第十一話『泣かす絵、泣ける絵』
眼の前を歩く神対応のショップ店員さん。それを大きく改め駄目っぽい女子大生。それを更にとりあえず改めて、ココ。
未来の来、しかもそれを命令系の『こ』と読ませている。それに『ころ』についても、やはり好転の転と考えるならば良い名付けでは無いか。
往々にして美術関係で前に進んでいく人は、家庭環境について二極されているイメージがある。貧乏裕福といった家庭環境は、とりあえず巨匠のソレもあるのでおいておくとしても、家族関係は人格形成に大きく関わると思っている。反面教師にするも良し、前に倣うも良しではあるから、結局はそれこそ、ココロの持ちようではある。
俺の場合は、兄貴の影響が大きかったから、正直勝てずに捻れた気持ちを持っている。
おそらくで言えば、ハヤヒバコンビの家庭は裕福な部類だろう。それに家族関係はともかく、絵を描くという事については最高レベルの環境を与えられている。炎天下については、お空に文句をいうしかない。
ただ、思い出してみると、ハヤは何かしらの問題を抱えている物があるようにも感じていた。それこそ聞くのも野暮だから彼女が何か言うまで聞くつもりはないが。
ヒバの絵は、もう既にヒバの絵としか捉えられないくらいに独特かつ、一つの、彼自身の絵の完成形に近づいているように思える。だけれどハヤの場合は、どういう理由かは分からないが、その時々によって、絵や作風は変わらずとも、妙なブレが見えた、まるで何かに怖がって自分を隠しているような、そんなブレ。
――まさに、俺のようなブレだ。
それを感じたからこそ、ハヤの事が心配になるし、こうやってココの後ろを付いていく羽目になっている。後ろから見た彼女の身長は、やはり店員の時よりもだいぶ小さく、心細そうに見えた。
さっきまでの店員の彼女は、相当に上手く取り繕っていたのだろう。つまり騙されたのだ。そういうのが上手いっていうのは、創作家にとって少し危ない。ハヤはまだ若いからこそ、取り繕いきれていないと、俺の目からもハッキリとブレが見える。
けれど眼の前を歩くココの場合は、簡単には気付けないくらいに、画家の気配を消して、自分を偽る事に長けすぎている気がした。
ただ、それは上手く使えたなら、強い武器にもなる事を知っている。まぁ、その武器で自分を殺しさえしなければなのだが。
とにもかくにもこの子の絵を見ると言ってしまった以上、話はそれからだ。
「そういえば、先生って名前なんでしたっけ?」
「あー……『オキャクサン』かな」
今の俺は本名で画展に絵を出している。昔、兄貴の『
だからこそあんまり名乗りたくはないが、そういう冗談は意外と好みでは無かったようで、彼女は少しムッとして改めて言い直す。
「オキャクサンじゃなくてですね、お客様って言わなきゃ怒鳴られるんスよ? あぁもう思い出しただけでむかっ腹ッスね! それで!お客様のお名前を伺ってよろしいでしょうか?!」
「あぁ、俺は舘……」
「真一さんッスか?!」
――なるほど、彼女は人によって好き嫌いがハッキリ分かれるタイプだ。
真一は兄貴の名前で、そりゃあ絵を描いているなら画号と共に知れ渡っている名前ではある。だけれど俺はまだ名字の館しか行っていない。館の家には、落ちこぼれの『二の字』もいるのだ。
彼女の物凄い早合点、感情優先の生き方なのかもしれない。
こういう所が、まぁあのショップの店長と馬が合わない所以なのかもしれないと、改めて分かった瞬間だった。
気取るのが早い、頭の回転が早い、それは認める。だけれどそこにワンクッションを入れる術が、まだこの子には身に付いていないのだろう。
ただ、俺は今更そんな事を気にしない。兄貴と比べるなんてことは、それこそ俺が一番やってきた事だ。
だからそれについては怒りというよりかは、ちょっとした溜息くらいの話。
