第26話 ずっと側に…

 人間界に落とされた雪玲は途方に暮れていた。


(天衣もないから帰れない……来年の七夕まで過ごすしかないの? えっ、今はまだ八月だよね? ……多分、今回は父上が探してくれる……よね)


 呆然としていた雪玲だったが、いい匂いが嗅覚をくすぐった。辺りを見渡すと見たことがある景色。麗容の街のようだ。


 チャリ……


 反射的に腰に手を当てると銭袋が入っている。誰かが持たせてくれたようでほっとした。


(うん……お腹が空くと思考が暗くなるから、何か食べてから考えよう)


 食べ物の匂いに釣られて歩いていると麺屋に辿り着いた。天佑と影狼と一緒に来た麺屋だ。


 乱雑に置かれた椅子に座り、鶏絲麺を注文する。


(あの時は私と影狼が熱湯麺を食べて、ユウは鶏絲麺を頼んでた)


 思い出を懐かしみながら鶏絲麺を食べていると、雪玲の目に涙が溢れてきた。


 泣きながら麺を食べる雪玲を見て、周囲が興味津々で見つめる。


「あの鶏絲麺、どうやら泣くほど絶品のようだな」

「ちょうど小腹が空いていたんだ。食べてから帰ろう」


 いつの間にか麺屋は満員で全員が鶏絲麺を注文していたのだが、雪玲は知る由もない。店主が急いでどこかに遣いを送っていたこともだ。


(あれ? なんだかお店が混んでる。早く席を空けてあげよう)



 席を立った雪玲は、店が立ち並ぶ市場をあてもなくとぼとぼと歩いた。辺りは日が落ち、夜の賑わいを見せ始めている。


「……香ばしい匂い」


 目の前には串焼き屋。人気があるようでこの店の大ぶりな串を持っている者が多い。お腹にもまだ余裕がある。一本だけ買って食べてみようと、手のひらに銅銭を載せ数えようとした時だった。


 銅銭を数えていた人差し指ごと、雪玲の両手が男の大きな手で握られる。


「はぁ、はぁ、……指切りしただろう? 勝手に食べるな」


 息を切らした、聞き覚えのある声に恐る恐る顔を上げる。


「……ユウ?」

「……こっちに来い」


 雪玲の顔を見て眉間にしわを寄せた天佑は、その手を引いて脇道を進んでいった。人気のない場所まで来ると、天佑は雪玲の手を離して向き直った。


「おまえ、なんで面紗をつけてないんだ? 人攫いがいるって影狼が教えただろう?」

「ユウ……、私、嫌われたんだと思ってた。話しかけてくれるなんて……」


 ぽろりと零れた涙に天佑が慌てる。


「なっ……、き、嫌ってない! 驚いただけだ。あの時素気なかったのはあれだ、その、……はあ。……傷つけていたのなら悪かった」

「私、ユウに会いたかった……」


 雪玲の素直な物言いに驚きと照れが混ざる。


「……泣くな」


 天佑は泣かせてしまった罪悪感と再会できた嬉しさに戸惑いながら、涙を溢す雪玲をぎこちなく抱きしめた。


「……おまえが後宮を出たいと言ったから、てっきり天界に帰らないといけないのかと思って気持ちが落ちたんだ」

「父上が霊力を持つ神医だから、皇帝を治してもらえるようにお願いしに帰ろうと……」

「……ということは扁鵲が……、そうだったのか。天誠のためにお願いしてくれたんだな、ありがとう……」


 沈黙が続く。


 この温もりを手放したくないと天佑は覚悟を決めた。


 一度は諦めた想い。どうせ、駄目元なのだ。


「……なあ、雪玲。俺の懐に入らないか?」

「……小狐になれってこと?」


 天佑は目を瞑り、天を仰ぐ。


「くっ……遠回しは駄目なのか。そうだよな、相手は雪玲だ。駄目に決まってる」


 雪玲の両肩に手を載せるとそっと身体を離し、目を合わせて告げた。


「雪玲、ずっと側にいて欲しい。おまえが何者かなんてどうでもいいんだ」

「え……」


 天佑は雪玲の興味を引きそうなことを必死で考える。


「……郡王府の……大将軍の屋敷には面白いものがたくさんあるぞ? それに、うちの屋敷にいる料理人たちは腕がいい。……ああ、膳房とは別におまえのための点心専用房を作るのもいいな。毎日珍しい菓子を食べよう」

