第21話 井戸の中


 中に入ると、寒々しい光景が広がっていた。塀の内側は、空っぽも同然だ。天井はなく、丸く切り取られた灰色の空が、弱弱しく輝きながら、頭上に展開している。この廃墟のようなコンクリート空間、ところどころ錆のような染みが残されている。


「このパイプは松明とみた。こういう山奥だと、電気を引いてくるよりも安いのだろう」


 と考察する彼女の目線は、パイプの先端部分に向けられている。

 入り口付近、右手、プロパンガスが壁際にあり、タンクから伸びるホースは壁へと吸い込まれていた。バルブを捻れば、入口を除き等間隔に配された、塀に五つある金属の筒に、ガスを供給するようだ。


「じゃあ、この施設は夜中にも使われることが想定されているのか」


 と、黒井は推察した。なら、夜に訪れてみる価値もあるかもしれない。とても恐ろしいが、虎穴に入らずんば虎子を得ず。


 円の中央にて、二人は並んで立ち止まる。長谷川はポケットに手を入れ、黒井は腕を組む。そして、ついに彼は言及した。


「この 99 ってのは、なんだ」


 入口と対岸の壁、大きく赤く 99 と描かれている。高さ二メートル五十の壁にギリギリ収まるほど細みで、やや斜めに傾いたデザインは前衛芸術染みている。その簡潔さ、脈絡のなさ。そんな壁を前にする二人は、展示品を鑑賞する来訪者然としていた。


「こっちには枝分かれした模様がある」


 彼女のいう通り、入口を六時だとして、九時の方向に、稲妻模様がある。一点から地面と垂直に降ろされた線は、二手に別れ、水平に移動し、また垂直に降りてを繰り返す。


「二上山の怪物」


 彼の唇は、そう動いた。脳裏によぎるは、資料館で紹介された神の紋章だ。あれは一つの丸から八方に腕が伸びていた。だが、これは、もっと歪だ。


「形が違い過ぎる」

「きっと、成長したんだ」


 黒井は主張した。


「それか、これは別の視点からみた神の姿なのさ。あの資料館の図は、これを真下から見た図解なんだ。ほら、傘みたいに」


 つまり、一点から柳のように触手が垂れ下がる怪物である。それこそがこの土地に住まう、蜘蛛、なのか。


「二上山には、未だ古代の神を信仰する組織があるんじゃないか。それが『聖域』の意味だ。ここで、その組織がなにかをしている。子供を攫って、なにかをしている」


 という、黒井の見解。その根拠は薄く、そうでない可能性は多分に含まれている。だから長谷川は、こう咎めるのである。


「そう考えるのは早計だ。やはり、例の紋章とこの図を結びつけるのは飛躍がある」

「そうだろうか」


 しかし彼は、顎に手を当てて、深く思考を巡らせ始めた。


「どうする、黒井」

「もう少し、ここら辺を調査したい。誘拐事件の手掛かりがあるかもしれない」


 床の錆は、どこからか。模様の意味はなにか。施設の目的はいかなるものか。謎は沢山ある。そして、それらは手持ちの鍵では開かない。もっと時間が必要だった。


「これから私は、サヌカイトを探すべく、ここから少し離れたくぼみに向かおうかと思うが。集合はここでいいな」

「一人で大丈夫か。西田によると、この森は神宮司が修業をしてるそうだ。ばったり出くわさないとも限らない」

「心配するな。そう遠くない。悲鳴が聞こえる距離だ。エイリアンはいない」


 黒井は、長谷川の悲鳴を想像できない。想定すると、どんな叫び方も違和感があった。まあいい、知らない方が彼らにとって良いのだ。


「わかった。すぐ駆け付けよう」


 その台詞を聞いて、入口へ向かって歩いていた長谷川が立ち止まった。


「黒井。お前もまた、一人の人間であることを忘れるな。私の助けが必要なら、遠慮なく叫んでくれ。こう見えて、学生時代は運動部だったからな」


 と、また歩みだす。

 北上するには、入口からぐるっと建物の裏に回り、それからさらに裏の藪を迂回しなければならないようだ。この藪は陸の小島みたく繁栄していた。

 それにしても、ここに来て別行動である。その方が散策範囲は広がり、お互いの目的物が見つかる確率はぐっと上昇する。一つ問題があるとすれば、ホラージャンルでは、別行動ほど危険な行為はないということだ。それはともすれば、大問題かもしれなかった。

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