第8話 朝食の終わり


「巨大な蜘蛛。実在すると思うか」

「世の中には不思議なことが沢山あるからな。私が知り尽くせないくらいに」


 長谷川は落ち着き払っていた。表面では肯定しつつ、真剣に信じていない、といった態度だ。


「不思議といえば、二上山の山頂は不思議だ。大阪側からだと二つ山頂があるのに、奈良からだと一つしかない。角度の関係かな」


 黒井は、さして不思議でもなさそうに云った。二上山は、一回り大きな山頂が、小さな山頂と一直線上に重なることで、後者を覆い隠してしまう、というのは彼でも理解できる。

 長谷川は口を開いた。


「それに、県、府境にある二上山は、奈良側からよりも大阪からのほうが標高が高く見える。大阪一帯は、奈良盆地はよりも低い位置にあるか、そこへ傾斜しているか、目の錯覚があるかなのだろう。もしくは、大阪側の方が裾野が広いのかもしれない」


 と、彼女の仮説。標高と形状、見る角度によって、ここまで表情を変える山も珍しい。しかし山に限らなければ、世の中にはそういう事例は沢山あるのだ。


「そうか、山の高さじゃなくて、地面の低さか。発想の転換というやつだ」


 彼は云った。



 *


 女将が頃合いだと食器をさげに来る。時間間隔は正確で、二人は、朝食を食べ終えたばかりだった。その際、彼は、彼女に二上山について質問した。そして、言葉が返ってきた。


「ええ、二上山ですね。大昔、あの山は神様だったそうですよ。古くは、この村で信仰の対象でした。なんでも村の守り神だったそうです。今は、忘れられた信仰ですがね。この村のどこかに、神社があったそうです」


 つまり、二上山は『聖域』なのだ。では、二上山の裾野にあるこの村もまた『聖域』なのだろうか。


「山が守り神、神道か」

「詳しいんだな」


 長谷川は感心する。


「こんなのはまだ、にわか、、、さ」


 それは謙遜ではなく本心からの言葉だった。


「もともとは、妹の趣味かな。あいつはオカルト好きで、生まれてくる子供のために安産祈願を買いに行ってやったこともあったよ。画数も一緒に考えたりしたものさ」


 彼女は、自然分娩を選んだので、安産の願いは切実だった。彼も、藁にすがる思いで買いに走ったわけだ。


「いい兄だ。私もそんな兄が欲しかった。もっとも、本当に欲しいのは姉なのだがな。きっと兄だと甘えられない」

「兄妹ってのは、そんなにいいもんじゃないぜ。あいつが妹でなければ、と何度思ったかわからない。いろいろな意味でさ」

「私には贅沢な悩みに思えるが」


 彼の神妙な表情は、複雑な感情が渦巻いていた。


「ふふふ」


 女将は、口に手を当てて、幸せそうに笑う。無邪気だった。彼女が年齢を超越した少女性を有しているのは、仕草の自然さにあるのかもしれない。


「いや、なんでもありません。ただ、懐かしいもので。この旅館に人がいて、お話をしているのは久しぶりなのです。登山ブームの頃は、料理がおいしい隠れ宿として人気があったのですがね。今は、鉱物採集のお方がちらほら見えます。ほかは狩猟ですかね。こないだのお客様も、狩猟だったと思いますよ。黒井様も、そういったご理由ですか」

「いいや、俺はジャーナリストのようなものです」


 渾身の冗談のつもりだったが、肝心の長谷川は窓の外を眺めていた。ばっくりと開いた、大きな目だった。


 *


 朝食後は、二階の自室に荷物を置きに行った。部屋は思いのほか広く、くつろげる。畳の匂いが良い。広縁からは片田村が一望、いや半望出来た。村の中央部が見える。片田小学校と酒屋、そして田んぼが見える。

 広縁の机にパソコンを設置した。屋根のアンテナのおかげで電波が届いていた。ダムが検討されるような、山間の地形では、電波はあらゆる方向から妨害され、パラボラで集めなければならないほど微弱である。

 黒井は、手帳を開く。夜中のうちに、するべきこと、訪れるべき場所、その時間、夜のうちに箇条書きにしておいた。次、訪れる場所。片田村俳句会へ。

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