「……九尾狐はやきもち焼きだよ。たくさんの妃とユウを共有するのは無理だよ」

「俺はお前以外娶らない」

「ほんと?」


 手ごたえを感じた天祐は、一生心の中に留めておこうと思っていた一手を使うことにした。


「それにおまえには責任を取ってもらわないと」

「なんの?」


 にやりと笑った天佑が雪玲に告げる。


「おまえ、小狐の姿の時に、俺の下唇を思いっきり噛んだよな?」

「……うん」


 天佑は深刻な顔をして声を潜めた。


「あれは……接吻の一種だ。しかも上級者の接吻だから陰陽が混ざってしまったんだ。だから、おまえは俺と婚姻せねばならぬ」

「え! あれがそうだったの!? あれが……姐さんたち、陰陽を混ぜる方法は教えてくれなかったから、知らなかった……」

「俺の貞節を弄んだんだ。雪玲、結婚してくれるな?」



 遠巻きにしながら天佑を護衛している影狼や隠密たちは、固唾を飲みながら内心思っていた。


 ――天佑さま、それは禁じ手では……


 五虹からの報告で皆が知っている、雪玲の謎の陰陽説。報告を聞き、全員が聞かなかったことにして胸の片隅に仕舞ったはずなのに。


 だが、それでもいい。どんな形であれ、二人の想いがとうとう通じ合いそうなのだ。



 雪玲は天佑の言葉に花が綻ぶような微笑みを向けた。


「はい、ユウ。……天佑、大好きです。お慕いしています」


 うるうると見上げてくる雪玲に天佑の胸が大きく脈打つ。


「……雪玲、愛してる。……一生大切にすると誓うよ」


 柔らかそうなその唇に口づけようと、天佑が顔を近づける。息がかかるほどの距離になり、二人の唇の間が指一本に迫った時だった。


「ねえ、天佑」

「……今じゃないと駄目なことか?」

「うん」


 天佑は顔を離し、どうした?と優しく問いかける。


「あのね、陰陽が混ざったのなら、もうここに子がいるってことだよね?」


 自分の腹を指差す雪玲。


「……え?」

「私、うれしくて……! 天佑と私の子は絶対に可愛いと思うの。楽しみだね!」

「お、おぅ……まいったな」


 うん、教えることが多そうだな、と言うと、天佑は雪玲を優しく抱き締め、その頭に口づけた。



 ◇ ◇ ◇



 それからわずか二か月後。羽林大将軍の郡王府では婚礼の儀が執り行われていた。


「天女のような大将軍がいよいよ婚礼するそうだよ!」

「お相手は腕の良い医家である秦家のひとり娘らしいぞ」

「きっと美男美女の婚礼になるんだろうね」


 人間界と天界とで紆余曲折ありながらも何とか六礼を済ませ、今日は新婦の輿入れである。


 人気のある羽林大将軍の艶やかな婚礼衣装、美しいと噂の新婦をひと目みたいと多くの民が集まり、郡王府の周辺は人が溢れた。


 特別に三日間行われた婚礼の儀式の最終日。


 この日は身内だけを集めて内々に大宴会が開かれた。


 郡王府に厳重な警備が敷かれる中、皇帝や太傅、太監、影狼、巫水、一角や五虹をはじめとする隠密など、人間界からは天佑と雪玲に関りが深い人物が訪れる。


 雪玲側からは両親である扁鵲と貂月、姐さんと呼ぶ九尾狐の三姉妹、女禍、天龍、月下老人など、錚々たる面々が参加した。特に天界側の女性陣は尋常ではない美しさで、警備に身が入らない羽林軍に影狼が手を焼いていたことは、天佑に知らされていない。



