第九話『欠けた円、奔る線』

 炎天下すらも糧にしやがるのか。俺は二人の描き終わった絵を遠くから見て、吸っていた煙草をクシャリと携帯灰皿の中で二回潰し、二人の絵の方へと近づいていく。


 やっと気温も落ち着いて、太陽もゆっくり沈みかけ、下校時間の鐘が鳴った頃、正に夕暮れ時に、二人は絵を書き終えていた。

 その完成画は、俺自身が今日の二人を見ていたからこそ、ハッキリとその感情ごと伝わってくるような空の絵だった。

「今日のこいつはー……」

 俺が近づいている事にも気付かず、樋廻ヒバサミが自身の採点をしようとする。

 

 早鐘ハヤガネは気付いていただろうが、じっと彼の採点を、睨みつけるように真剣な目で見ていた。もう汗をかくような温度では無いだろうに、彼女はグシグシと、もう温くなっているであろう冷感タオルで目を擦る。

「んー……今日はこれ、かなー」

「待って!」

 そう言って樋廻ヒバサミが自身の絵に評価の為の"印"を入れようとした瞬間、早鐘ハヤガネがその手を止める。

 筆の先はキャンバスに付くギリギリの所で止まり、勢いよく掴んだ衝撃で、筆から青い絵の具がポタリと床に落ちた。

「違う……でしょ!」

 早鐘ハヤガネのその声は少しだけ震えていた。それもそのはず、今日の二人の絵は単なる空を描いたわけではない。

 普段各々の作風でちゃんと空を見て描く二人には珍しく、いつものように密かにではなく、ハッキリと対抗したかのような、互いが普段の画風を変えて描いた二つの空だった。


 樋廻ヒバサミの絵は見えていたのは青空にも関わらず、絵に描かれていたのは筆舌に尽くしがたい程の赤、紅、朱、それぞれが別の色で燃えている。夕焼けと言っていいのかどうかも分からない程の、焼けたような色の空。

 そうしてその空にポツポツと、本来の空の青、だけれど存在しなかったはずの青の点が無数に、赤色達をかき消すように降り重ねられている。それはもしかすると、彼が思う汗の色なのかもしれない。


 端的に『夕焼け時の雨』なんていう絵などではない、燃え上がる空をかき消そうとする生命の青い点描。

 だが、その絵に彼は一瞬バツ印、またはサンカク印をつけようとした。彼の中で何か思う所があったのだろう。

 だけれどそれを早鐘ハヤガネは、とうとう許さなかった。

「丸……描きなさいよ。じゃないと……じゃないと私なんて……」

 一方そう言う早鐘ハヤガネの絵もまた、やはりいつもと作風が変わっていて、丁寧さよりも荒々しさが目立つ物だった。

 隣にいる樋廻ヒバサミに影響されたであろうことがよく分かる。

 だが、その出来栄えすらも『私なんて』と言うようなレベルなわけがなく、元々彼女が持っている丁寧な作風に、良い意味で強い力が乗っていると感じられるように描かれていた。

 どちらかといえばいつも丁寧に、尚且つこれはおそらく癖なのだろうが、やや薄めの色合いで描かれている彼女の青空も、今日は凄く深い青をたたえているのだ。


 もはや空を元に、自身が想像したその字の通り空想の空を生み出した樋廻ヒバサミとは違い、早鐘ハヤガネの描いた空は適切で、見えている空を描いているという事は変わらない。炎天下を感情的に表現した樋廻ヒバサミと、炎天下を強く正しく描いた早鐘ハヤがネ

 だが、その技法には、面白い事に二人とも点描を用いていた。


 樋廻ヒバサミの点描は一点一点を力強く、次の日には覚えていないかもしれないであろう暑さという情報を忘れさせないような赤色達と、それを掻き消してやりたかったと思い出せるような力強さで青色が打たれている。

 一方早鐘ハヤガネの点描は、一点ずつは確かに強いが、上手く空の色に馴染ませるように即座に広げ続けたのだろう。ただの青空では無く、これもまた暑さを印象で抱かせる作品だ。

 その丁寧な一点の集まりを創るのは、暑さに集中力を乱されて苛立つのも仕方が無い程に、集中力のいる作業だっただろう。

 

