第28話 エピローグ 真矢と仁美

 次の日の朝、二人きりの甘い時間をできるだけ長く堪能していたかったから、チェックアウトは制限ぎりぎりの10時になった。

 二人とも神戸の街は初めてだ。ちょっと観光してから帰ろうかとも話していたのだが、人の多い観光地を巡るよりも二人だけで静かな時間を楽しむことにした。

 チェックアウトが遅かったので二人はお腹がペコペコで、まずはホテルから出てすぐのところにある喫茶店でモーニングを注文。そこで他愛ない話をして時間を潰した。

 元町の高架下商店街をぶらぶらと手を繋いで阪急電車の三宮駅まで歩く。そこから大阪方面へ向かう電車に乗った。通勤時間帯はとっくに過ぎているから車内は空いていた。荷物を網棚に上げ、空いた席に座る。手を繋ぐ。お互いほとんど口はきかないけど、絡めた指先から「好き」「私も」の会話をずっと続けているから、特別に会話する必要はなかった。

 梅田で京都方面への電車に乗り換える。特急電車は京都へ向かう観光客で結構混んでいた。二人は混雑する特急電車は避けて、停車駅は多いが空いている急行に乗ることにした。荷物を網棚に上げ、空いた席に座る。そして手を繋ぐ。

 大阪からだと、仁美の家の最寄り駅の方が真矢が降りる駅より手前にある。でも仁美はそこで降りなかった。できるだけ長くいっしょにいたくて、真矢の降りる駅までいっしょに行くことにしたのだ。

 今、二人は西京極駅のホームに立っている。

 改札口から階段を上がった、ちょっと高くなっている土手の上にあるホームには、もちろん屋根もあるのだが、夏のこの季節、土手に植えられた桜の木が旺盛に茂らせた緑の葉のおかげで、あちこちに濃い影が作られている。そしてどこにいるのか見えないが、桜の木に留まっているのであろうセミが大音響で鳴いている。

 ホームに降りた仁美は真矢の手を握ったまま離そうとしない。真矢はちょっと困った顔をして、

「しょうがないなあ。次の電車が来るまでいっしょにいてあげる」

 二人は桜の木陰のベンチに並んで座った。背負っていたバッグは足元に置き、再び手を繋いだ。繋がれた手のひらは汗でじっとりしているけど、お互いの汗だと思うと全然不快ではなかった。

 次の電車が来ても、その次の電車が来ても、仁美は動こうとしない。真矢は、こりゃとことん付き合うしかないか、と腹を括った。

「仁美、子供じゃないんだしさあ……」

「うん……」

 俯いてずっと黙っていた仁美が、ぽつんとつぶやく。

「私、アキラちゃんみたいになりたいって言ったけど全然あかん。今、真矢と離れるのさえこんなに寂しいやもん」

「相変わらず寂しがりやさんやなあ」

「うん……」

 仁美は小学校のとき陸上教室の合宿から家に帰ったときのことを思い出していた。あのときは一週間だけだったけど、今度は5ヶ月近くもずっと真矢といっしょだった。それが当たり前のように生活してきた。楽しいことばっかりじゃなかったけど、だからこそ真矢と離れたくないという気持ちがいっそう強くなる。

「そんなにすぐアキラちゃんみたいになれるわけないんやから、焦らんでもええんとちゃう?私等に今できることを一生懸命やる。それしかないやん。そしたら結果は自ずと付いてくるって」

「うん……そうやね」

 仁美は俯いていた顔をちょっと上げて真矢を見た。そんな仁美の顔を覗き込むようにして真矢が続ける。

「今年のU18、勝ちに行くで。来年の日本選手権出場の大きな足がかりになるし」

「日本選手権、二人で出るって言ってたもんね」

「そうやで。二人で金メダルとって、記録も塗り替えんねんで」

「そうやったね」と言いいつつ、やっと仁美がふふっと小さく笑った。

 中学1年生のときの全中の全国大会。いっしょに泊まった宿舎のロビーで真矢とそんな話をしたっけ。真矢も覚えていたんだ。

「明日、9時、いつものサブトラック集合な。休みは今日で終わり!」

「うん、わかった」

 電車がホームに滑り込んできた。仁美は今度こそ立ち上がってカバンを背負うとホームの端へと進んだ。そこで一旦振り向き、拳を真矢の方に差し出した。

「また明日ね」

 真矢がその拳に自分の拳を軽くぶつける。

「また明日」

 仁美は開いたドアから電車の中に足を踏み込む。ドアが閉まる。ドアのガラス窓からこちらを見た仁美は、ちょっとだけ複雑な表情をして、すぐに笑顔をつくり、小さく手を振った。

 ホームから走り去る電車を見送りながら真矢は思う。明日も、明後日も、その次の日もずっとずっと私たちは走り続ける。その向こうに何があるのかは分からない。何があるのか、それが見たい。そこにはきっと私たちが心から望むものがあるはずだ。

 真矢は自分の左手を開いてじっと見た。ついさっきまで仁美の右手と繋がれていた左手には、まだ仁美の手の感触や温もりが残っている気がする。

「仁美の寂しがり屋が感染っちゃったかな」

 真矢は苦笑いしてそうつぶやくと、踵を返して改札口へ通じる階段をゆっくりと降りていった。次の物語はもう始まっているんだと自分に言い聞かせながら。


おわり

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陸女(陸上競技大好き女子) @nakamayu7 @nakamayu7

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