第16話 駐車場
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資料館を後にする。学校の廊下は、学生時代よりもずっと狭く感じた。
無限にも思えた廊下。一つ隣の教室はまさに別世界で、それが大人になり遠くまで見えるようになると、己のいる場所の小ささを認識する。子供の世界、大人の世界、どちらの世界が広いのだろう。
「廊下の展示ブロック、床と同じ色彩だ」
長谷川は気づいた。言う通り、クリーム色の床に、黄色のそれが同化している。
「別にいいんじゃないか。だって、点字ブロックだろう」
黒井は、軽い調子だった。
点字ブロックは視覚障碍者のためにある。だから、視認性など考慮しなくてもよい。それは合理的な判断だと疑いようなさそうだが。
「ならなぜ、点字ブロックは、ああも明るい色をしていると思う」
長谷川は右手の人差し指を立てた。無論、手袋の中には指が六本あるので、便宜上、親指の隣をそう呼称しているだけだが。
「確かに考えたこともなかった」
現実にナンセンスは溢れている。だから、こんなに明白な矛盾も、矛盾だらけの日常に紛れてしまうのか、人々はあまり関心を持たないらしい。
「いつか、視覚障碍者の学生に尋ねてみたことがある。どうやら、点字ブロックの利用は全盲だけではないらしくてな。弱視の人間が目印にして歩くのだそうだ。だから視認しやすい色合いをしているというわけだな」
つまり、この世の中には、実に色々な人間がいて、彼らの存在を勘定に入れてやらないと、矛盾した答えがはじき出される。そしてそれは、奇妙であるとすら思えないほど自然に、
「それは知らなかった」
黒井は黄色い線を目線でなぞった。
*
玄関で靴に履き替えて屋外に出る。あたりは薄暗い。明度は低いが陰影は濃い。寒空は、人々が何処にも行けぬよう、半球の蓋として被さっている。こういう日は、世界がずっと狭く、彼らの周りだけが全てだとすら感じる。
「あの男は、気味が悪い」
彼女は、駐車場への階段の手前で立ち止まった。ここは古い設計なので傾斜路はない。車いす利用者は、段差のない正面玄関まで迂回するか、他人に頼ることとなる。
「まったくだ。ずっと鼻息を立ててる。気管支が弱いのかもしれない。なら、あんまり指摘すべきではないけどさ」
と彼は、振り返りもせず、ずかずかと階段を下った。これから行くべき場所がある。歩幅が自然と大きくなる。
「『聖域』は神宮司の祖父の土地だったらしい。亡くなってからは遺族が相続したに違いない。息子はすでに自殺しているから、配偶者か孫が相続したのさ。神主が女性でも許されるようになったのは最近だから、孫だろう。そいつは、俺が追ってる誘拐犯かもしれない」
その説を聞いて、長谷川はにっと笑った。
「相続? 黒井、本当にそうか。もしそうなら、西田とかいったあの男は、私有地であると告げれば済んだ話だ。不法侵入という罪名は、十分すぎる抑止力だからな」
「あそこは私有地じゃない、っていいたいのか」
彼女の大きな瞳が、身じろぎ一つせず、肯定した。
「なるほど、神宮司は孫に、あの土地を残さなかったのか。還俗する際に、土地を売り払っていても不思議はない。当時、孫は十代だったはずだから、むしろ相続しなかったと考えるのが自然かもしれない」
孫が当時、十代だった。
三十で自殺の彼が、二十で子供を産ませたと仮定して、彼の息子は当時、十代。それが三十年前のことだから、子供は現在、四十歳。例の男と同学年の西田も、まさにそれくらいで、この計算はある程度、信憑性があることになる。
それに、西田によると、神宮司が改心して、世界平和を願うようになったのは、祖父を亡くしてからだという。その点からも、彼があの神域を相続する必然性はまったくないのである。
*
駐車場には黒いセダンが止まっている。筆箱みたいな車両だ。旅館から俳句会、俳句会から小学校まで乗ってきた。田舎は車社会、どこへ行くにも遠い。黒井は車に乗り込んでから、声をかけて欲しそうにこちらを見つめる長谷川に、
「サヌカイトが欲しいんだろ。なら、一緒に来ないか。天性の方向音痴でさ。子供の頃、住宅街で迷って警察に保護されたことがある。結局、そこは家の近くだったんだけどさ」
彼は、エンジンをかける前に、ギアがニュートラルか確かめるべく、シフトノブを左右に揺らした。
「そうしよう。私は方向感覚がある。日の傾きや、植物の向き、目印などで把握している。あっちが北だとかな」
手刀を入れるようにして、方角を示した。
「丁度、北に向かいたかった。まあ、乗れよ」
と、促されて、彼女は助手席に乗り込む。背の低い背もたれに腰掛けるのは一苦労だ。エンジンが始動すると、排気音は細かい振動を伴って伝わる。車内空調の暖気の音と臭いは、それだけで体感温度を足し算してくれるようだった。
唐突に、黒井が太ももへ手を伸ばそうとしたので、長谷川は身構えた。なんてことない、サイドブレーキへ手を伸ばしただけだ。サイドを戻して、一速に入れる。メモを確認するまでもない。
次の目的地は『聖域』だ。
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