真実・・・
ninjin
怪しい内見
・駅近(徒歩10分圏内)
・3LDK
・南向きベランダ
・ウォーキングクローゼット付き
・キッチンガスコンロ2口
・3階、エレベーター付き
・室内洗濯機置き場と室内洗濯物干しあり
・エアコン、各部屋完備
以上の条件で家賃3万8千円・・・。
どこかの地方都市の話ではない。
東京都内(23区ではないが)の話である。
怪しい。
怪し過ぎる。
手にしたそのチラシには、何故だか可愛らしいおばあちゃんのイラストが描かれており、最後に小さく、『お住まい頂ける場合、ご相談致したいことがございます』の文字。
連絡先:0424―4●●5―7●72 田代タエ
いつもより遅く起きた休日の朝玄関で、我が家の新聞受けにポスティングされた、そのどう見ても素人の自主制作で、家庭用のコピー機でコピーされたのであろうチラシをしげしげと眺めていると、『どうかした?』と背中から妻に声を掛けられた。
「おはよう。いや、なんでもないよ」
そう言って私は手にしていたそれをクシャクシャと丸めて、ゴミ箱に捨てる為にキッチンに向かおうとした。
「なに、それ?」
私がチラシを丸めるのを目敏く見逃さなかった妻は、私に向かって手を差し出す。
「よく分かんないチラシだよ。 不動産会社かな・・・」
私は言いながら、――不動産会社? そんな筈はない・・・、そんなことを思いながらそのチラシを妻に手渡した。
「なにこれ、あなたっ。 3LDKでお家賃3万8千円って、凄いお得じゃないっ。 しかも駅から10分圏内って・・・」
朝っぱらからいきなりテンション高めの妻に、私は些か驚いたが、妻がそのような興奮状態になってしまうのには理由があった。
先月、妻の妊娠が判明したのだ。
そして、新婚以来の約2年、二人で暮らして来たこの賃貸マンションの更新月が、再来月に迫っている。
ハリウッドのアクション映画でもそうだが、人生大体に於いて、良い知らせと悪い知らせは同時にやって来る。
妻の悪阻(つわり)も漸く落ち着いた先週半ば、今後の住まいのことについて話し合いを持った。
現在2人で住むには何も問題の無い2DKの部屋ではあるのだけれど、夫婦共働き(都心部での)ということもあり豊島区池袋駅にほど近く、家賃は多少お高めで、かなりの住宅密集地に位置していて、狭い路地が入り組んでいるにも拘らず自動車の交通量はかなり多めだ。
子どもが生まれ家族が増えることを考えると、若干手狭になりそうな気もするし、再来月の更新月を迎え1ヶ月分の更新料を支払うとなると、その後直ぐに引っ越すのは何とも勿体ないような・・・。
「この機会に、私たち、引っ越しちゃうべきじゃないかしら?」
「うん、確かに僕もそれを考えていたんだよ。 でも、君は大丈夫なのかい? 妊娠中って環境の変化とかって、大分辛いんじゃないの?」
「ううん、私は平気。 いいえ、寧ろ『心機一転』じゃないけど、リフレッシュしたい気分。 それに、出産前後、田舎のお義母さんが来てくださるって。 だとしたら、今のここじゃ、ちょっと狭すぎるかも・・・」
「そっか。 じゃあ前向きに考えてみようか。 時間も余りないし、お互いに物件の条件なんかを考えてさ、来週辺りにでも話し突き合わせて、それから不動産会社でも回ってみようか」
◇◇◇◇
本来、出産するとなると、女性は実家に戻るか、若しくは実の母親が手伝にやって来るかが一般的なのだろう。
実を言うと、妻には母親は既に居なかった。
言い方が難しい。
『既に』と言うと、妻の母親は他界してしまったように思ってしまうが、実はそれはよく分からない、どこかで今も暮らしているかもしれない、そう妻は言う。
遠い昔、妻の母親は、夫と娘を残して家を出て行ったらしい。
しかしそのことについて、妻は母親に対して恨みつらみや悪態を吐く訳でもなく、父ひとり娘ひとりの父子家庭だったことを嘆くこともなく、ただ彼女の中では既に母親は亡くなっているものだと思うことにしているそうだ。
そもそも母親が家を出て行った当時、妻はまだ幼くはあったが、その記憶の中に父親と母親が仲違いをしたり険悪だったり、言い争いのようなことをしている記憶は無いそうで、母親が出て行った後、父親が母親のことを罵ったり非難するのも聞いたことがないらしい。
『ねぇ、おとうさん、どうしておかあさんは居なくなっちゃたの?』
しくしく涙ながらに訊ねる幼き日の妻に、父親は優しく、
『色々あるんだよ。 だからどうか、お母さんを嫌いにならないで。 いい子だから、お母さんを責めないで』