それに、それ以上に画家の『一文字』だけではなく、本名の『舘真一』まで知っているんだなと思った。館と言っただけですぐ名前が出てくるあたり、絵を描くのも見るのも好きな子なのだろう。
ハヤやヒバあたりは、基本的に現代人の絵に深く興味を持つ事がない。それはそれぞれのレベルがあまりにも高すぎるからだ。
いつだか本当に近年描かれた新進気鋭の画家達特集した雑誌を気まぐれに渡してみた時の読むスピードは異常だった。
アイツらは、自分の中に吸収出来る物がその絵に無いと思えば、現代画家は勿論、なんとも言えないが歴史的な画家の作品からすら、目を移す事がある。
そのくらいには、対抗馬に飢えているのだ。だからこそ、あの二人は一緒にいる。お互いの作品が、一番の刺激なのだろうと思っていた。
ただ、今眼の前で興奮したまま、俺を兄貴だと勘違いしているこの子の今の印象は、普通だ。普通に絵が好きな人。
――それを思って少しだけホッとする事に、嫌気が差した。
それに、いつまでも巨匠だと勘違いさせておくのも可哀想だ。
「残念。『二の字』の方だよ。舘真二」
「あああああぁ! やっちゃったあああぁ!」
流石に、今の一連のやり取りを申し訳ないと思う程度の常識は持ち合わせていたようで安心した。
やっちゃったって言われるあたり、意図はしていないのかもしれないが画家『一文字』と画家『二の字』の間にしっかり格差をつけているのも問題ではあるが、そこはまぁ事実だから仕方がない。
「まぁ……気にすんな、慣れてる。というかそもそも、舘真一はキャンプ用品店になんて、来れねえよ」
「確かに、それもそうですよね……しかし、一文字先生の弟さんッスかぁ……」
彼女の様子から何かを少し考えている素振りが見えて、少し怖くなる。
俺と兄貴の関係は、俺の中であまり他人に考えて欲しくない事の一つだ。この子がある程度聡い子だという事は分かっているからこそ、あまり考えてほしくない。
「私、どちらの絵も見た事ありますけど、二人共途中で画風変えてるッスよね?」
やっぱり来た。知っているなら分かる話。わざわざ言わないだけでハヤヒバコンビだって『一文字』と『二の字』の絵を見ていたなら気付いているであろう話。
ココは、おそらくそういうセンシティブな所にも臆せず突っ込んでくる子だ。
ただそれは、その目つきから感じるものは、単なる興味本位のようなものでは無く、心配や真剣や真面目、要は絵への複雑な感情が入り混じったような目だった。
彼女の少し長いまつ毛が揺れる、三白眼の瞳がこちらをじっと見つめている。
「ココ……って呼ぶのもなんか嫌だな、面倒だし、お前って呼んでもいいか?」
「えぇー……どんだけ格下げするんスか。まぁ私も気安い方が楽で良いッスけど、普通そういうのはモテないッスよ?」
「それはもういいんだよ。最初にあの店に入った時の俺の格好、見ただろうよ。だらし無さより、見てくれより自分の快適さが欲しいんだよ俺は。それにもう、モテる気なんてあるもんかよ。それで? 近いって言ってたけど今どの辺だ?」
いつのまにか二人して立ち話をしているのに気付いた。
そもそも、彼女は俺の名前を聞いたあたりから歩みを止めていた。ならば俺も止めるしかない。
「いや着いてるッスよ? 此処っス、私の家」
彼女が指差す先には、かなり大きめのガレージ。
ハヤヒバがいる屋上よりは狭いにせよ、家一つは建てられる程度の敷地に、ドカンと鉄の箱が置いてある感じ。
チラリと目に入っていても、まさか居住空間だとは思いもしなかった。
「いやいや、は? お前がお嬢様で絵を書く場所を提供してもらってる、とかではなく? 家?」
「だからそうだって言ってるじゃないッスか。私の家ッスよ。まぁ家が裕福なのは否定しないッスけども、それでもちゃんとバイトとかしてたッスからね! さっきまでは!」
思い出し怒りをしている彼女は、言いながら鍵を出して、何とも無機質で屈強な雰囲気の鉄ドアを開ける。
「どーぞ、我が城へ。今電気つけますね」
