第19話 穴の中へ
*
長谷川は、まず柵にある破れの反りあがった端っこを引っ張って、穴を広げておく。黒井が通り抜けると、今度は彼が押し上げて、彼女が通れるようにしてやった。
そして柵の先、獣道は漏斗状に藪を穿っていた。植物の繊維が壁の模様として浮き出ており、それがまるで、ツェツェバエの腹のようで不気味なのだ。内部にいると、まるで己がウジになり、たった今、出産しようと試みている気分になる。なにはともあれ、あまり良い気分ではない。
「不思議の国のアリスみたいだな」
と、黒井は、ペンギンの骨格で、穴をよちよちと進む。長谷川は後ろにいて、彼の背中に手をついている。
「私の知っているアリスは、こんなに恐ろしくはなかったが」
「俺が言いたいのは、穴を越えた先に、別世界が待ってる気配があるってことさ」
まあるく光って見える出口。丸窓からはまばらに生えた木々や、落ち葉の地面。
まず、黒井が穴から這い出た。続く長谷川は、手のひらについた土埃を払った。立ち上がるときに汚れたのだ。
「場の空気が違うぜ」
と黒井。
敷地内は、意外にも整備されており、公園染みた景色。そこには、少しシュールな無味乾燥がある。人に忘れられた空間と同じ風が吹いでいる。微風は枝を動かさず、葉のみをそよがすので、写真の一部が動き出した趣だ。
「そうは思わない。一つあるとすれば風が、やや弱まったな。藪が壁になっているのだろう。さて、ここから北上しようと思う。地図によれば、この先の斜面に切れ込みがあり、狙い目だ。ひょっとすると、地層が露出しているかもしれない。転がってきた噴石が溜まっている可能性もあるな」
彼女は、髪をかき上げた。そして、黒井と目を合わせる。
「お前はどうしたい」
「俺か? 俺はそうだな。神宮司がこの森にいるか、いるとしたらどのあたりか、見当もつかない。とりあえず、なにか見つかるまでは同行しよう」
「もし、子供の死体を見つけたらどうする。お前が探している妹の死体だ」
長谷川は尋ねた。その質問は、心の準備をさせとく、という彼女なりの配慮でもあった。
「正直、諦めてる節もあるさ。あれから、もう一年。誘拐は冬だった。新生児があの寒さに曝されたら、肺炎になってもおかしくない。犯人が病院に連れていくとも思えない。骨だけでも持って帰れれば、と半ば思ってる」
「まあ骨が見つからなくても、動物葬だと思え」
「そうだな。鳥葬なんてのも聞いたことある」
彼らのやり取りに、どこか楽観的な響きがあるのは、彼らが死体の発見を真剣に考えていないからだった。黒井も、まさか犯人や死体に遭遇するとは思っていないのである。そんな都合のいいことあるはずない、と。しかしながら、都合の良いこと皆無なんてのは、それはそれで恣意的なのだ。
*
森の底を歩く。
自然公園でさえ、もっと雑草類は生えているだろう。この広大な敷地を維持するには人手が必要である。もしかしたら、ここを運営しているのは巨大な組織なのかもしれない。
「懐中電灯を持ってくるべきだった」
ここが薄暗いのは、曇りだからであり、冬だからであり、そして森の中だからだ。頭上は、バラバラになり折り重なるジグゾーパズルの形に、空が、梢と葉で切り取られている。木々の影は頭上に向かうにつれて深く、井戸の暗闇が枝の付け根に身を寄せ合っている。そんな、不気味なくらがり。照明を持ってこなかったのは、うかつだった。点在する微妙な暗闇は、やはり得体のしれない感じがした。
「友達と裏山に登ったことがある。そしたら、カラスの足首が落ちてたんだ。俺たちは転がるように麓まで降りたものさ」
一本足の烏が浮かぶ。もし、完全な死体だったならば、あの映像はトラウマにならなかっただろう。片足のカラスが、どこからから視線を送っているようでならなかった。
「お前、怖いことをいうな。ただでさえ、子供の死体があるかもしれないのに」
「死んだとは限らないさ。生きているとは思わないが」
微かな希望に目線を固定しておけば、その脇にいる絶望を見ずに済む、というやり方は余命宣告を受けた人間のする現実逃避に似ている。
いや、心境はそれよりももっと妹が死ぬ前の一週間と似ている。いずれやってくる現実をクリスマスの奇跡が片付けてくれると、なんの根拠もなく本気で確信していたあの日々。だからこそ、あの日、事件は起きたのかもしれない。
緩やかな斜面を登る。
「ここを登れば、平らな土地に出るはずだ。少なくとも、地図上ではそうなっている。建築物があるとしたら、そこ以外は考えにくいだろう。聖域というくらいだから教会くらいありそうなものだがな。寄ってみる価値はある」
黒井は、先導する長谷川を見上げた。ずかずかと踏みしめ、長い髪を揺らしている。そんな彼女は、彼の捜査も考慮してくれているらしい。
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