何度も、いつだって、そう言って寂しそうに笑っていたと、妻から聞かされていた私は、確かにあのお義父さんがDVや浮気やなんか、その他ギャンブルで借金みたいな、そんなことを仕出かす人には思えないというのが正直なところだ。
そうして妻は、いつの頃からか、自分の母親は既に他界したのだと、そう思い込みそう信じるようになったのだと言う。
そんな妻は、実は私のお袋とは実に馬が合うらしい。
何故にそんなに仲が良いのか、それは恐らく僕が残念ながら男だからだ。
僕は3人兄弟の末の子で、上2人の男児の後は、きっと女の子を授かるだろうと思っていた私の両親が、3番目もやっぱり男の子(私)で、ある意味絶望感に打ちひしがれたとよく笑い話にしていたから。
娘の欲しかった母親と、母親の欲しかった娘。
相思相愛に違いなかった。
そういう訳で、妻の妊娠判明直後に私の生家への電話報告の際、直ぐさまお袋は出産予定日前後の上京を申し出た。
いや、申し出たというよりも、勝手にもうそのつもりになって、その翌日にはわが家への滞在予定も伝えてきたのだった。
「これ、直ぐ電話してみましょうよ」
「アチッ」
シャワーから上がりダイニングのテーブルに腰掛けた私は、今しがた妻の淹れてくれたコーヒーのマグカップに口を付けて、思わず声を漏らした。
コーヒーが熱かったのか、それとも妻の言葉に呆れたからなのか、どちらとも言い難い。
「おいおい、ちょっと待ってよ。 直ぐにって言ってもさぁ、怪し過ぎないかい? このチラシ・・・」
「でも、こんないい物件、早くしないと直ぐ無くなっちゃうよ」
私は今度はゆっくりと、マグカップに口を寄せて、ひと口コーヒーを啜ってから口を開いた。
「先ずさぁ、こんな手書きみたいなチラシで、しかも連絡先が不動産会社じゃなくって個人名とかさ、一応間取りは書いてあるけど、築年数も無いし、駅近10分圏内って言っても徒歩とは書いてないから、ひょっとして車でかも知れない。それに、住宅周辺の公共施設なんかの情報もない・・・。これって、ちょっとどうなんだろう・・・」
「・・・・・・・・・・・・・うん・・・・・・・・・・・確かに・・・・・・・・でも」
妻が少しばかり冷静になったのか、それでいて少し寂しそうな表情になる。
私は別に妻の考えを否定しようとした訳ではない。
だから、妻にそんな表情をされると非常に心がざわついてしまう。
「あ、でもまぁ、電話だけでもしてみようか? どんなものか確かめるって、それも面白い。 市外局番からすると西東京市だし、電話して話だけでも聞いてみて、それでイマイチだったら電話だけで終わらせても良いからね」
妻の表情が少し明るくなる。
私は壁の時計に目を遣り、既に午前9時を回っていることを確かめると、携帯電話を取り出しチラシに書いてある番号をタップした。
とぅるるる、とぅるるる
プツっ
私は呼び出し音2コール目が鳴り終わるか終わらないかで、慌てて電話を切った。
「どうしたの?」
私は右の頬の引き攣っていることを感じながら、怪訝そうな顔をしている妻の方に向き直る。
「あの、さ、今、9時5分だよね?」
妻は先ほど私が見遣った壁掛け時計を確かめると、「うん、そうだけど」と答えた。
「今朝僕たちが起き出したのが8時前だと思うんだけど、今、起きてから1時間以上は経ったってことになるよね?」
「ええ、そうね、多分。 あなたはシャワー浴びたり、私はお顔洗ったりコーヒー淹れたりしてたから、それくらい経つんじゃないかしら」
私は少し間を置くようにして、もう一度頭の中を整理しながら妻に言う。
「・・・ということは、このチラシ、朝8時前に入れられたってことになるよね・・・」
「え?」
妻はまだ理解していないようだ。
「昨晩寝る前にトイレに行った時、新聞受けには何もなかったのは確認している。つまり、このチラシは、早朝、若しくは昨日の深夜11時以降に入れられたってことなんだよ。 新聞配達でもあるまいし、そんな時間帯にポスティングなんてするかい? しかもこのマンションのエントランスって、管理人不在になる夜8時以降は、基本、鍵を持った居住者しか入れない。 そして朝は7時以降だ。 あ、朝日と読売の配達員は、合鍵持ってるみたいだけど・・・。 それにしたって、今日はたまたま僕たち2人は休みなだけで、ウィークデーの今日、ここに住む他の皆の出勤時間帯にポスティングするって、あり得るのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