言われて入ると、当たり前だが真っ暗で、窓から入る暗い光で床が照っている。要は外よりも暗い。
その中で、外気温とロクに変わらない温度の空気が、絵の具の匂い達と共に舞っている。
――あと、酒と煙草の匂い。
すぐに電気が付くが、付かない方がマシだった。
「なぁココ、住めば都にも限度がねえか?」
「えー? 私の城ッスよー? 酒と肉に、煙草と絵の具も、付いてる。酒池肉林越えッス」
その、人間が過ごすにしては最低限以下であろう環境は、絵描きの墓場と言ってもいい。若い頃の俺にも、絵を書く事に夢中で部屋がとんでもない事になった記憶はある。それでもここまで酷くはならなかったもんだ。
「城っていうか……廃城だぞ」
その、書き殴られてボツにしたであろう投げ捨てられた絵達を見るなら、墓場と言ってもいい。画家の墓場
「まぁ、でも分かるよ。絵描き馬鹿にはまぁ、城だわな。何となく分かってきたよ。お前の事」
「でしょー? ふふ、馬鹿なんスよ私」
何故か嬉しそうに彼女は笑う。だけれど俺は決して笑えなかった。
――捨てられている絵の完成度が、そのレベルが、限りなく高い物だったから。
それでも、ハヤやヒバには劣る。感動に至るような絵では決してない。
そもそも、画風が一目で分かるくらいに、新古典主義に依っている。それを大学生で選ぶのは、今だと珍しい選択のようにも思える。
俺の解釈でしかないが、新古典主義を代表する絵画なんてのは、感動を呼ぶ為に描かれた絵では無く、戦う為に描かれたの絵達だ。
革命の具現化、不満の具現化、希望みたいな物達への望みの具現化。古い絵画にも知られざる歴史は沢山あれど、知りうる歴史の中には感情が前に出ている事が多い。
だが、新古典主義が描いているのは、絵では無く感情そのもののように思える。
「新古典主義……か」
十九世紀頃に於ける、絵画の事情や世界史と共に紐解けば、それらの画風は素晴らしい絵として存在するに相応しい。主義と名付けられ、名作も多いのだから、絵画単品として感動も出来るだろう、だが他の主義や画風と比べて、新古典主義は背景があるからこそ感動も強いというのが、画家崩れである俺個人の解釈だった。
ともかく印象、解釈に過ぎない。詳しい事を勉強したのはずっと前で、高校生に教える範疇を越えているから、流石に少し忘れている。
だが一つだけ分かる事がある。
その、感情を優先した新古典主義は、この現代に於いて、作風を貫くのが難しいという事。それは絵を描こうと志して、色々な歴史を紐解けば、分かりきっている事だ。それに、捨てられた絵を見た後だから分かるが、彼女はこの主義の勉強をするだとかいうレベルはとうに過ぎている事が分かる。
「なぁ……よりにもよってこの画風は想像してねえよ。お前はその筆で何と戦ってんだ」
「あはは……世界とッスかね」
彼女は笑いながらサラっと言ってのけるが、無謀な事を言っているのは、やっているのは、彼女自身が一番分かっているのだろう。
彼女は、ココは、絵を描いているのではないのだろうと思った。
絵で戦っているのだ、おそらくは、世界というよりも、自分自身と。
「どうせ画号なんてねーんだろ? この感じだと画展も出した事ねーなこりゃ」
「そこまで分かるもんスか?! 伊達に歳を取っ……流石先生やっているだけあるッスね」
事実だからハッキリ言えばいいのに、変な所で気を遣う子だ。さっき俺を兄貴と間違えた事を気にしているのだろうか。
ともあれ、伊達に歳を取っているという事については聞かなかった事にして話を続ける。
「しかも戦ってるのは世界じゃねえよな?」
捨てられている絵も、キャンバスに描きかけてあった絵も、おそらくデッサンでは無い。モチーフもおそらく無いのだろう。きっと彼女は、ヒバのように想像力だけで描いている。
ただしヒバの画力には敵わない、だとしても彼女の歳にしてみれば申し分無いどころか、賞レースで食らいついていける程度の技術はあるはずだ。
