第十二話『手巻き煙草の味』

 とにかく、今日は炎天下どころの騒ぎじゃない一日だった。

 ハヤヒバの点描合戦から始まって、ココとの話、そうして久々に、贋作のような物であれ、それでも本気で絵を描いた事もあってか、家につくなり疲労感がドッと押し寄せる。

 靴を脱ぎ、着替えもせずにベッドに倒れ込んで、大きく息を吐いた。

 だが、ふと腕時計をつけたままだった事を思い出して、疲れた身体を無理やりに起こし、ベッドに座ったまま左手の時計を眺める。

「憎たらしい程、正しく刻むもんよな。時間ってのはさ」

 兄貴から貰ったこの時計に、良い思い出はあまりない。何せ兄貴との思い出が良いものでは無いのだから仕方が無いだろう。

 言葉を交わせなくなってからもう十年近く経つ、そもそもが喧嘩別れのようなものだ。仲の良い兄弟だったとも言えないだろうと思う。

 お互いが画家であり、俺から見れば兄貴は単純にライバルのようなものだった。ただ、それは身近にいるからそう見えている気がしただけで、実際の実力やセンスに於いて、彼に適うだなんて思った事は無かったのだが、それでも兄は俺の絵を見て、良く褒めてくれた。


――それが、いつも悔しかった。

 今思えば、歳の離れた兄弟という事もあったのだろう。

 それでも、俺よりもずっとずっと上手くやれる癖に、俺の歳の頃はもっと上手い絵を描いていた癖に、俺の絵を褒める兄の気持ちが、最後の最後まで分からなかった。

 今はもう、口も利かない。あの人はきっと、今も何処かで、絵を描いている。

 だけれど、その作品を見る事も無い。

「俺はコイツに……縛られてんだろうな」

 俺は兄貴から貰った時計を外し、玄関先に置きに行く。これを付けるのは俺への戒めだ。兄貴を苦手だったのはきっと俺だけで、兄貴はそんな事が無かっただろうから。

 でも今更謝る事なんて出来ない。だからこそ戒めとして、毎日その時計は付けることにしていた。時間を見る為ではなく、時間を想う為に。

 結局、苦手なだけで、俺だって兄貴が嫌いなわけではないのだ。お互いの意見や信念、そうして単純に考え方や性格が違っただけ。

 俺があの頃拗れた性格をしていなければ、自分を認めてやれていれば、兄貴の肯定を素直に受け取っていれば。

 きっと、俺から一方的に拒絶をするような関係も無くせたはずなのだ。だけれど時間は残酷な物で、兄貴の手から離れた腕時計は、今も時間を刻んでいく。

「歳ぃ取ったなぁ。俺があれだけの技術を持ってる子に説教だってよ、兄貴」

 その言葉が本人に届く事は無い。その代わりに、俺は少しだけ寂しい気持ちで、腕時計へと呟いた。


 ずっと、謝りに行く勇気が出ないのは、結局の所俺だけなのだろうと思う。

 きっと兄貴は、今だって昔と同じように、ひたすらに絵を描き続けて、そればっかりで、時々俺の絵を見つけては、どうせ笑っているのだろう。

 そんな兄貴を知っているからこそ、俺はずっとこの時計を複雑な気持ちを抱えながら、それでも大事に付け続けている。

「お前も笑うか?」

 時計に問うても、答えは出ない。けれど俺が問うたのは、時計じゃなく、彼女だ。

 いやに独り言が多いのは、きっと晩酌なんてビールが精々になっていたからだ。そうだと思いたい。

 強めの缶チューハイなんて飲む事も無くなった。久々に飲んだ強めの酒と、興奮が冷めきっていないのかもしれない。

「こんな俺を笑うか、嘲るか、それとも微笑むか、どれだかなぁ」

 今日は暑い日だった。そうして、今日は熱くなってしまった日だった。

 昔の俺と、そっくりな画家を見てしまったから、本気で絵を描いてしまった。だけれど、偽物の絵だって、嘘つきの手でだって、まだ人を泣かす絵を描ける自分が少しだけ嬉しくて、それでもやはり少し悲しく思えた。

