第10話 神宮司
なるほど、あの土地の管理主は亡くなっていた。
「いつですか。いつ、亡くなられましたか」
黒井は尋ねる。もしそれが一年以上前ならば、土地の持ち主である彼が誘拐犯である可能性は、ぐっと下がる。
「三十年ほど前、三十になる息子さんを亡くしてからすぐだったと思います。その時、神宮司さんは、六十でしたかねぇ。若いのに」
三十年も前なら、妹の一件に関わりはない、と断言してもよいだろう。
「ははあ、息子さんが三十で。それは事故ですか、それとも病気」
「自殺だったそうですよ。それで神宮司さん、それまでは結構、元気だったのですが。息子を亡くしてから痴呆が急激に進みなさって。よっぽどショックだったんでしょうねえ。ほどなくして痴呆のせいか餓死しました。今、思うと、自殺だったのかもしれません」
そうも立て続けに人が死ぬ、というのは不自然で不気味である。だから彼は、死の裏側になにかが隠されているのでは、と邪推する。
「まさか、貴方が調べている誘拐事件と、あの土地や神宮司さんは、関係があるのですか。あの神宮司さんが事件に関わっているなんて、とてもじゃないですか、信じられません」
田代の言葉には、否定の響きがあった。
「それは、ちょっと断言しかねます。まだ、情報が少ないんで。ただ、妹が死ぬ前に、『聖域』について話をしていたんです。その土地の管理者は、神宮司さんだった。なら、なにかしら関連があるかもしれない」
彼は必死に説得した。ここまで、犯人に接近したことはない。興奮もしていた。言葉は、よどみなく流れるのではなく、むしろところどころで迸っていた。
*
彼の熱意が通じたのか、彼女は切り出した。
「とりあえず、おあがりくださいな。立ったままだとつらいでしょうから」
「本当ですか。お邪魔します」
通されたのは、玄関の右の扉を抜けて、すぐ左に折れた部屋だった。この一室は、ここだけ切り取られたかのように和室であり裏庭に面している。掃き出し窓の外側のすぐ真下に、黒のトロ船が見えた。
「メダカですか」
黒井が窓辺によると、田代は窓を開放した。二人は魚達を脅かさないように、そっと門域に手をついて、猫のごとく水面を覗きこむ。水面には錫色の空が薄い被膜を作っていた。
「小さな鯉のようでしょう。最近は、沢山、品種があるんです。この銀のメダカ。ひと昔前は五千円もしました。今では、五百円で手に入りますがね」
冬なので、魚のほとんどは底にじっとしている。黒井は、水底に落ち着く集団の中に、変わった体形を見つけた。
「あのメダカ、なんか、背中が変ですね」
「あれは奇形です。背まがり。うちで生まれたのですが、血が濃くなり過ぎたのでしょう。兄弟同士で掛け合わせるべきではありませんでしたかね。人間で考えるとおぞましいことですよねえ」
彼は、なにも言わず、その寸動な魚を見つめた。背中が S に湾曲して、腹が達磨のように膨らんでいる。
「でも、あの子、餌を食べるのだけはうまいんですよ。不思議」
二人は、静かに立ち上がり、窓を閉めた。音がしないように、そっと慎重に。
*
さて、この暗い和室には長机がある。やくざの総会はこんな感じだろうか。田代たちは、普段、ここで俳句を詠んだり、茶をたしなんだりしている。
田代は、メダカの池を背に座った。そして、黒井はその対面に座った。長い机の中央よりやや左だ。窓枠に切り取られた淡い日光が、二人を渡している。
黒井は、まずここに来た経緯を、詳しく説明した。妹の死と、子供の誘拐、中年の男、犯人と子供の行方が分かっていないこと。事件から一年が経とうとしていること。聖域について。田代は険しい顔をして、黙って聴いていた。
「ほう、誘拐されたのは、妹の子供さんでいらしましたか。私はてっきり、妹さんが誘拐されたのだと。その件は、心中、お察しします。それで、私になにか手伝えることはありますか。まず、村のことを、どこから話せばいいのだか」
黒井は、途中、田代が淹れてくれた、お茶をすする。暖かなほうじ茶は、冬の寒い日では格別だった。このお茶には、すこし渋みがある。舌や口蓋にざらつく苦み。
「ではまず、彼の顔を見たことはありますか」
モンタージュを取り出して机の上に置いた。事件の日、妹と中年男のやり取りを目撃した男の証言を基に構築されたモンタージュ。その情報は、偏見を取り除くため伏せておく。
「さあ。こういう顔立ちの人は沢山いますからねえ。しかし、なかなか整った相貌でいらして。飄々としているけど、なんだか信用できないような」
特徴が少ないからこそ、今まで、捜査に網に引っかからずに済んだのだろう。たった一つ、邪悪なアルカディック・スマイルが印象的か。口元は、聖域を騙るには十分すぎる、胡散臭さを発散してる。
「じゃあ、こっちはどうですか」
モンタージュをもとに AI 生成した、男の顔写真。より、現実的だ。
「さっきと印象は変わらないのですが、ただ、こっちは、どこかで見たことがあるような、ないような」
「なら、こっちは。田代さんは、片田小学校の教師をされていたそうですね。それで若返らせてみたんです」
黒井の手でなるべく系統が被らないように選別された、六種類の少年。人工知能によって、犯人の顔を小学生時代まで若返らせた。
「あら、私もやってみたいわ。じゃなくて、これこれ、みぎしたのこれ。神宮司君じゃありませんか。やっぱり、この口元に見覚えがあったんです。私が初めて担任をしたときの生徒でしたので、良く覚えてる。もう何十年も昔の話で、懐かしい。でも、そんなまさか」
神宮司。
点と点が繋がらないまま奇妙に共鳴する。その名前が最初に出てきたのは神社の話だ。神社の神主、息子を亡くしてすぐに餓死した男。それとも、その息子か。どちらも三十年も昔に死んでいるようだが。
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