俺は捨てられてある紙を一枚拾う。簡単なデッサンではあったが、血の滲んでいるような努力の上に成り立っているデッサンだった。
「ぐぬぬ、言うッスね。あとそれは流石にウォーミングアップのヤツッス」
この技術まで到達してもウォーミングアップを欠かしていない。だからこそ、単純なデッサン力だけで考えるならば歳の分だけという意味もあるが、ハヤヒバコンビも敵わないかもしれない。
絵に対する向き合い方が、そもそも違うのだろうと思った。この子は未だ到達していないと思い込んでいる。自分にはまだまだ練習が必要なのだと思い込んでいる。確かにそれは大事な事だ、ハヤヒバはその技術の高さ故に、ウォーミングアップをするにせよ、此処までしっかりと力は入れていないだろう。
彼女はそういう大事な事を忘れずに描いていると分かる。だからこそ、胸が痛い。
――それでも、俺の教え子達が持っている、人を惹きつけるという力が作品から感じられないのだ。
「戦ってるのは……世界じゃあなくて、お前とだろ? お前は、お前の中で完結したいだけだろ、こんなもんは全部そうだよ。なんで俺を呼んだ? この、お前が捨てている絵に必要なのは技術のアドバイスでも何でもない」
「あー、はは。ご明察で……」
何とも気まずそうな顔をして、彼女は煙草を取り出す。そのあたりのズボラさや逃げ癖も含めて、既視感がある。だから少しだけ、語調が強まっている自分がいた。
「なら本当に、なんで俺を呼んだ? 絵の上手さに関しては自信があんだろお前、筆跡で分かるよ。でも、納得はしていない。というか納得させようとも、しようともしていない」
言いながら、少しずつ苛立っていくのが嫌だった。今日初めて会った子のガレージの中で、大人気なくも真面目に説教を初めている自分に気付く、俺に覚えがあるからこそ、熱くなっている。
俺もまた、煙草を取り出して火をつけた所で、結局今の俺も彼女と同じ事をしてるじゃないかと、溜息が出そうになった。
「えー、うち禁煙ッスよ?」
「るせえな、ならお前の吸ってるそれ寄越せよ」
笑えずに冗談を言い合って、二人分の紫煙が天井にぶつかって消える。それは空に消えていくよりも少し寂しい事のように思えた。
――この子は変わらなきゃ、俺になる。
少し無言で煙草を吸いながら、改めて彼女の絵を見て回る。散乱しているそれらを踏まないように、ゆっくりと。
そうして、携帯灰皿を取り出そうとした所で、机に置いてあった吸い殻だらけの灰皿を見つけて、俺が先に煙草の火を消した。
ココは、俺を目で追いながら、深く深く煙草を吸って、やっと消す。
「……あの子達の絵を見て、泣けた理由を知りたかったんスよ」
彼女はそう小さく呟いて、捨ててあった自分の絵を拾い上げる。
「私、やっぱ上手いっスよね?」
「あぁ、上手いよ。間違いなく。お前が本気で人の目に留まろうとしたら、少なくとも舘信二とかいう画家崩れよりかは人気になるだろうな」
そう自分を皮肉ると、彼女は気まずそうに笑ってから、どうやらツボに入ったらしい。俺の方に手で謝罪の意を示しながら、堪えきれずに声を上げて笑い始めた。
「それは流石に、ひねくれすぎッスよ! なんか、お店で会った時と全然印象違いますね!」
――どの口がそんな事を言うのだ。
何とも言えない顔でその爆笑を見ながら、俺はそこらへんに落ちていた筆を拾い上げる。
「あは、はー、笑った。ほんと、自分で言います? それ。でもそうッスね『二の字』先生には勝てませんけど、舘信二さんには勝てるかも知れないッスね。こんだけ自虐的なんスもん」
「どっちも俺だろうが。でもまぁ怠惰な画家崩れなんざそんなもんだよ。ほれ、じゃあ俺の絵を見せてやるよ」
適当な白い紙を貰い、俺は板にその紙をバンと張って、彼女が元々描いていた絵のキャンバスボードから彼女の絵を外し、彼女の画材をそのままに絵を描き始める。
――人前で描くのは、何年ぶりだろうな。