「いっそ嘲ってくれたら楽だっただろうけれど、お前は微笑むんだろうなぁ」

 部屋に戻りながら、棚の方を見て呟く。そこには未だ捨てられない、元婚約者――日晴ヒナリが遺した香水の空き瓶があった。

 彼女が亡くなって、久しい。だからもう、香水の中身は揮発して、残っていない。それでも、どうしても捨てられない。

 その香水の香りは、絵の具の匂いの中でも、彼女を感じられていたから。

 日晴ヒナリは、晴れるというその名前の字の通りに、少し雲のある青空のようにふわふわと、前向きになれるような言葉を紡ぎながら、よく微笑むように笑う人だった。

 出会ったのは、俺が美術館の案内員をしていた頃だ。

 彼女は特に美術へ深い造詣があるわけでも、自身で絵を描く人でも無かったけれど、『見る』事が大好きな人だった。

 難しい事も知らず、詳しいことも覚えず、ただ自分の好きな絵を何度も見て、なんとなく笑っている。そんな画家にとっては張り合いの無いようで、心安く付き合える人間、そうして俺の絵を好きだと言ってくれていた人。

「いや……違うな」

 記憶が美化されている気がする。もっとケタケタ笑っていた事もあったはずだ、多分。大はしゃぎで飛んで喜んでいるのを見たこともあるはずだ、きっと。

 だけれど、俺の絵の事をハッキリと好きだと言われた事は、一度も無かったような気がする。


『なんか、良いよね』

 そんな言葉で表現されていた。好きだったのかもしれないし、何となく褒めていてくれていただけなのかもしれない。だけれど結局の所、そのくらいの温度で見てくれる彼女の事が、俺は好きだった。

 彼女が亡くなってもう十年やそこらになっても、そんな事を覚えている自分が少し嫌になった。


 アイツを泣かせる事の出来る絵は、最後の最後まで描けなかった。ただ、あの頃は今のように汚れた手で描くような画家でも無かったからココにやったような事は出来なかっただろう。

 今の俺が持っている技術、欺瞞にも程があるような人の感情を使った贋作を描いた所で、きっと騙せなかっただろうし、騙したくもない。

 

 ただ彼女は『絵を描いている俺』が好きだと、そう言ってくれていた。

 あの頃はまだ紙煙草を買っておらず、自ら煙草の葉を買って、手巻き煙草を吸っていた。往々にして画家なんてのはそういうような拘りを持ちたくなる時期が来る。俺に限ってかもしれないが。

 葉を包む紙を舐める仕草を、ニヤつきながら見ている不思議な人だった。

 

 出雲日晴イヅモヒナリ。享年二八歳だった。

 死因は自損事故での巻き添え。それから、彼女とも一言も喋る事は出来ていない。亡くなったのだから、当たり前の話だ。だけれど、墓前で話せた事すらないのだ。

 墓参りにすら一度も行けていない俺の代わりに、俺の家族が墓参りに行っている。彼女には身内がいなかったから、我が儘を言って館家の墓に入れてもらった。それなのに、その義理すら果たせていない。

 結局、俺という画家は、彼女を本当の意味で泣かせるような絵を描く画家になれず、彼女を亡くしてからというもの、俺自身が泣きながら絵を描き続けるような日々だった。

 俺にとっては、亡くした物が、あまりにも多すぎた。

 それからの俺は、まともな画家としての人生を送ることを辞めることにしていた。現実逃避の道具として使われたこの両手は、汚れている。

 

 ただ、ただ、絵を描く事を逃避として、逃げ続けた結果、今の俺がいる。それを良しとしない自分がいるのも間違いないが、心の傷はまだ癒えない。届かない言葉は、言えない。


 変わりたいとは思っている。だからこそ、ハヤヒバを教えるなんていう、ココを見て自分なりの助け船を出すという、元々の自分には似合わない事を続けているのだ。まるで贖罪のように。

 いつまでもいつまでも、それでも絵を描くという魔法に、呪いに付き纏われながら、誰かを導く為に生きようとしている。きっと、救われたいが為に。

 

