近、約束を反故にされたからやめたんだけど」
「契約違反でストライキ中か。最近の子供はずいぶん大変なのだな」
長谷川は鼻を鳴らした。
「そう、大変なの。だから、早く山を下りて」
「お前も一緒にこい」
こんな森に子供を置いていくなんて、どうかしている。それに、黒が探しているという子供は彼女かもしれない。
「妹を助けないと、殺されちゃう。だから、逃がすまではここを離れられない」
「一緒に来るんだな」
少女はむっとしてから、脱兎のごとく駆け出した。とても素早く、森に慣れていることがわかる。裸足でよくもまあ、疾走できるものだ。やがて木々の重なりで見えなくなった。
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