何を描こうと決めてはいなかった。何を描けるともあんまり思わなかった。
ただ、感動する理由を考えながら、筆を手に取った。
「あれ?」
俺が筆を入れた瞬間、ココが間抜けな声をあげる。
「あぁ?」
流石に最初の一筆を入れる瞬間は気合が入るだけに、彼女の声がストップコールに聞こえて、思わず雑に返事をしてしまう。
「いや、どうぞ。見てます見てます」
「あぁ……、反面教師だ、しっかり見とけ」
筆を奔らせていく。何を見ずともスラスラと進む筆、もうだいぶ慣れたものだ。
この人生の殆ど、息をするように絵を描いてきたのだから、描くという事自体は出来る。
適当に描こうが、少なくともお上手ですねくらいの絵はいくらでも描けるだろう。ただ、俺はただの画家崩れ、汚れた手で描いているに過ぎない。
――だけれど、得意な事もある。
「泣ける絵、だったか」
呟きながら、あえて彼女の画風を意識して描く。
だが、そこには彼女のような細かさや、丁寧さは存在しない。その代わりに、存在させられる物がある。
彼女がハヤヒバの絵を見て、泣いたしまった理由を想って、筆を奔らせていく。その感情を、増幅させていく。
「絵の具、黒だけなんスか?」
彼女が最初にストップコールをかけたのはそれが理由だったのだろうか、絵を描き始めた俺に、彼女は不思議そうに声をかける。
「あぁ、泣くのに色の数なんざ関係無いからな」
たった一日の情報しかない、名前すらさっき知った。けれど彼女の絵が泣いているのは分かった。
そうして彼女がハヤヒバの絵を見て、実際に泣いたのも見た。ならば俺が彼女に描く絵は、こういう絵だ。
結局、使った色は、言葉にしてしまえば一色だ。
ただ正確には、名前が存在するかも分からないくらいの濃淡が存在している『無数の黒』だ。
あの屋上からいつも見ている空を、俺は黒一色で描いた。
黒い太陽、黒い空。
一筆ずつが、引く一線に、腕がちぎれるような想いを込めながら、空を描きあげる。
決してこれは、新古典主義の画風では無い。ただしそれに影響を受けたであろう『彼女の画風』ではある。
汗が滴り落ちる、板の軋む音、キャンバスボードが小さく揺れている。
それでも、筆は動く、想いと共に勝手に動いていく。
気付けば、夢中になって時間を忘れていた。左手の腕時計を見ると、時間はもう夜の十時を回っている。もう平気でニ時間以上彼女の部屋で絵を描いていたという事になる。
俺は焦って筆を置き、この部屋にもう一人いるはずの彼女の姿を探した。
「悪い、集中して……あれ?」
すると、俺の視線からココの姿は消えていた。
だが気配はする、小さい声が聞こえている。
目を凝らして部屋を探すと、しゃがみこんでいる彼女を見つけた。
「ズルい、ズルいッスよぉ……」
涙声の彼女が、ベージュのタオルに顔を埋めている。
「下手なのに、下手なのに!」
「悪いな、下手がこんなに長々と。でも分かったろ? 俺はちゃんと画家崩れの、館真二だ」
言うと彼女は、本当に悔しそうな顔でこちらを睨んだ。
「……だから、やっぱり違う。私はあの人の、『二の字』先生の絵では泣かない」
――そりゃそうだろうさ。だって俺は、泣かせる為の絵を描いただけ。
『画家・舘信二』の絵と『二の字』という画号を使った俺の絵は、描いている人間が同じだけの別物。
汚れた手は、そういう演出も出来るというだけの事。
「これが俺の手練手管。上手くいったようで何より。泣けたろ? お前はこうなるなよ、絶対に」
「……なれないッス」
「それが正解。俺が描いたコイツは絵じゃない、模倣した感情。それに共感してお前は今泣いただけだ。アイツらの絵にあるのは魂、それに共振してお前は泣いた。その違いをよく覚えとけ」
――俺の得意な事。それは偽物を如何に本物らしく見せるかという技術だ。
限りなく本物のような感情に近づけ感動を呼び、求められるがまま、偽物を上手に描くという、皮肉な技術だけは、自信が持てる程度に上手くなっているのが、俺という画家だった。