 今日、俺がハヤとヒバに出来た事が、ココに出来た事が、正解だったかどうかは分からない。

 兄貴が見たらなんて言ってくれるのだろうか。日晴ヒナリがいたら笑ってくれるだろうか。

 

 結局のところ、俺は誰かが許してくれなければ、自分のしていることに全く自信が無い、駄目な人間なのだ。やってきた事なんて、ただただ絵を描き続けただけ。

 それだけの人間に、果たして人を説く権利があるかなんて、俺自身が判断出来るわけがない。


 取り繕い続けているのだろうと思った。だけれど、それであの子達が俺のようにならないのなら、それで良いのだとも思っている。

 ハヤとヒバが素晴らしい作品を創っていく事が、今は何よりも嬉しい。

 ココのような画家が、いつか画壇で活躍する事を思うと、ワクワクする。

 それもまた、本心だ。俺の心はもうずっと、ごちゃまぜの感情が渦巻いている。

 

 俺はあの子達に教えているという立場でありながら、教わっているのも、救われているのも実は自分自身なのだ。

 そんな事を思いながら、いない相手へのみっともない独り言をやめて、俺は眠ろうとベッドに入りかけた。

 目が、冴えている。

 

 だから、一度キャンバスの前に座って、右手で筆を取った。

「違うよな。アレは、俺の絵じゃあない。アイツの絵だ。だから今日の俺は、まだ一枚も描けちゃいない」

 窓を開けて、夜空を見る。


 あの子達の夕暮れ時は、きっと家に着いても終わっちゃいない。あの絵を描く屋上から地続きで、その日の眠りに付くまで、筆を置くまで夜は来ないのだ。


 だから、俺の夜半も、そう簡単に終わらせちゃいけない。


 明日また、無駄に連ねて来た人生経験だけで言えるような一般論や偉そうな事を言う為にも、明日の俺を、今日の俺が許す為にも。

 やっぱり、俺は筆を取らなきゃいけない。

 画家崩れであっても、筆に触る事を辞めた瞬間から、俺はあの子達に何も言えないただの人に成り代わる。

 それこそ、絵の知識こそあっても、ココが働いていたキャンプ用品店の店長と、なんら変わらない立場に変わるのだ。

 偉そうな事を言うならば、技術が劣っていようがなんだろうが、努力としての意味を自分の中に見いだして、納得しなければいけない。


 だから、俺が明日も、あの子達の為の俺でいる為に、明日もあの子達と向き合う為に、適うわけのない絵を、誰に見せるわけでもない絵を、俺もまた描き続ける。

 これもまた、一つの逃避だと思いながらも、右手で強く絵筆を握り

、いつもの癖で、市販の紙煙草に火を付けず、ソレを咥える。流石に今は手巻きはしていない。


 窓からは、綺麗な月が見えていた。


 俺はスーッと、円を描く。

 昼の空がハヤやヒバの物だとしたら、太陽があの子達の物で、戦うべき相手だというならば。

 この夜空の月こそが、俺が向き合うべき、戦うべき相手だ。

 毎日、沈むまでそこに正しい形で有り続ける太陽と、動く地面に立つ地球人という俺達の都合で、その形は一定なのに満ちているようだったり欠けているようだったりりに見える月。

 それらの関係が、アイツらと俺の関係のように思えるのは、流石にこじつけかもしれないなと自嘲した。


 その小さな笑い声は、部屋に消えていき。あとはもう、筆が滑っていく音と、狭いこの家の玄関で鳴っているであろう、腕時計が刻む時間の音だけが、部屋の中で息をしていた。


 空は、空はいつも優しい。


 星も、月も、太陽も。

 俺達が描いているようで、もしかしたら俺達が描かされているのかもしれない。

 もしかしたら、あの星は、あの月は、あの太陽は、あの空は、俺達が描いているのを、そっと見ているのかもしれない。

 