黙ったまま私と同じように思考を巡らす妻だったが、その時、突然に私の携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
そして携帯電話の画面に映し出されたのは、
『0424―4●●5―7●72』
顔面から血の気が退き、思わず携帯電話を放り出しそうになった私だったが、何とかそれを押し殺して、恐る恐る電話に出てみる。
私の声は震えていたかも知れないが、至って平静を装って。
「もし、もし」
――今ほどお電話頂いたようなのですが・・・
「あ、いえ、はい」
――わたくし、田代と申します
「あ、はぁ・・・」
電話の向こうの声の主は、少しばかり歳の行った女性であるようだったが、口調はかなり上品な感じがした。
名乗った名字からして、チラシに在った『田代タエ』だろうか。
――お電話頂き、ありがとうございます。 考えます処、マンションのチラシをご覧になられてお電話して頂いたと思う次第でございますが、差し出がましいとは存じますが、本日などご都合宜しければ、内見などいらしてみては如何でしょうか。
いきなりチラシのマンションの内見を一方的に(しかも今日!)推し進めようとする先方に面喰って言葉を失う私に、妻が小声で再び「どうしたの?」と訊ねてきた。
すぐ傍に妻が居ることで多少の正気を取り戻した私は、自分の鼻に右の人差し指を当てて、『静かに』のポーズをして見せた。
「あの、ええと、タシロさん、でしたっけ? あの、田代さん、いったいどういうことでしょうか? こちらとしましては、全く状況が飲み込めていないのですが・・・。お言葉ですが、気味が悪いというか、何というか・・・」
――ああ、左様でございますよね。 それは勿論そうでございましょう。 わたくしとしたことが、大変失礼を致しました。
本当は、『おい、てめぇ何もんだ、このやろうっ』くらいに食って掛かりたいところではあるのだが、この田代と名乗る女性の口調に、何だかこちらも調子を狂わされていることは否めない。
「いえ、ですから、どういうことだか説明をして頂かないとですねぇ、こちらとしても」
――申し訳ございません。 ただ、お電話でお話しするには少しばかり込み入ったお話になってしまいますので・・・。 今からこちらのマンションの住所を申し上げますので、もし宜しければ、気が向くようでございましたら、是非お越しいただけると幸いです。
「いや、ですからぁ、そう言われましても、行くとも行かないとも答えようが無いですからぁ、いや、ちょっと待ってください」
私が了承もしないのに、その電話の主は『それでは、宜しいでしょうか』と、少しの間をおいて、その住所を伝え始めた。
私は慌てて妻にメモ帳とペンを渡してもらい、その住所を書き留めて、何故だか田代さんに復唱をして確かめていた。
「東京都西東京市○○町2丁目〇番地の1、○○○○マンション301号室、これでいいですか?」
――はい、結構でございます。 近くまでいらしたら、お電話下さいまし。 直ぐにマンションのエントランスまでお迎えに伺います。 いえ、本日でなくても構いませんのよ。 わたくしはいつでも大丈夫ですから。
「あのぁ、ということは、田代さんはそこにお住まいのマンション経営されている大家さんか、若しくはそこの近くの不動産会社の方なんですか?」
私は思い付いたことを直接口にして訊ねてみた。
――・・・そのことに関しましては、今はここでは・・・。お待ちしておりますので、お会いしてから、詳しく・・・。
「いえ、まだこちらとしましても、行くと決めた訳ではありませんので」
――・・・左様でございますか・・・。しかし、高畑さま、是非お越しくださいませ。 それから奥様の麻裕美さんにも、何卒宜しくお伝えください。 では、失礼いたします。
‼
「お、おいっ、ちょっと待って」
ツーっ、ツーっ、ツーっ・・・
電話は既に切れていた。
私は書き取ったマンションの住所のメモを妻に渡しながら、田代と名乗る年配女性との電話でのやり取りを説明した。
「それで最後にさ、僕のことを高畑さん、って苗字を知っててさ、更には君の名前、麻裕美っていうのも知っていたんだ・・・。これって完全に確信犯じゃん。 どうやったかは知らないけど、単なる配って回るポスティングっていうんじゃなくて、明らかにうちだけに投函してきたってことだよね。 まぁ逆に言えば、ポスティングして回ってた訳ではないから、朝の7時以降にスッと来てサッと出て行けば問題は無かったのかも知れない・・・。 だけどさ、何なんだ、いったい? 何か事件にでも巻き込まれてるってこと? 怖いんだけど。 それとも僕らが知らないところで、マンションが当選してた? そんな美味い話は無いよねぇ。 しかも、家賃月3万8千円とかの賃貸みたいだし・・・。 うーん、分からん。 仕方ない、シカトしよ」