この絵は、彼女だけを泣かせる為に描いた物だ。要は彼女の感情を想像して描いただけの、俺の感情の一切が乗っていない絵。
だから、泣かせる事が出来た。
ただ、彼女の絵に足りていない物は、俺が描いた絵には存在しているのかもしれない。本物の、嘘偽りない彼女自身の感情。
俺が限りなく彼女の感情を模倣出来たのなら、そこに彼女が自分の感情を見いだせたならば、俺の絵は偽物でも、それで構わない。
――なんせ、その為だけに描いた。
彼女以外には見せる意味が無い絵なのだから。
本気で怒ったり、本気で泣いたり。今日だけで見られたあの子の本当の姿が、絵に投影されていないのだ。
本来彼女が持っている強い自我が絵に伝達出来ていない。本当の意味で絵と自分をリンクさせていないからこそ、技術のみが向上していき、本当の意味で、自分を納得させ、人を泣かせる事が出来ない。
「絵には勿論上手さも大事だ。だけど上手さだけじゃねえのよ。お前は魂を載せろ。お前よりもお前の絵が泣いてんだよ。『最後の一筆が足りてない』って」
「抽象的な言い方、好きじゃないッス」
しかし、面倒な子だ。でもこう言えば分かりやすいのだろう。
「お前は画号をつけろ。この絵は私が描いたのだと、叫べ。それでやっとお前の絵はお前足り得るんだよ」
そんな俺もまた、画号をあえて入れていない自分の絵の前で、偉そうな事を言っている。
それを知りながら、おそらくは彼女も知りながら、話が進んでいく。
「つったって、画号なんて師匠とかに貰う物ッスよね」
「このご時世自分でつけたって良いだろ。師事してる人がいるなら貰え」
どうせいないだろうなと思いながら言うと、彼女は苦笑していた。
「いると思います?」
「いいや、思わん」
それで、やっと彼女の涙も止まり、さっきのペースに戻ってきた。だからちょっと面倒な話になるのだ。
「ならししょーが付けてくださいよ」
「……はぁ? ……はぁ、俺に言ってるんですか店員さん」
「そうですよ? お客様」
面倒なのにひっかかった。本当に、面倒で馬鹿なのに引っ掛かった。
でもまぁ、ハヤヒバが一人増えたと思えば、大した事でも無い。いや、大した事かもしれない。
「弟子より下手な師匠がいてたまるかよ、返品だ」
「いーえ、買い取って貰うッス! クーリングオフはなーし! 私の住所はもう知ってるから……よしはい連絡先交換!」
無理やり連絡先を交換されてしまった。無賃金労働がこれから生まれるのだろうか。
「あぁもう、俺の絵を見てお前くらいなら分かんだろ? もう俺なんていらねえだろうよ……技術で教えられる事なんて一つも無いんだから」
「いるんス! だからじゃあはい! ししょー! 画号!」
泣いたり笑ったり、そうして勢いで画号を付けさせようとしてくるココ。
ただ、俺が彼女に画号をつけるまで、家に帰らせるつもりも無さそうだ。
しかしまぁ、俺は家に帰って今日描く分の絵を、この二時間でもう書いてしまったとも考えられる。密かに自分に課し続けていた『毎日筆に触る』というノルマは達成している。
だから家に帰ってもする事が無い。
「はぁ……じゃあお前は部屋を掃除してろ。その間に考える。せめて自分の作品くらい大事にしてやれ。気持ちは分かるけどな」
「もー……分かりましたよぅ。あ、じゃあ料理も作るんで食べてってください! ……お酒も飲みます?」
コイツは本当に堕落している。見た目はこんなに小綺麗にしているのに。
痩せているのはお互い様だ、きっと集中して食べるのを忘れるところがあるんだろう。
そうして俺が男の割に少し髪が長いのも、彼女が長髪なのも、切りに行くのが面倒な所があるんだろうと思った。とはいえ、彼女も家に入った瞬間に長い髪を後ろで縛っていたが。
その辺りは本当に雑になりがちだ。性格にもよるが、例えばハヤみたいにいつも綺麗に黒髪を切りそろえてツヤツヤさせている画家は珍しい。なんせアナログで絵を描くと服だの手だの髪だのは汚れがちだ。