 ただ、ただ、人がその人生を賭けて描いているのを、空は見ている。


 だからやっぱり俺も、今日を終わらせるには、まだ早い。

「お天道様が眠っていても、お月様がちゃんと見てるもんな」

 ふと、いつの間にか月が二つ出来ていた。空に浮かんでいた満月を描いていたつもりが、いつの間にか存在しない湖面を描き、そこに移る湖月までを描いている自分がいた。


 それはきっと、日晴ヒナリと一緒にいた頃の事を思い出したからなのだろう。本当に手を伸ばしても届かない空の月は俺の絵への絶望を表している。そうして、湖に映った月は手が届きそうな場所にあるのに、その水面に自分を落とせば滲んで消えてしまう。


 描きながらそんな事を思うなんて集中力が途切れているな、と思い、ならばいっそと煙草に火をつけようとしたら、いつのまにか咥えていた煙草を強く噛み締めていたようで、フィルターが駄目になってしまっていた。

「クソ、最後の一本だったじゃねえか……」

 改めて取り出した市販の紙煙草のケースを、俺はクシャリと握り潰す。

 

 そうして、チラリと香水瓶がある棚に目を移した。

 未だに、吸わないとしても、作らないとしても、手巻き煙草用の作成道具を定期的に買い揃える癖が抜けなかった。

 普段はずっと市販の紙煙草だが、『手巻き煙草を作る姿が好き』だと言ってくれた彼女の机の上に一本、そうして線香代わりにもう一本作って、ボウっと香水瓶を見つめるなんていう、悲しい事を、もうずっと、続けている。

 最後に作ったのは、つい先日の事だった。香水瓶の横を見ると、そう古くは無さそうな手巻き煙草が一本、寄り添うように置かれていた。

 墓参りにも行けない俺の、ほんの少しの償いのような物。

 手を合わせる勇気が無い俺の、ほんの小さな弔いのような事。

「それでもまぁ……シケってんな」

 俺はその手巻き煙草を優しく手に取って、窓際で何度かカチカチと安いライターを鳴らして火を揺らす。

 もう数日経っていたら駄目になっていただろう。冬場は乾燥して駄目になるし、夏場はシケって駄目になる。だけれどそもそもまともな状態で管理していなかった煙草に、風味も何も無い。

 ただ、紙煙草よりもきついニコチンが、身体の中を通り過ぎていくだけだ。

 

 それでも俺は、やっと火が付いた煙草の煙を、深く胸へと吸い込んだ。軽い満月の下、白い煙がゆっくり、ゆっくりと昇っていく。

「あぁ……やっぱり不味いな」

 思えばこれも、俺の口癖だった。

 それでも日晴ヒナリが、手巻き煙草の方が好きだと言うから、俺はそれを続けていた。俺には分からなかったけれど、匂いも、こっちの方が好きだったらしい。

 この不味い煙草を吸う俺を愛した女性がいた事を、俺はずっと覚えている。


――違う、忘れられない。


 アイツは、自分じゃ煙草なんて吸わない癖に、いつも苦々しく手巻き煙草を吸う俺を見ていた。その嬉しそうな顔を、俺はずっと忘れる事が出来ない。

「月が綺麗……じゃなくて、空が綺麗でもなくて、煙が綺麗、か」

 見渡す限りの夜空に小さくも輝く金色の月、それに白が混ざり合う空。彼女は、いつかそんな事を言っていた。

 雲一つ無い満月の空に、立ち上る煙が綺麗だと。そんな感性に、きっと俺も惹かれたのだと思う。


 俺は吸いきった煙草を灰皿の上にそっと置いて、その火が完全に消えるまで、ジワジワと燻る煙草を眺めていた。


 そうして、キャンバスの前に戻り、そんな愛しいあの人を想いながら完成へと近づけていく。

 雲が無く晴れた夜空と満月の絵に、昇る煙の白を塗り、画号は書かずにそっとその絵を撫でた。

 完成した絵はそのままに、俺は道具を簡単に洗い、ベッドへと倒れる。

 久々にこんな事を沢山考えたのは、きっとココの家で日晴ヒナリの事を話したせいだ。

 トンだヘマをしたもんだと思う。心乱されるなんて、久々だ。吹っ切ったなんて、嘘も良いところ。情けない話だと自分でも思う。


 だけれど、それだったらこのまま、夢で会えたならば良いなんて、気障ったらしくて、悲しい事なんかを考えながら、それでもそれを願うように、少しだけ強く目を瞑った。

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