第18話 モナリザ


 *



 看板は実在した。


 その事実はとても奇妙に胸に迫った。それは、届かない場所に手が触れる錯視の不思議さと同様に、現実感覚が突き指してしまうようだ。


「意外と小さいんだな」


 助手席からの感想。現物は想像より小さく、A4 サイズ。少し傾いていて、思ったほど風化していない。


「まさに、看板界のモナリザさ」


 車を路肩に止めておく。ここを通る車両があるかは知らないが、彼はガードレールすれすれに駐車した。ガードレールの先は、すり鉢状に村へと傾斜している。坂の終わりには、畑が見える。


「こっちから降りた方がいい」


 黒井はドアを開けたままにしておいた。

 彼らは車から降り、色褪せたアスファルトを横断して、例の看板に近寄った。白い金属の板に青字、『聖域』だけ赤字になっている。注意書きにありがちな丸い書式である。


「本当に、俺の妹が言っていた土地なのか。それにしては、似つかわしくない外観だが」

「世の中には相対評価と絶対評価がある。ここは、ある場所からして楽園なのかもしれない」

「この森が、社会よりも暖かなところだと言われれば、納得してしまいそうだ。特に俺達は社会との不和を抱えていたんだからさ」


 そんな彼を心配した彼女は、


「後ろ向きになってはいけない。倒れるなら前向きだ。走り幅跳びを思い出せ」


 と、元陸上部らしい助言をして、柵から引き返し、車に寄り掛かった。ジャケットのポケットに手を突っ込み、後部ドアに背中を預ける。窓には、彼女の後姿と森が透明に映り込んだ。後部の窓には、どんよりとした空が反転する。一呼吸した。


「なあ、看板はもういいだろう。中に入れそうなところを探すのが次だ」

「………… それも、そうだな」


 彼女の言葉で彼は、看板は、ほんの通過点に過ぎないことを思い出す。これを見つけるために、ここまで来たのではない。……… まだ通過点か。


「柵があるということは、どこかに入口があるはずだ。しかし、鍵が開いている可能性は低いだろう。私たちは、柵の破れ目を探さなければな」

「そんなに都合よく見つかるか」


 黒井は疑問だった。


「ガードレールの向こうに畑がある。なにやら植わっているだろう。おそらく根菜類だ。畑にも柵がめぐらしてある。つまり、獣害被害があるということだな。猪が山から降りてきているに違いない。となると、どこかに柵を通り抜けられる抜け穴があるはずだ」


 畑の柵は、『聖域』のそれと比べると、ちゃっちく見える。人間ならば、容易に越えられる高さだ。


「この地域は猟があるそうだ。動物たちは、猟師が立ち入れない場所へ逃げ込むだろう。それに、『聖域』の英訳、『SANCTUARY』には、禁猟区という和訳もある。まあ、まともな人間は入らないはずだ」

「それじゃあ、これから侵入する俺たちが、まともじゃないみたいだ。その上で、野生動物みたいだぜ」


 彼は、笑った。久しぶりに笑った。ほうれい線あたりの表情筋が剥離しそうだった。


「実際、まともではない。私有地じゃないかどうか、本当のところは、わからないのだからな」


 長谷川は、自分の置かれている立場を理解しつつ、平然としていた。一線を越えるのは、織り込み済みのようだ。

 それに、彼女はまともでないことに慣れ切っていた。それは、決して学者の精神構造のためではない。他人より一つ多い指のために、ずっと己をそう思ってきたのだ。


 *


 彼女の予想する網の破れ目を探し、車を走らせて十分ほど、彼女の仮説は証明される。ある一枚の下部に大穴が空いていた。さらに、その奥の藪に、トンネル構造の獣道があるではないか。人がしゃがんで通れるほどの穴。


「下から押し上げている。猪だろう」


 彼女は、問題の穴の前に、しゃがみ込み推測した。障壁の前には側溝があり、茶色の枯れ葉が溜まっている。


「もしも、穴が見つからなかったら、一旦、町に降りてニッパーや鉈を買いに行かねばならないところだった」


 彼は意地でも、ここから先の土地を踏むつもりだったらしい。つまり、この男にとって隠し通路の発見は必須ではなく、時間短縮でしかないといいたい。


「そういえば、地図、持ってきたんだったな」


 彼は、カバンの中から、一枚の地図を取り出して手渡す。あのブログ主が作成した地図。地形図の上に書き込まれているので、位置関係が把握しやすい。


「ただ、方位磁石を忘れた」


 方角もわからないまま、森へ立ち入るのは危険か。やはり町へ降りて装備を整える必要があるのか。彼女は、日の傾きで方角を感知できるそうだが、森の中では木々が頭上を覆っていて見えない。


「スマートフォンにアプリが入っている」

「問題は、電波が通じていないことさ。ここら辺は通信が悪い」


 おまけに、今日は曇天だ。


「問題ない。多くの方位磁石のアプリは位置情報なしでも動く」


 羅針盤を起動して、携帯機器を水平に保ちながらぐるりと回して見せる。北を示す赤い針は『北』場所を示し続けていた。余談だが、磁気センサーを搭載している機器は割とある。長谷川のようなフィールドワークをする学者には、うれしい機能である。


「これで役者はそろった」


 黒井は、そびえたつ柵を前に、意を決した。

 この不気味な森の内部へ。

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