水に、沈む。底に、浮く。【東ノratnaketu】

橘 永佳

No.0、あるいは始まりの一歩手前

 受付で硬貨を3枚支払い、その脇の階段へと進む。


 大体はさらに向こうへと、エレベータのある角へ足を進めるものだが、圭吾はいつも階段を選択していた。


 結構な歴史を持つ市営スポーツ施設だからと言ってしまうと偏見になってしまうが、遅い狭いぼろいと三拍子そろったエレベータの中は、正直やはり気分が乗らないものだ。


 まあ、所詮しょせん3階程度なら歩いても苦になるほどのことでもない。

 マンションの自宅も、通う公立中学校も、どちらも普通に階段で昇り降りしている圭吾にとっては気にもならないことだった。


 上がってすぐの更衣室で着替えて、通路に戻って重い扉を押す。

 照明を受ける水面が広がっていた。

 幅は圭吾は知らないが、長さはもちろん知っている。


 25m。

 一般的な大きさの、屋内市民プール。


 学校のプールが経年劣化で使えなくなり、水泳の授業では外部の施設プールまで行くことになって、はじめて知った場所だった。


 もう夜の8時手前、天井の半分近くを占めるガラス窓から覗ける空は暗い。

 目線を屋内に立ち返ると、スポットライトのような強めの照明が何台かあるおかげで、晴天の昼間に比べると明暗のコントラストが激しいものの、十分な明るさが確保されている。


 照らされた屋内のに対して、ガラスの向こうの夜空は見当が付けられないほど


 閉館一時間前こんな時間に季節外れなことも重なって、この施設自体閑散としており、プールに至っては圭吾以外は誰の姿もない。


 理想的な状況だった。


 別に人目をはばかることをするわけでも無し、誰が居ようが関係ないのだが、ことが大切ポイント

 水に遮られて音が聞こえない伝わらない、水で閉ざされた満たされた箱の中プールは、圭吾にとっては条件を満たす空間なのだ。


 水泳ゴーグルを確かめて、プールの端から静かに足を入れ、ゆっくりと中央へと進む。


 どの端からも遠いところまできて、揺蕩たゆたう圭吾。


 ガラス向こう頭上には底は無く、水面下足元の底は明るい。


 腹式呼吸を何度かして血中酸素濃度を上げる。

 実際には効果が無くても、そんな気になることが大切なのだ。


 手に取れる方の底へと灯りを求めるように、顔を沈める向ける


 そのまま薄く、細く、滞りなく、息を吐いていく。


 ゆっくり、ゆっくり。


 ゆっくり。


 沈んでいく近づいていく


 届く。


 振り返る。


 明暗差が強い照明のせいで、さして遠くない水面の波紋も強弱があるように見える。

 スポットライトのある辺りは白く煌めき、それ以外との隔たりを強くしていた。


 こう見ると、月が6つほど浮かんでいるようだ。


 その向こうにあるはずの果て無い黒は、遮られている今は、その姿を消している。


 明るい底を背に、虚像人工の月へと顔を向ける圭吾。

 吐き続ける息が、小さな気泡となって月へと昇っていく。


 明日から、父の再婚相手との同居が始まる。


 母は自分が生まれて間もなく亡くなったので、瞼の母の姿が邪魔をするといったことは、まあ特には無い、と言えるだろう。

 それよりも、普通に考えれば、家事の負担を分散できるだろうから、父の負担も軽くなるということで、それだけでも十分もろ手を挙げて歓迎すべきだ――


 ――とは思う。

 そこは疑う余地はない。間違いなく本心だ。


 まあ、炊事に洗濯に掃除と、真似事の域を越えられていないかもしれないものの、ようやく一応は受け持てるようになったところだったので、拍子抜け感というか、手持無沙汰というか、そこはかとない遣り切れなさみたいな感覚も、あるといえば、ある。

 そんな気もする。


 それに、同学年の妹が突然発生するのも、どう捉えればいいのか、そのとっかかりさえつかめずにいた。

 生まれ月で自分が兄となるのだが、勉強にしても運動にしても、相手の方が上となると、これまたそこはかとなく居心地が悪い気がしないでもない。


 総じて、要するに、つまりは、自分の中でわけだ。


 こういった問題は簡単に済ませられるものでも無し、落としどころが見つかっていなくてもそれが自分の落ち度だと思うことはない。

 しかし、明日から新生活だと言われてしまうと、どうにも心もとない。


 そういうときに、圭吾は水に潜る。


 誰もいない水中閉ざされた箱の中で一人、静かに気泡が昇っていくのを見続ける。


 何故だか、それだけで圭吾の心が落ち着くことが多いのだ。

 とりとめのない、得体のしれない感情が、何かにピタリと納まる感覚。

 

 これには願掛けの側面もあり、気泡が真円で安定すればするほど、自分にとって結果に落ち着くというジンクスもある。

 もちろん、無根拠甚だしい自分の思い込みジンクスでしかないのだけれど。


 でも、それが必要な時というものはあるのだ。


 例えば、今この時のように。


 昇る泡が遠く、向こうの光の中へと、次々と消えていく。

 ゆらゆらと形を変えながら。


 静かな水中とはいえ、少しずつだけれどプールは衛生上常に水を入れ替えているし、何より圭吾自分自身が不動とはいかない。

 よって、空気の形に影響を与えないほどの静謐さは有り得ない。

 そもそも、空気は固体ではないから、形が定まるものではない。


 したがって、気泡が完全なる真円で安定することは、現実的には有り得ないこと――


 ――だと、諦めたものでもないのだ。きっと。


 だって、ほら、何十個か目に生まれたあの泡は、きれいな球体のままになっているじゃないか。

 まるでビー玉のように、変わらず、一つ、ただゆっくりと、煌めく波紋へと向かっていく。


 ――そう、何も分からない将来でも、悲観だけで埋め尽くされるわけでもないのだろう。


 光の中へと溶けていくそのビー玉宝珠を、圭吾は見送る。


 ただ、ただ、静かに。

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水に、沈む。底に、浮く。【東ノratnaketu】 橘 永佳 @yohjp88

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