最後の刻 Record2

鈴ノ木 鈴ノ子

最後の刻 Record2


もっとも愛した彼女を失ってから、10年近い月日が過ぎ去っていた。

それでも月命日や命日が来るたび、あの温もりと優しさを二度と手にすることのできない喪失感とやるせ無さが募るばかりだった。きっと向こうで笑っているかもしれない、いや、心配していることだろう。

月命日は墓参りを欠かさずに、命日には彼女のお宅に伺ってご焼香とお参りをさせて頂いている。初めは仏花を用意していたけれど、月命日の墓参りを済ませた日のこと、寝支度を済ませて瞼を閉じた。


どこまでも続いている花畑の中に彼女がいた。


元気だった頃の姿で和かに微笑み、大好きだったアリストロメリアの花に囲まれた彼女が、背に隠すように持っていた一輪を指輪の光る優しい手で、私へと差し出してきた。それは彼女のお気に入りだった赤いアリストロメリアではなく、幻想的な色の青いアリストロメリアだった。


『気持ちは届いてるから安心してね』


そう言って最高の微笑む彼女の姿に見惚れてしまう。

2度と見ることのできない笑顔に涙腺が緩んで、頬を熱いものが流れ落ちた。抱きしめようと手を伸ばすけれど、目の前に居る彼女の身を掴むことはできずに、伸ばした腕は、ただ、ただ、空を切るだけだった。


『10年間も長い刻をずっと思っててくれて、本当にありがとう』


返事をしたいのに声を出す事は叶わない、喉が何かで固められてしまったように動かすことができない。辛うじて頷く事だけで精一杯だった。


『でも、そろそろ、私の事は思い出にして欲しいの。私は死んでしまった、一緒に生きる事は2度と叶わない』


悔やむ様な表情で首を振る。

それを見た彼女が見舞いのたびに帰り際に見せた少し寂しそうな笑みを湛えながら、同じように首を振った。


『私は死んでるの、貴方は生きてるの、そして貴方に恋焦がれている人がいることも知ってる』


その様な人の心当たりは全くと言っていいほどない。

医師としての仕事と彼女を苦しめた病に対する研究に没頭してばかりで、趣味らしい趣味もなく、数少ない友人や同じ道の研究者からもため息をつかれた。同僚や病院職員から食事に誘われることも、会社関係の付き合いから少し足を踏み出そうとお誘いを受けることもあったが、2次会への参加やそれ以上の付き合いに発展する事はなかった。


『そういうところよ、この鈍感。私の時もそうだった。ずっとそばに居て、気が付かなくて、私から声をかけて伝えてようやく気がついて…。奏がずっと気にしてたこと知ってる?』


奏は彼女の妹の名前だ。

彼女が亡くなった直後に会社を辞めて看護師資格を取り、そして今は同じ病院に勤めている。姉が亡くなった病院に何故と周囲は戸惑ったけれど、その疾病の治療研究については国内随一で、それが決め手で彼女は入院していたし、私も今だにお世話になっている。そして奏さんも、研究では無いけれど、同じ病気の治療に携わり、そして苦しむ患者さんに寄り添う立派な看護師へと成長を遂げていた。


「そのままになっている姉の部屋を掃除させてください」


そのひと言が始まりで、2人の思い出の部屋を引き払い転居した後も、何かと世話をしに訪れてくれていた。

部屋に飾ってある彼女の写真にお参りをしてから、ほぼ寝に帰るだけの部屋の日頃には手の行き届かないところを片付けては、仕事の愚痴を溢したり患者さんとの思い出話を話してくれる。スポーツ万能で社交的、彼女とは少し違った性格の奏は元気よくやってきて元気よく帰っていく。

常に活力が漲る、多少古臭い言い方になるけれど、太陽のような人だ。


『付き合いを始めて、結婚までの話が進んでいる時も、奏、ずっと見てたのよ。私だって気がつくくらいに。知ってる?、一時期は妹に嫉妬したのよ、貴方が取られちゃうんじゃないかってほんとに心配したこともあったんだ。でも、今思うとね、似た者姉妹だったんだなって嬉しくなるの』


驚き戸惑った顔を見て彼女が揶揄うように笑った。


『奏、貴方の前では元気そうに振舞ってるけど家ではそんなことないの。貴方のこと今も本当に大切に想ってる。あ、でも、私ほどじゃないわよ…って競ってもしょうがないわね』


ため息をついた彼女は笑みを消して真剣な面持ちを見せる。


『勝手なこと言ってるのは分かってる。だからって…他人の女に貴方を連れ去られるのも嫌、最低な女って思われても構わない。でも、妹の気持ちだけは聞いて無理ならずっと引き摺ってる思いを切ってあげて、貴方も奏も、もう私に縛られないで欲しい』