俺はまぁ、ギリギリ外を歩ける程度には体裁を保っていると思いたいが、正直歳を取るにつれてそのラインは下がっていっている。
若さを理由にするのは何ともいえないが、ハヤも然り、ココも綺麗な茶髪をしている。家に帰ってきて結ぶのも、絵を描く時に汚れる事をきらっての習慣からだろう。
そりゃ、人前に出るバイトをしてたのだからある程度見た目はいるよなっと思った後、ふと視界の隅に放り投げてある髪の染料を見て溜息が出た。見た目は大事、見た目は大事。
「はいコレ!」
渡されたストロングな缶チューハイ。客人に出す物かと言われると甚だ疑問ではあるが、酒には強いから黙って受け取る。酒は若い頃浴びる程飲んだ。空きっ腹で、度数の強いチューハイでも、流石に一本くらい飲んでもどうって事は無いだろう。
「俺はそこそこイケるけど、こんなもん飲んでお前は強いのか?」
「飲んでも飲んでも酔えないッスねぇ……コスパわりーのなんのって! だから酔ってる私は見られないッスよ。残念ッスね!」
「残念でたまるか、悪癖がねえか聞いただけだっての」
だからこそのストロングな缶チューハイかと思いつつ、ジュースのような甘ったるいそれを飲み込む。
――飲む、か。
昔から駄目な男の三種の行動、もしくは依存してしまう事柄として『(酒を)飲む、(賭博を)打つ、(女を)買う』なんて言葉があるが、彼女は実にその飲むという行為に依存しているように見受けられた。煙草を吸うのも飲む、または呑むなんて古い言い方があるくらいだ。
それがまた彼女らしいと思えた。ただ印象的だったのはやはり、二人で吸ったあの瞬間の紫煙だったか。
「はいししょー、なんか知らん焼き飯ッス」
チャーハンのような何か。というか調理道具も普通に揃えられているあたり、本当にこのガレージで生活しているとすればどれだけ裕福な家庭で育っているのだ。
広さは勿論の事、揃っている家具だって、雑に扱うべき代物じゃないように見える。
内装や置いてある物はハヤヒバ専用倉庫よりも金がかかっているのでは無かろうか。焼き飯が置かれた食卓机も、やはり自分の家の物とは比べ物にならないくらいに良い物のように見える。
悲しいことに、何処を見ても掃除は行き届いていないが。
「意外と美味いっすよ。料理も普通に努力はしたんで」
確かに口に運ぶと、確かに何かの焼き飯。しかし美味しかった。
料理名は分からないし、彼女も本当に分からないのだろう。だがこういうのを普通に作れるあたりは、やはりそもそもが努力家なのだろうと思った。
行きつけ中華屋はもう閉まっている頃合いかと少し残念に思っていたが、それに匹敵しても良い程度には満たされる味。
とはいえ、空きっ腹に酒を飲んだから食欲が増進しているのもあるのかもしれないが。
「そんふぇ、ひひょー、がごーは」
「……ん、食いながら喋るヤツには言わん」
そう言うと彼女はガツガツと自身の皿の上にある焼き飯を腹に詰め込んでいって、缶チューハイをゴクゴクと飲み干した。
「で! 画号! は!」
コン! と飲み切った缶チューハイを置いて、彼女は二本目の缶チューハイをプシュっとしながら俺を急かす。
「まだ俺が食ってるでしょーが!」
「もー!!!!」
彼女はこちらを軽く睨んでから、お行儀悪く缶チューハイを飲みながら、冷蔵庫に駆け寄りストロングな酒のロング缶をトントントンと机の上に置いてから、煙草を吹かす。
「ま、待ちますよ。待つのはもうさっきので慣れたッス。何度か声かけたの、覚えてます?」
「それは、悪い。気付かなかった」
「でしょうね、知ってますし、分かります」
話していて、時折軽い口調が抜けるのもまた、彼女らしいなと思った。たまーに『ッス』が抜けている。
――しかし、あっという間に距離感を詰められた。