 彼女の絵の中で広げられた点描の名残は、綺麗に整列されて、一つの正しい空の形へと変わっている。ただ、その広がった一点一点が、まるで花のようにも見えた。

 これもまた、彼女なりの炎天下だったのだ。まるでこれは、青で描かれた炎の花。


 樋廻ヒバサミと同じ手法を使っていた事も、彼女は勿論気付いていたはず、その上で『私なんか』と言いのけて、丸を付けない樋廻ヒバサミに文句までつけた。

 それはきっと、彼女の根本にある、自信の無さが生み出した事なのだろう。


『彼の絵が丸と評価されないのであれば、私の絵は一体何なのだろう』なんて、大方そんな事を思ったのだ。

 彼女の自信の無さは、いつも書き終えた絵の下にうんと小さく残された『kanashi』という画号からも見て取れる。

 他人と比べてしまうという事は、人間としても絵描きとしても良くある事ではあるが、今日の彼女は暑すぎるという環境も相まって特別感情的だったようで、彼女は樋廻ヒバサミの手を掴んだまま、ゆっくりと筆を動かし、無理やり丸を作ろうと力を込めていく。

「ごめん……」

 小さく呟いた彼女の言葉と共に、彼女の顔についていたままの青い絵の具を伝って、ポタリと青い涙が地面の絵の具を滲ませた。

 それを見た樋廻ヒバサミは驚いた顔をしながら、それでも何も言わず、彼女の誘導に従って、丸が描かれるのをじっと見つめていた。その顔は珍しく真剣で、何かを思っているようにも見える。

「いーよ。でも、俺もごめんな」

 そう言って、丸が出来る前に、樋廻ヒバサミはその筆を止めて、彼女の手をそっと解いた。

 そうして、彼は彼女の画号の下に思い切り一本の線を入れた、丸でその名前を強調するかのように。


「これでおあいこ。俺は俺の作品に丸をつけられるとは思えないんだよな。でもハヤがそう言うなら分かった。でも手を借りるのは此処まで、そこは譲れねぇや。本当の丸は俺が本当に満足した時に……改めてお前が描いてくれ」

 途中で樋廻ヒバサミが手を止めたせいで、初めて彼の作品にはどんな印でも無い、新たな印、欠けた丸が残された。だけれどそれは間違いなく、早鐘ハヤガネの感情が産んだ、彼女の印なのだ。丸の成りそこね。それがこの、不器用な二人の縁なのだと思った。


「だけどよ、お前の作品だってそんな縮こまる作品だとは思えねえんだよ、ハヤ。だからいつか俺に、お前の画号を書かせろ。それでいいだろ。俺達は」

 いつもおちゃらけた彼から出る、画家としての声色は、彼女の涙を止めるに相応しい言葉だった。

「……うん、ごめん」

「ほんと、いーよ。びっくりはしたけどな!」


――しかし不器用な二人だよ。

 結局、お互いがお互いの絵を好きな癖に、自分自身の絵には少しだけ自信が無い。

 樋廻ヒバサミがいつも丸を書かない理由もまた、シビアだからではなくきっと自信が無いからなのかもしれない。

 彼も早鐘ハヤガネの行動には流石に驚いたというか、突飛な行動だからこそ面食らったのか、冷感タオルで顔を拭く。その時に一瞬目尻に光る物が見えたような気がした。

 そのやり取りを終えて、やっと少し気まずそうな顔で、二人はこちらを見る。

「いやぁはは、青春してんねぇ」

「茶化さないでください!」

 もういつも通りのテンションに戻った早鐘ハヤガネを見てホッとしながら、俺は小さく溜息をついて、笑った。

「んっとに、黙って見てりゃなーにやってんだよお前らは! 自己完結しやがって、頼るのが生徒だろ。自信なんざ一生付きゃしねえよ バカタレどもめ」

「し、仕方ないじゃないですか! この絵が丸じゃないって言うんですよ?!」

「うるせぇぞ小童! どっちの絵も花丸で塗りつぶしてやろうか! 良い所全部説明してやろうか? こちとらこれでも美術館の解説員までしてた事あんだからな!」

 そう言って二人の頭をグシャグシャと撫でた。俺にしては近づきすぎた行為かもしれないが、今日はもういい。俺も暑さで頭がやられたという事にしよう。


 それ以上に、少し二人の熱さにあてられてしまっていると自覚しながら、感情的になれている自分が嬉しかった。

「わは! こういうの珍しいな!」

「やめ! 髪に臭いつく!」

「今のお前らの手よりはずっと綺麗だっての!」

 