穏やかな風が2人の間を駆け抜ける。

柔らかくて温かい、だけれど、吹き終わりに冷たさが漂う。


『今から酷いことを言うわ…。最後の我儘だから許して下さい』


ぎゅっと両手を握りしめた彼女が立ち上がる。

懐かしい彼女の香りと共に真摯で少し潤んだ眼差しと幼馴染にしかわからない、少し影が差した素敵な微笑みに心が締め付けられた。


『思い出にして次を歩んで下さい。貴方のためにも、私のためにも』


互いの頬を一筋の雫が伝った、それが落ちる頃、再び穏やかな風が駆け抜けた。

穏やかにも関わらず、その風に流されるかのように、あたり一面を咲き誇っていたアリストロメリア花々が次々と花びらを散らしてゆく。


そして彼女もともに微笑んだまま、ゆっくりと姿を掻き消していった。


手を伸ばす間もなく、ただ、ただ、ぼんやりとそれを眺めやがて夢から目覚めた。カーテンから漏れいでる朝日の太陽の明るい光を見つめながら、彼女が差し出した青のアリストロメリアを思い出す。

大切に使っている彼女とお揃いで揃えたスマートフォンで花言葉を検索する。


検索結果は『知性、冷静』だった。


本当の別れの時が来たのだと意味もなく悟った。

彼女は自分の意思をはっきりと言う人であったから、心配してきちんと告げに来たのだ。彼女が使っていた机の上には2人で並んだ写真と中身のない婚約指輪のリングケースが揃えて置かれている。リングは棺に入った彼女の指で輝いて灰となり、彼女は確かにそれを指にしてくれていた。


布団から起き上がり頭を掻きながらふと気がつく。

寝室の扉の向こうにあるダイニングキッチンの方から香ばしい香りが漂ってきている。それはとても懐かしい香りで、久しく食べることなく、空腹を覚えることもなかったはずなのに、どういうことだろう。食欲が湧き上がってくる。そのままの姿で扉を開けてキッチンへ歩いてゆくと、やがて、見慣れた背中がそこにあった。


「カナちゃん?」


咄嗟に子供の頃の呼び方が喉を突いた。

ショートカットの黒髪に左側だけ細長いピアス、健康的に日焼けした肌、飾りっけのない長袖の黒のワンピースにデニムのいつものスタイルの奏が、呼びかけに驚いて振り向く。


「あっと…おはようございます。洋介さん…」


いつもの元気な言葉遣いとは違い、恥ずかしそうに少し頬を染めた奏さんが、やがて意を決するように真剣な面持ちでこちらを見た。


「えっと…笑わないで聞いて下さい。お姉ちゃんが夢に出てきて、洋介さんときちんと話し合いなさいって…。ついでに朝食も食べるようにしてやってて言われて、気がついたらここで調理してました…。その勝手に使ってごめんなさい」


彼女の事だ、無理矢理にでも引っ張ってきたんだろう。きちんと話をさせるために。


「うん、僕も夢で会ったよ。色々とごめんね」


「い、いえ…」


「その美味しそうな朝食を頂いたら一緒に話をしよう。直ぐには無理だけれど時間をかけて色んな話をしていきたい」


「はい」


ゆっくりと頷いた奏さんがキッチンへと向き直って再び料理を始めた。その姿は何処となく嬉しそうに見えるのは気のせいでは無かった。


あの出来事から1年の月日が流れた。

戸惑いからのスタートはゆっくりとだけれど着実に実を結んだ。無論、賛否両論の声が囁かれたり聞こえたりしてきたが、それを互いに補い合いながら関係を深めることになっていった。相互の両親も最初は戸惑いを見せたものの、今は応援してくれていることもありがたい。


「洋介さん、これ」


「どこで見つけたの?」


同棲するための新居探しを馴染みの不動産屋に頼み込んで、数少ない休日を合わせては一軒家の住宅の内見を繰り返していた。小高い丘の上にある住宅地の一角、ちょうど互いの両親の家にも近くて日当たりも良い。周囲も静かな環境で職場にも数十分で駆けつける事が可能な距離、文句なしと言ったところだろう。

内見中に奏さんが不思議な顔をして両手で包んだ一輪の花を持ってきた。


「床に落ちてたんです」


黄色の綺麗なアリストロメリア、確か花言葉は「希望」だ。


互いに笑って頷くと外で待機していた担当者の元へと契約する旨を伝えに急いだ。



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最後の刻 Record2 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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