私がシカトを宣言すると、それまでほぼ黙って話を聞いていた妻が口を開いた。
「・・・その女の人、田代さんって、言った?」
「え、なに? 心当たりあるの?」
「いえ、そうじゃないんだけど・・・」
「そっか。 そうだよね、どちらかというと、有り触れた苗字だし・・・。じゃあ、やっぱり無視して、このことは無かったことにしよう」
「でも、ちょっと待って。 このどうにも釈然としない気持ちのままで、あなたは平気?」
「?」
「だって考えても見てよ。 向こうはこっちのこと知っているのに、こっちは何も知らないのよ。 相手のことを想像するにしたって、出てくる想像は気味が悪くて落ち着かないわ。 いったいどういうことなのか、確かめないと今後の胎教にも良くないと思うの。 どうかしら? 安全なことを確かめつつ、内見の話に乗ってみるっていうのは」
こういうことに関しては、何故だか妻の方が私より肝が据わっているというか、理論に基づいているというか・・・。
「確かに、無かったことにしようったって、モヤモヤしちゃうと良くないのは分かるけどさ、安全なことを確かめつつって言っても、どうやって・・・」
すると妻は私の携帯電話を手に取って、それからGoogleEarthのアプリを開いた。
なるほど、そういうことか。
彼女は先ほどのメモを見ながら書かれた住所を入力すると、その画面は一気に指定のマンション周辺の画像に跳んだ。
外面から察するに、そのマンションは確かに西東京ひばりが丘の駅から1キロ以内、歩けば10分程度で駅に着きそうだ。
「じゃ、ちょっと降りてみるね」
そう言って彼女は画面上の人型のマークをタップして、それからマンション周辺の適当な位置に指を触れた。
するとみるみる内に画面が急降下していき、そこに映し出されたのは、マンション、広い道路に街路樹、かなり広さのある児童公園(?)、それからマンションの向かいの閑静な住宅街。
「同じ駅近でも、こっちとは全然違うね。 これじゃあ危険もあんまり感じられないし、昼間となると尚更だね」
「そうね、そういった意味では、この場所自体は大まかには心配なさそうね。 マンションの部屋に行く前に相手のこと、そう、その田代さんのこと確かめることは出来そうじゃない?」
そうして、今日の午後、マンションの内見に向かうことを決めたのだった。
◇◇◇◇
午後2時少し前、私たちは目的地のマンションの近くのカフェ店内で、田代と名乗る女性を待っていた。
まだランチタイム営業時間ということもあり、店内は多くのご近所の主婦層と思われる人たちと若干のサラリーマン風のお客で、半数以上の席が埋まっていたのだが、私たち2人は、お互いがお互いを見合って、ついクスクスと笑い出してしまいそうになるのを必死に堪えていたのだった。
何故なら2人の格好が、どう考えても場違いなのだ。
妻曰く
「相手の田代さんって、少なくとも向こうはこっちを知っているってことよね。 ってことは、いつも通りのそのままの格好の2人で居ると、向こうはこっちが分かっても、こっちからは誰が田代さんか分からないってことじゃない? それはそれで不利な状況になっちゃうかもしれないと思うの。 だから敢て、どこでどんな知り合いに遇っても気付かれないくらいの変装っていうか、いつもと違うイメージの格好で行くのが良くないかしら?」
なるほど一理ある、そう思った私は妻の意見に賛成し、私は学生時代にclubに出入りしていた頃の似非DJみたいなダブダブの上下にサングラスと首から金メッキの鎖みたいなネックレスを下げ、妻は妻でちょっと痛めなロリータファッション。
しかしながら、色んな人種でるつぼ化している23区内ならまだそれほど目立たないのが、西東京でこれはちょっとやり過ぎた。
確かに、どんなに親しい人間とすれ違ったとしても、我々のことが誰だか分からないには違いないが、その代わり、駅からここまでの道すがら、そしてこの店内でも、やけに浮きまくって仕様がない。
やっちまってる感、満載です。
カフェに入ってコーヒーで一息ついてから田代さんに電話を掛け、それから待つこと間もなく10分。
少し前までお互いに笑いを堪えていた緩い時間だったのが、次第に緊張感を帯びてきた。
店の出入り口の動向に意識を集中させ、今にも入って来るであろう田代さんを見逃さないようにと張り詰めた面持ちでその時を待った。