――まぁ、俺の手はある意味で汚れちゃいるんだけれど。

 そんな事を思いながら、その本当は汚れている左手で、樋廻ヒバサミの絵を指差す。

「特別に今日は俺が名付けてやるよ。点数もつけてやる。お前のは炎に点描の点、河と書いて『炎点河エンテンカ』にしよう。九十九点」

 その後に、右手で早鐘ハヤガネの絵を指差す。

「そんでお前のは、延ばした天の花と書いて『延天花エンテンカ』だ。九十九点」

 勝手に名付けをした。こいつらが勝手に互いの絵に筆を入れたなら、俺が口出すくらいは良いだろう。

「かっけーじゃんか! なんかちょっとクサいけど!」

「というか同じ読みじゃないですか紛らわしい! しかも九十九点って! 花丸って言ってましたよね?!」


――残りの一点は、こいつらが自分で気付け無きゃいけない事。


「お前ら小筆貸せ、特別に俺がタイトル入れてやる」

 二人の何とも言えない文句達を無視しながら、俺は二人から小筆を左手で受け取り、少し厚みのあるキャンバスの余り地の部分に、小さくタイトルを刻んだ。

 それを見て、二人が少しだけ目を丸くしている。

「あれ? センセって字ィ上手いんだな」

「ほんとだ……先生らしくない綺麗な字ですね……」

 大人になって汚れてしまった画家崩れの手だとしても、天才と秀才の作品の見えない所に絵の名前を描いてやるくらいの事は、まだ出来る。俺は左手で持った筆をそっと二人に返して、小さく笑った。

「ほんとーに口が減らないな、お前らは」

「というかいつも思っていたんですけど、仮にも生徒にお前っていうの、どうかと思いますよ」

 教師に対してゴミとか言ってくるヤツに言われる台詞では無いのだけれど、言われてみると間違いでは無いから悔しい。

「そうかー? 俺は結構好きだけどなぁ。俺もハヤの事お前って呼ぶだろ」

「ヒバは同じ歳でしょ! そういう事じゃなくって先生が生徒にって話!」

 なんだかんだ、結局こんな事でも意見が対立している。個人的にはさっき『小童』と言ったのを突っ込まれそうな気がしていたが、そのあたりは勢いで誤魔化せたようだ。

「じゃあなんてお呼びすれば? お嬢さんとお兄ちゃん」

 とりあえず聞いてみた、特に早鐘ハヤガネは今日見た通り、少し感情的に成りやすい子だ。出来れば妥協案は探しておきたい。

早鐘ハヤガネさんが妥当ですよね!」

「俺はお前でいいぞ!」

「じゃあヒバだけそう言って貰えばいいでしょ!」

「ハヤはさん付けされるような感じじゃねーだろ!」

 

