前編

第1話 悪夢から覚めて


 黒井伊月くろいいつきは、ついに悪夢から目を覚ました。室内は、冬の冷気が満ちているにも関わらず、寝間着は大量の汗でぐしょぬれだ。


 とても、嫌な夢だった。しかしながら、肝心の内容は、ぼんやりとしか覚えていない。人が死ぬ夢だった気がする。ただ一つ、踏切の警告音だけは、金属質の痛みを余韻として、鼓膜に残っていた。


 机上にあるパソコンの電源は落ちていた。つまり、一時間以上は寝ている計算だ。目覚まし時計を引き寄せると、午前二時、草木も眠る丑三つ時。すなわち、二時間しか寝ていなかった計算だ。それなのに眠気はすっきりと晴れている。最近ある寝起きの疲労感は、むしろ寝すぎから来る不調だったのである。

 さて、そんな風に不可解に思う彼がいる部屋は、常夜灯のみで、ほの暗い。パソコンの黒い画面に、彼のシルエットが亡霊のように浮かんでいる。少し背が高い細身の男で、やや撫で肩である。特徴がほぼない男だが、それはあるいに、非の打ち所がないという意味も兼ねていた。


 パソコンの電源ボタンを押すと、画面の光で、部屋がぱっと明るく照らし出され、彼の部屋の異様な様相が明らかになった。


 壁に、おびただしく張り付けられた子供の写真。大阪府内で行方不明になった子供達。写真の傍に、彼らが失踪した場所や時間、名前などが付箋されている。

 そして女性の写真と、ある男のモンタージュが、子供たちに囲まれるようにして、同じ高さに貼り付けられている。彼が座った時の目の高さだ。

 右手の壁がこんなありさまだと思えば、彼の正面には大阪の地図がでかでかとある。地図には丸い印があり、これは最後に子供たちが目撃された場所である。赤点は、無秩序に散在しているようだった。川沿いに集中している箇所も見受けられるが、水難事故を誘拐と間違えているためだ。


 *


 ニュートンの揺り籠のように、ぐるぐるとロードしていたパソコンが、ようやく立ち上がった。パスワードを入力する。四桁の数字だ。

 前半が十二を、後半が三十一を超えないことから、おそらく誰かの誕生日だと推測できる。ロック画面が上部へ退散して、ホーム画面が表示されると、主題は例の女性だった。パスコードはまさにこの女性の誕生日である。


 彼女は、東屋を背にして微笑みかけているが、壁の写真と違うのは、右隣に彼自身が寄り添っていること。服装からして、壁の写真の直前か直後に撮影されたものだ。

 この写真も、あの写真と同様に、淡い空気感がある。日当たりの良い窓辺に置いた折り鶴もこんな切なさで、卒業式の後、誰もいない教室の黒板もこんな眩しさである。彼女の悲しい運命を知る彼の虹彩が、その女の写真を、ガラス越しに感じさせるのかもしれない。


 その女、つまり黒井伊月のたった一人妹、黒井舞咲まえさきは、一年前の明日、電車に飛び込んで死んだ。花のように、バラバラになってしまった。享年二十二歳、結婚して子供が出来た矢先だった。


 事件に居合わせた男によると、電車に飛び込む前、謎の中年男が、彼女の子供を誘拐している。黒井は、この一年間、仕事を辞めてまで、その男、つまりモンタージュの男を追っていた。妹の子供を、なんとしても取り戻さねばならない。


 *


 彼の妹は生前、産後鬱セミナーに参加していたのだが、どうも、そのセミナーが怪しい。これから誘拐する子供を選定するならばうってつけだろう。会の名前が、『自宅でもできる料理講座』と偽装されていることからも、やはり開催者がくさいのだが、会場の運営は、彼の行方を突き止めることは出来なかった。提出された電話番号や住所なども、やはり偽りだったのだ。


 セミナーの他の参加者からも、情報を集めることにした。一人だけ、セミナーで、妹と知り合いになった女性がいる。彼女の電話番号を、彼は知っていた。電話がつながると彼女の父親が出る。彼は、悲しい声で伝えた。


「娘は自殺しました」。


 どうも、妹が電車から轢死した三か月後に、首吊り自殺をしたらしい。息子のその後について尋ねると、奇妙なことに、両親は子供の存在を知らないという。実の両親が娘の一人息子を知らないなどありえるか。更なる調査で判明したことは、彼女の子を知る人間は、彼だけだということ。

 周囲の人間から記憶が抜け落ちている、と考えるより、あの子は見間違いだった、と考える方が合理的だろうか。しかし、黒井は見たのである。母親似のほっぺたをした男児の姿を。


 混乱した。これは超常現象なのか。母親が死に、その子供がどこかへ連れ去られてしまう怪現象。いいや、そんなわけない。これは大規模な誘拐事件なのだ。きっと犯人は、何らかの方法を使って、周囲から子供の記憶を消した。どうやって?


 *


 とりあえず母親の自殺、子供の失踪が目印だった。合致する事件を調べていけば、いずれは事件の全体像が見えてくる、そういう方針で、現在、彼は活動しているのだった。

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