電話の声の感じから察するに、恐らくは70代~80代前半・・・。
言葉遣いにも特徴があり、如何にも丁寧、そして上品に感じられたことを思えば、歳ながらに身なりはかなり確りしているであろうことは予想出来た。
そして遂に、その時が訪れた、そう思った。
だがしかし、想像していたのとは少し違った。
いや、ある意味に於いては、大いに掛け離れていた。
そこに現れたのは、初老の男性と、その母親と思しき年齢くらいの女性だった。
予想通り、身なりの整った(しかしまさか藍染めの和服姿とは思わなかった)高齢の女性を、細身のスーツを着こなした男性がエスコートするように店内に入って来た。
そして、なんとその初老の男性は、私の義父、つまり、妻の実父だったのだ。
「「え、え? あれ? お父さん(お義父さん)?」」
妻と私は同時に素っ頓狂な声を上げて二人を見詰める。
義父はその離れた位置から女性にこちらを掌で指し示しながら、小声で何かを伝えているようだった。
すると義父の言葉に頷いた高齢の女性は、こちらに向かって深々と頭を下げ、そして、右の人差し指で、目頭を押さえたのだった・・・。
◇◇◇◇
あれから8ヶ月が過ぎた。
顛末を話そう。
高齢の女性、田代タエさんは、麻裕美の母方の祖母だった。
夫(麻裕美の祖父)はもう十数年前に他界し、ひばりが丘のマンションでひとり暮らしをしていた。
麻裕美の母親は田代夫妻の一人娘で、やはり妻の母親は既に亡くなっていた。
しかし、その真相は、まるで麻裕美が想像していたのとは違うものだった。
いや、決して麻裕美は母親を悪く思っていた訳ではないし、何か悪い想像をしていた訳でもないことは先にも言った通りだが、どうすることも出来ない事情があったのだと慮り、母親を恨むことは無かった。
そして、そのどうすることも出来なかった事情が、その日、明らかになり、麻裕美は泣き、私も泣いた。
麻裕美の涙の理由は、ただ単純な悲しみや寂しさや遣る瀬無さではないことは分かっている。
そんな娘、孫娘を見詰める義父と祖母の目にも、涙が光る。
それは安堵と言っても良いような表情の涙だった。
麻裕美の母親の癌が見つかった時、何の運命の悪戯なのか、同じ時期に祖母の腎機能不全が発覚した。
まだ若かった母親の癌の進行は深刻で、癌細胞を取り除く施術はほぼ不可能であり、延命治療でどの程度命を繋げるかという状態だったらしい。
そして祖母は、直ぐにでも適合する腎臓が見つかり、腎臓移植が出来るのであれば回復が見込めるという状況下で、麻裕美の母親はある決断を下す。
『私の腎臓を、母に移植してください。 母の命が助かるのなら、そうして頂きたいのです』
勿論医師は反対した。
『そんなことをしては、これから癌と戦わなくてはならない貴女の体力が持たない』と。
『いいえ、回復の見込みがあるかどうかも分からない私の治療を待っていては、助かる筈の母の命まで危うくなってしまいますよね? 先生、お願い致します。 どうか、私の願いを叶えてください』
『あなた、腎臓の摘出が済んだら、私はちゃんと治療を受けます。 だから、どうか、母を救える機会を無くさないで欲しいの。 お願いします。 それでも、もし私がダメだったら、麻裕美のこと、お願いしますね。 母親が居ないと可哀想だから、きっとあなたは麻裕美の良いお母さんを見付けて、必ず再婚なさってくださいね。 約束よ』
祖母とお義父さんは、とうとう反対することが出来なかったらしい。
お義母さんの意思を、歯を食いしばって受け入れるしかなかった。
しかし、そんなことをしたら、彼女が二度と戻って来ることは無いであろうことは明白で、そのことを、お義父さんは、麻裕美に告げることが出来なかった・・・。
祖母は、我が娘と孫娘に対する申し訳なさと、切なさ、忸怩たる思い、哀し過ぎるほどの愛おしさ、そんな複雑すぎる感情のせいで、その後麻裕美に会うことも出来ず、ただ遠くから黙って見守るだけだったという。
ただし、お義父さんは麻裕美に気付かれないように20年以上も、事あるごとに祖父母に麻裕美の近況を報告し、お義母さんの墓前にお参りにも行っていたそうだ。
お義父さんは再婚の約束は果たさなかったし、これからも果たすつもりは無いという。
それを聞いた麻裕美が笑って、泣いた。
そして、長い月日が経ち、私たち夫婦に新しい命が授けられたことを機に、これが真実を明かす最後の機会、そう思い立ち、このようなことになったらしい。
さて、このようなこと、とは?