――成る程、これか。

 二人の言い合いに割って入るように、俺は二人の事を呼ぶ。

「分かった、分かった。ハヤもヒバも落ち着け」

「「んん?!」」

 二人が変な声を出してこちらを見る。

 それを見て俺は思わず吹き出してしまった。

「妥協案。丁度いいだろ。ちなみに二人揃ってお前らはお前らだ。面倒だからな。でも個別にはそう呼ぼうじゃないか。満足だろ?」

「まー、なんかちょっとくすぐったいけど、悪くはないな!」

「生徒からお友達にでもなったつもりですか……でもまぁ、私もそれで良いです」

 ハヤは自分の発言に気付いていないようだが、彼女をハヤと呼ぶのはヒバだけのはずだ。

 だからつまりは、少なくとも彼女は彼の事を友達だと思っているんだなと思い、微笑ましかった。

「ほら二人共、片付けせーよ。水筒以外は俺が預かってちゃんと冷やしといてやるよ。画材だけ片してさっさと帰りやがれ」

 そう言って俺は日除けを片付け始め、二人のタオルと、クールリングを回収する。

 タオルを手渡された時の重さが、二人の努力を証明しているようで少し嬉しかった。


「センセ、ありがとな」

 こういう時に素直なのはいつもヒバの方だ。ハヤはお金周りをきっちりさせようとしてくるが、言葉として改めて言い出すのは苦手と言うか、気まずいのだろう。

 これはおそらく彼女性格の問題で、嫌われているという事では無いと思うが、年頃なのかもしれない。

「構わんさ。お陰でお前らの絵がこの炎天下に勝つのを見られたんだから」

「そうか? 俺ら、ほんとにこの炎天下に勝てたかな?」

 珍しく、ヒバが少し自信無さげな声を出す。

 ハヤはまだ片付けている最中で聞こえていないようだった。

 丁寧に地面に落ちた絵の具と、自身が溢した涙を拭いている。タオルを渡す時も、少し恥ずかしがっていた。

「あぁ、勝ったよ。俺と……ハヤが認めただろ」

「……そっか、へへ」

 彼はそれだけ言い残して、いつものように元気に帰っていった。

 ハヤは流石に罪の意識があったのか、未だに掃除を続けている。

「ハヤも、そこらへんは気にすんな、やっといてやる。あんだけ汗かいたんだ。冷える前に帰っとけ」

「だけど……」

「そういう所は甘えろ、普段あんな風な癖に、本当にお嬢ちゃんだなぁおま……ハヤは」

 いつものようにお前と言いかけてハヤと言い直す、正直俺としても少々照れ臭いが、そう言ってやると決めたのだ。正直珍しい名字で言いにくいのも本音だったが。

「あんなってなんですか! しかもお前って言いかけましたよね?!」

「こんなだよ! 特別に今日は絵もちゃんと仕舞っといてやる、まぁいつもだけどな! でも今日は特別疲れてるだろ」

 そう言うと彼女は改めて少しシュンとした顔をして、彼女自身の絵を見た。

「本当に九十九点、でしたか?」

 

――こいつらは本当に! 可愛い馬鹿だなしかし!

 俺は、悪いと思いつつも、彼女のキャンバスに手を少しだけ強く置き、横にサッと動かした。

「あの暑さの中でこいつが出来んのは、紛れもなくお前らみたいな特別なヤツだけだよ。発想も含めてな。点描、どっちから始めた?」

 聞くまでもない、答えは分かりきっていた。

「いえ、どちらからというか。気付いたらお互いに」

 

――だからこの二人には敵わない。

「その偶然、タイミング、暑さ、集中のいる作業、全部がその地面に落ちただけだろ。無理して拭き取ろうとすんな。ある意味勲章みたいなもんだ。ヒバの絵もハヤの絵も、正しくこの炎天下の中でこそ描き切れた、暑さを散らした、炎天下に勝った絵だよ」

 その言葉に、彼女はホッとしたのか、また涙がツーっと頬を伝った。

「あれ? あれ? すいません、なんでだろ」

「まぁ、そういう日もあるだろ」

 言いながら俺はタオルを渡す。彼女はそれを受け取って、顔をゴシゴシと擦ってから、タオルを顔につけたままスーーッと息を吸い込んだ。そうして間を置いて、スーーーーッッともう一度息を深く吸い込んで、顔を出す。

「ごれ、わ゛だじのじゃない……」

 そういえば、冷感タオルだけ色分けするのを忘れていたんだった。

 真っ赤な目で、真っ赤な顔をしたハヤから俺はタオルを受け取り、素直に謝ってから、彼女を家に返した。


「俺から百点を付けられる日が来りゃ、幸いだな」

 改めてあの絵を思い出して、一人呟く。

 画展であれらを客や審査員が見たら、多くが百点と言うだろう。

 それでも、一応はあの二人の教師である俺は、二人が絵を描く為に本当に大事な、自信という物を筆に宿らせるまで、百点と言うわけにはいかない。

 そんな事を思いながら、俺は倉庫で改めて今日描かれた二人の絵を見る。


 少し震えた欠けた円が描かれたヒバの『炎点河』

 小さな画号の下に強調線が引かれたハヤの『延天花』


 互いが互いの絵に百点を付けている事をきっと互いが気付いていない。


 その憧れや嫉妬や、尊敬みたいな感情が今の二人を二人足らしめている。


 だけれどいつか、自分達の作品について、自信を持てる日が必ず来るはずだ。

 きっと、二人が自分の作品に満足してしまう日はきっと無い。それは創作者の呪いだ。

 だけれど自身が生まれる日は必ずある、それだけは確かなのだ。


――きっと、確かなのだと、信じている。

 何故なら、俺も二人よりうんと低い点数の絵に、一点を足せないでいるから。

「さて、俺の点数は、幾つだったっけね」

 その最後の一点だけが足りない二人の点描が混ざった絵を見て、ふと自分が書いた、というよりも描いた題名が目に入る。

 さっき、二人には「珍しい」「意外だ」とその字を褒められた事を思い出し、そういえば思わず俺も感情的になっていて、自分を律する事を忘れていたな、と左手の時計を撫でた。

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