彼女らしいとは何だろうかと疑問に思ってしまった。何故なら彼女は今日会ったばかりの人間なのだ。それでも、画家同士通ずる所があったのだろう。それにそう思わせてしまう程の、自分との類似点もあった。
だけれど俺は何も彼女の事を知らない。その上手さもまた、彼女の処世術なのだろう。逆に言えば、彼女も俺の事は何も知らないはずだが。
それでもやはり、奇縁だとは思った。
それでいて、俺とは違う人間になって欲しいと思った。
「……紫煙」
「それって、煙草の煙の?」
彼女は俺のその呟きをちゃんと画号だと理解したのだろう。何とも不思議そうな顔をして理由を聞く。
「これまた何でッスか。煙草吸うからって適当な理由だったらぶっ飛ばしますよ」
「師匠をぶっ飛ばすなよ……。理由は、だ。それがいずれ消えるとしても、一般には害とされるもんでも、それでも煙が上がれば人は空を見上げるもんなんだよ。それは炎じゃなくても構わん。だからお前はお前の紫煙で人を引き付けろ。感情は、ちゃんと火ぃ付けた上で吐き出せって事だよ」
「あー……」
思った以上にまともな理由を説明してしまった。俺も少し酔っているのかもしれない。ただ、言葉は止まらなかった。
「お前はお前の魂にちゃんと火をつけろ。俺はお前の事を何にも知らん。けどさっき言ったように、絵が泣いてる、お前も泣いてるのは分かる。ならまずは、その感情にちゃんと向き合って火をつけろ。一服はその後だ。胸一杯に吸い込んだ、紫煙を吐き出せ」
俺の熱弁にあてられたのか、ココは少しだけ赤い顔で、こちらを見る。
「煙草って、ライターが無いと火ぃ付けられないんスけど……?」
「マッチ、火打ち石、要はこんなもん概念だ。何でも使え。ただ自分の中の火を起こす事を忘れるな、これで師匠らしいか?」
「むーー、師匠としては満点かもしんないスけどね! 先生だって若く見えるけれど三十歳くらいっスよね? 若い子の家来て酒飲んで料理作ってもらって、こーんな色気ってねぇもんッスか?」
「ねぇよ。あってたまるか。そもそもお前がそういう色気目的の人間だって素振りが一瞬でも見えたら来てねえよ。あの店を出た瞬間から、俺は画家のお前と話してんだ」
「そっか、なんか。それはそれでどうなんだろ。でもなんか、うん。嬉しい。紫煙か……確かになぁ……」
少しだけしんみりとした空気に、つい俺ももう一本酒を開けていた。
「そもそも俺は元既婚者寸前だからな。色はそこで捨てて来てんだよ」
――まずい、若い頃の酒の強さを過信して、要らん事を言った。
あまり強い酒を飲まなくなったせいか、歳のせいか。
これは完全に口を滑らせた。しかも全く明るい話では無い、でもおそらくこの子のテンションだと受け取り方が絶対に違うはずだ。まずい。
「え?! なんスかそれ! ちょっと師匠! 詳しく! 何帰り支度してんスか! もう師匠! あとで連絡しますからね!」
こうなるのが分かっていたので、俺はすぐに帰り支度をして、ぎゃあぎゃあとうるさい、新しく教え子になりそうな馬鹿を尻目にじゃあな、と、彼女の家から退散した。
炎天下から始まった、本当に一日かと思えないような日は、心地よい夜空と共に終わっていく。
流石に外までは追いかけて来ないあたり、空気を読んでくれるのだなとホッとして、胸いっぱいに少しだけ冷えている夜の空気を吸い込んだ。吐き出す息は煙にはならない。けれど、確かに息はしている気がした。それはきっと、久しぶりに人前で絵を描いたからなのかもしれない。
そんな事を考えながら、朧げながらも自宅への帰り道を探していると、ピロンとスマホが鳴って『Sien』という名前アカウントからメッセージが届いた。
――もう『ココロちゃん』じゃねえのかよ。
『お陰様で、ちょっと救われました。ありがとうございます、師匠』
そんなメッセージを見て、しかしこの子は、キャラがブレまくっているなぁと、一人苦笑した。
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