 赤い婚礼衣装を身に着けた天佑と雪玲は美しく、やっと結ばれた初々しいふたりの門出を皆が祝福した。


 酒が酌み交わされ、美食に舌鼓を打ちながら、天佑と雪玲のこれからを祝う。披露される音楽や舞に見惚れ、皆が和やかな時間を楽しんでいる時だった。


 新婦である雪玲が急に思い出したかのように扁鵲へ告げたのだ。


「そうだ、父上。忙しくてお伝えするのをすっかり忘れていました。私たち、子ができたんです」

「……何だと?」

「ごふっ! 誤解なんです……! 雪玲とはまだ接吻すら……」


 皇帝が驚いた声で天佑を責める。


「天佑! 堅物だと思っていたのに、見損なったぞ!」

「……兄上が言いますか!?」

「俺は順番はきっちり守るほうだ!」


 九尾狐たちは大喜びだ。


「さすが雪玲、私の子ね。仕事が早いわ」

「まあ、雪玲ったら。陰陽の混ぜ方を教わったのね。誰に教わったの?」


 うれしそうに雪玲が答える。


「うん、迷魂香から天佑を救うために小狐のまま唇を思いっきり噛んだんだけど、その時に陰陽が混ざったんだって。天佑が教えてくれた」



「「「……へぇ」」」



 九尾狐たちが冷ややかな目で天佑を見つめながら雪玲に伝える。


「可愛い小狐が生まれるといいわねえ」

「ああ、嘘つきがいるから窮奇きゅうきが生まれるかもしれないわ」

「お前たちやめなさい」


 窮奇は四凶しきょう渾沌こんとん饕餮とうてつ窮奇きゅうき檮杌とうこつ)と呼ばれる怪物の一つ。暴虐の限りを尽くして善人を害する、凶暴で悪の権化のような存在だ。翼を持つ虎のような獣で、ハリネズミのような毛を持っている。


 黙ってやり取りを聞いていた扁鵲が九尾狐たちを諫め、天佑へ告げた。


「婿殿、雪玲の教育が行き届いておらず、すまない。彼女たちが得意だと言うから任せたのだが……どうやら、私は大きな間違いを犯したようだ。

 おまえたちに美肌の秘薬はもう作らない。雪玲をからかった罰だ」


「やだっ! 扁鵲、ごめんなさい!」

「だって雪玲は純真さが売りじゃない? 九尾狐の手練手管なんて教えたら擦れちゃうと思ったんだもの」

「それはそれで……」


 押し黙った天佑の心は複雑だった。


 九尾狐たちはお詫びにというと、天女のような舞を披露した。


 羽織った羽衣からは袖を振る度に虹色の花が生まれ、会場を埋め尽くしていく。手に持った扇を仰げば光が舞い、金粉が蝶となって観客の頭上を飛び回る。


 極楽浄土にいるような、この世のものとは思えない美しさは見る者たちを魅了した。天佑は雪玲の風流がここから来たのかと納得し、新妻と目を合わせて微笑む。


「雪玲……皆に祝ってもらえて幸せだな。末永く、仲睦まじく暮らしていこう」

「はい、天佑。ふふふ」


 微笑ましい新郎新婦を見ながら、貂月と女禍が酒を酌み交わす。


「それにしても、九尾狐の子と天龍の子が人間界で一緒になるなんてね」

「ほんと。まさか私の娘まで人間を見初めるなんて思わなかったわ。雪玲はあんな感じだし、天界でのびのび暮らしていくと思っていたのだけど。袖が触れ合った程度の縁なのに、この子達はよほど赤紐の結び目が強かったのかしらねえ」


 この会話を少し離れたところから聞いていた天龍と月下老人が声を潜める。


「……天龍殿、賭けの件は我ら永遠の秘密ですぞ」

「わかってる、言える雰囲気じゃないさ。あなたとの碁に勝って、愛縁帳に天佑と雪玲の名を書き込ませたなんて。

 でもさあ、愛らしい雪玲を自分の子孫である青龍の子に嫁がせたいと思うのは当然じゃないか。白虎や朱雀の子孫に取られるくらいなら先手必勝だ。

 霊力も強く、俺に似て美しくも優しい天佑が相手なんだし、九尾狐や扁鵲も文句なかろう?」


 そう言うと、天龍は笑いながら子孫の元へ向かっていった。


「ふぉっふぉっふぉっ。甘いのう、天龍。天佑と雪玲の名前は最初から書かれていたのじゃ。儂はな~んにもいじっておらんよ。赤紐が解けずに絡まったのも、二人の強い縁所以ゆえんじゃ」



 この日から数年後、天佑と雪玲の間には小狐のような愛らしい嬰児えいじが生まれるのだが、まだまだ、まだまだ先のこととなる。


 依依恋恋いいれんれんとした二人の様子は青龍国でも有名になり、仲睦まじい大将軍夫妻として語り継がれたそうだ。





 了


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後宮天衣恋奇譚~身代わり九尾狐と仮面皇帝の合縁奇縁~ 魯恒凛 @rokourin

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