第7話 朝食


「俺は黒井だ」


 突然の自己紹介に、ちらちらと目線を配りつつも、彼女も返すことにした。


「私は長谷川だ。えらい洋風な名前だな」


 長谷川は味噌汁の豆腐を引き上げる。この豆腐は雑味がまったくなく、豆の風味すらないが、それがむしろ高級だった。にんじんは程よく生で薬味がするらしい。


「どういう勘違いなのかわからないが、俺なら、黒い井戸で黒井だぜ」

「カタカナで解釈していた」


 それを受けて、長谷川の名で、なにか気の利いたことが言えないか、組み直したりしているうちに、彼女は口を開いた。


「片田村には噴石を採集しに来た。私は、決して、人なんか殺しに来ていないぞ」

「その噴石ってのはサヌカイトだろ」


 自信満々に指摘した。その鉱物が二上山周辺で採れることは、インターネットで予習済みだ。


「ああ、そうだ。香川で採れるのは叩くと澄んだ音色で、石琴にすることが出来るらしいが、奈良のはどうだろうな」


 と長谷川に尋ねられても、黒井は、さあとしか返す言葉がない。


「なあ、ブログとか書いていたりしないか。以前、片田村に来たことがあるだろ」

「いや。お前が想像したのは、別人だ」


 彼は鮭をほぐして口に運ぶ。余すところなく油が乗っていて、箸で押しつぶすと、オレンジの油分がさらさらと流出した。まるで、フレンチの飾りだ。


「サヌカイトを講義で使おうと思ってな。手ごろなのがなかったもんで。それと私の趣味もあるな」

「本当に?」


 ご飯を運ぶ手を止める。 でも、そういわれると、話し方がなんとなく学者っぽさを含んでいる。


「私の素性について、そんなに神経質になるようなら研究室に来ればいい。部外者の聴講も可能だ。もっとも、お前が来たら、なんとなく面倒なことになりそうだが」

「そうじゃなくて、講義って、まさか大学教授なのか。だって、二十代くらいだろ」


 彼女も箸を止めた。


「違う。いや、違うというのは前者の話だ。私は二十五だからな。というのも、教授ではなく准教授でな。もっとも、教授と違うのは、その分野にいた期間くらいだ。世の中、実力以外にも必要なものはある。教授にも必要とされるのは、皮肉なものだが」


 彼女は、なんだか歯切れが悪そうに説明した。悔しさともどかしさ、准教授という立派な立場に不満を感じているようだった。彼には理解できない向上心だ。励ますわけではないが、ここで、彼の悲惨な身の上を紹介しておく。


「同い年か。俺なんか、この年で無職だよ。一年前に仕事を辞めて、今は、貯金を切り崩して生きてる。あと五年は持つかな。働き始めてから、遊ばずにずっと貯金してたからさ」


 彼の描く幸せのために、じっと耐え忍んで貯金していたのだった。それは、イチジクの木に水をやるようなものだったが。


「その恰好から報道関係者だと踏んだのだが。ふむ、失職中か。なにか仕事でやらかしたか。しかし、それだけで解雇されることはないだろうが。じゃあ、それこそ犯罪か」


 最後に、残ったひじきを掻き込んだら、彼は彼における、これまでのあらすじを始めた。


「一年前に妹が轢死して、事件にいろいろ不可解な点があったから、調査中というわけさ。上司には止められた。それは、腕の良さとかじゃなくて、俺の生活や未来を憂えてのことだった。でも、仕事をしながらじゃ犯人捜しは出来ない。それに、あの時は正気じゃなかった。一分一秒が惜しかったんだ」


 二日なにも口にしなかったり、三日風呂に入らなかったり、五日連続で徹夜をしたりと、不安定になった。そこから立ち直れたのは、皮肉なことに、犯人捜しという目的のためだろう。


「お察しする。といえど、私は一人っ子だからな。その痛みは知りようがないが。まあ、とにかくフリーのジャーナリストみたいなものか」

「そういうと聞こえがいいが」


 そう否定するものの、彼はその語感を気に入った。妹の死の謎を追い求める孤高のジャーナリスト。


「それでお前は、片田村になにをしに来た。いや、妹の死に関連することはわかった。ただ、なんでこんな辺鄙な場所で調査をしている。だって片田村に電車は通じてないだろう。おかげで、ここまで来るのには苦労した」


 彼女は、スクーターで来たので、道の細さは問題にならなかったが、エンジンの非力さが障害だったようだ。


「『聖域』を調べに来た。妹が死ぬ前に言及していたんだ。その時は、ものの例えかと思ったが、現実にそういう場所が存在していたのさ。それが片田村のある一角だったというわけだ。誘拐された息子が、そこに監禁されているかもしれない」


 長谷川の視点では、自分の言動はかなり電波ではないか、と黒井は心配した。なんせ、SANCTUARY である。頭がちょっぴりあれだと勘違いされても仕方がないが、彼女は寛容さを示した。


「それは興味深いな」

「なにか、知っていることはあるか。『聖域』という単語について」


 ダメもとで訊いてみる。


「私は飽くまで地質学者だ。宗教はしらん」

「地質学者だったのか。そうか、そうなんだけどさ」

「そうだな。私に片田村を教えてくれた受講生が、なにか話してた気もする。村に変な柵があるとか、そこで怪物を見たとか。ふむ、私が気づかなかっただけで、私が本当にここに来た理由は、そこにあるのかもしれない」


 夜中に閲覧したブログと同じ内容だった。それで、彼は、やはり柵の区域は実在するのだと確信した。


「まさにそこだ。その柵の内側が『聖域』なんだよ」

「面白そうだな。なにかわかったら聞かせてくれ。そしたら、あの娘への土産話になる。あれは私のお気に入りだからな。ああいう熱心な生徒ばかりだといいのだが」

「その生徒は、その怪物とやらについて、もっと話してなかったか」


 怪物。ブログ主は蜘蛛だと表現した。もし、これから訪れる土地になにかしらの脅威があるなら、知っておきたい。


「例えるなら、人ほどある巨大なシドニージョウゴグモのシルエットだそうだ」

「シドニージョウゴグモ?」

「無論、なにかの見間違えだろう。ブナの枝とか、鹿の角とか。ごくごくわずかに、未知の現象や生き物である可能性もある。検討しなくてもいいほどにな」


 彼は、おでこをさすった。


「俺は、そのシドニージョウゴグモってのがわからない」


 それは、オーストラリアのシドニーに生息する蜘蛛である。新大陸の動物らしく毒性が強いので、虫の図鑑なら、シカリウスやドクホシグモとともに必ず載っているだろう。真っ黒な体毛に、性的なほど真っ赤な牙の内もも。


 

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