マンションの301号室にて麻裕美の母親の真実を聞かされ、悲しみと優しさの入り混じった気持ちに包まれながら仏壇にお参りをした私たち夫婦に更に告げられたのは、この301号室の生前贈与だった。
お義父さんが言う。
「どうだい? 内見してみて、2人ともここは気に入ったかい?」
「いえ、どうだいって言われましても、今日は何だか色々ありすぎて・・・」
「麻裕美はどうだい?」
「うーん、わたしもなんて言ったら良いか・・・」
「いや、おばあちゃんが、2人に貰って欲しいんだ、この部屋を。ねぇ、お義母さん」
水を向けられた麻裕美の祖母は、優しく微笑んで頷いた。
「麻裕美ちゃんには今まで何もしてあげることが出来なくて、あなたのお父さんとも相談したのだけれど、私もそろそろ独り暮らしも不安でしょう。だから、ホームでお世話になることにしましたのよ。 それで是非、このお部屋をお2人に貰って頂きたくて。 どうかしら、貰って頂けるかしら?」
麻裕美が少し不思議そうに尋ねてみる。
「でも、あのチラシに家賃3万8千円って・・・、それから、『ご相談したいことがございます』って書いてあたのは・・・」
「ああ、あれは貴女のお父さんが、ねぇ。 あのチラシを作って、あなたたちのお家に投函してくださったのもお父さんなのよ。 それから、『ご相談』っていうのはねぇ、この仏壇を残してほしいって、ことなんだけど、それは構わないかしら」
お義父さんが少し気不味そうに頭を掻きながら言う。
「いや、あれはだな、お前たち2人に改まってお祖母ちゃんと4人で会おうなんて言うと、これまでずっと会っていなかったおばあちゃんに、会う前から変な気を遣ったりなんだりするのもなぁ、そう思って、如何にもそれっぽくだなぁ・・・」
「それにしてもお父さん、家賃3万8千円っていうのはちょっと・・・、あり得なくない? それに、何となくだけど私、田代って苗字に少し引っ掛かっていたの。 お母さんの旧姓が確か・・・って」
麻裕美がすかさずダメ出しをする。
「そっかぁ、やっぱり麻裕美は何か感じてたんだね。 でもさぁ麻裕美、僕たち、あの3万8千円に釣られて、今ここに居るのも事実だぜ。 ま、あり得ない金額といえば、あり得ないし、安過ぎるし怪しさ満載でしたよ、お義父さん」
今度は私がお義父さんに助け舟を出したのか出してないのか、よく分からないツッコミをすると、4人はそれぞれに顔を見合わせて笑った。
◇◇◇◇
今現在、我が家には女性4人と男性1人(これは私)の5人が暮らしている。
とは言っても、来週半ばに1人の女性がここを出て行く。
いや、出て行くと言うと紛らわしいか。
私の母が田舎に帰る。
残る女性は、
生まれたばかりの娘、裕香。
妻の麻裕美。
それから裕香の曾祖母の、タエ大お祖母ちゃん。
ほぼ女の園と化した我が家に、今夜はお義父さんが、私の為に少し上等のお酒を持って来てくれるらしい。
援軍来る・・・。
私は幸せな気持ちで、お義父さんの来訪を待ち侘びている。
おしまい
真実・・・ ninjin @airumika
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