第七話『捨てられない香水と忘れられない腕時計』

 兄貴の夢を見た。数年前に大喧嘩をして以来、一言も喋っていない兄貴がじっとこちらを見ている夢だった。それはまるで俺の事を責めているようで、恨んでいるようで、羨んでいるようで、俺は何も言えずに兄貴を見つめている。何か一言でも伝えたいのに、考えがまとまらないまま、そのうちに兄貴の黒目が絵の具のように白目へと広がり、そのまま黒とも呼び難い、原色を沢山塗り合わせたような、創られた黒のヘドロのように消えていく夢だった。


 起きるとまだ午前十時前、生徒二人の昼休みには程遠いが、昨日と違って随分暑苦しい日になったようだ。だからこんな夢を見たのだろうと、俺は蛇口をひねり、無色を飲みこむ。

 思えば無色とは何だろうと考えながら、厳密な透明を考える自分自身に思わず笑いながら、無色ならぬ、単なる水道水を飲み込む。顕微鏡で見たなら、まぁこれを無色というのも違うのだろうなんて事を考えながら、起きてしまったのは仕方ないと、さっき見た夢を忘れようとしている事を自覚しつつシャワーを浴びた。

 

事実、兄貴が今何を思っているかは全く分からない。最後に会った日の喧嘩の内容は、やはり画家同士、絵画についての事だった。兄貴は俺の事を買ってくれていたが、それでも兄貴にたどり着けない事は、それなりに努力をしてきただけに理解していた。

 凡才では辿り着けない境地があるのだ。だが彼は「凡才だからこそ辿り着ける境地がある」と俺を叱りつけた。

 感情が透けて見える程に圧を感じる彼の印象的な画風は、日本ならず世界を魅了させていた。そんな舘真一ダテシンイチという画家が言う言葉には事実、しっかりとした重みがあったのだ。それは俺達が兄弟だとしても変わらない事だ。

 だが、その兄貴から凡才だと認識されているという、考えたくはない事実を突きつけられたのと同時に、もう筆を折ってしまいたいくらいに兄貴の背中が大きすぎた、見たままを描くくらいしか脳のない俺にとって、圧倒的に分厚い壁を目の前にして、更にそれを壊せと言われているようで。まだ三十代にもなっていなかった頃の俺は、激昂した。


 それを最後に、兄貴とは一言も会話をしていない。

 『一文字イチモンジ』という画家と『二のニノジ』という画家が、各々程度の違う世界で、絵画を通して対話をしている様なフリをしている。ただそれだけだった。こんな事はもうやめなきゃいけないと思いながら、俺は冷たいシャワーを頭にぶちまけて、浴室を出る。

「あー、アイツらと同じサイズならなぁ。捨てるくらいならワイシャツもくれってんだよ」

 貧乏は楽じゃあない。アイツらは幸い良い家庭で育っている。というかそもそも画展に入賞した時の賞金だけで俺の給料を上回りやがるから悔しい。俺はぼやきながらバスタオルで身体と髪の毛をガシャガシャと拭いて、部屋干ししてあったワイシャツにスプレータイプの臭い消しを吹きかけ、袖を通す。


 無臭じゃないと早鐘ハヤガネが文句を垂れるからわざわざ無臭にした。香水をつける事ももう無くなったが、色気も何も無い。とはいえ一回り以上歳下の、しかも生徒相手に色気も何も無いのだが、あと学校で話すと言えば、逆に二回り近く年上の購買のおばちゃん程度だ。

「捨てられんで悪いな」

 棚に置きっぱなしの、唯一買い続けていた香水に、少しだけ優しげに独り言を向ける。つけなくなって久しい。数年前に亡くなった婚約者が好きだと言っていた匂いだ。

 俺はそっとその亡くなった彼女の名前を呼ぶ。そうして香水を手にとって、匂いを嗅いだ。

 この中身が無くなったら、捨ててしまおうと思いながら、いつまでも蒸発を待っているだけの、寂しい男だ。


 ネクタイを雑に結んで、少し伸びたかな、と思った髪の毛を後ろで結った。二人の面倒を見始めてから、俺も影響を受けてしまったのか、どうにも絵を描かなきゃいけないような気がして、どうもこのあたりの機微に疎くなっている。そのあたりを早鐘ハヤガネに突っ込まれるまでがお決まりのパターンなのだが、いつもと違う雰囲気で会ったとしても樋廻ヒバサミに笑われるというのもまた、お決まりのパターンなのだ。


――大丈夫、少なくとも充実はしてるよ。

 亡くなったあの人を想いながら、俺はそっと自分の絵を眺めた。

 立ち上る紫煙が、まるで線香のように見えて、少しだけ目を擦った。

「アイツがいたら笑われちまうな」

 俺は事故で亡くした婚約者の笑顔を思い出して、一人で苦笑した。こんな俺の絵を愛してくれた人の、一人だ。今はもう一人もいないだろうが、俺の画風が変わった理由の一つは、彼女がいなくなったという理由もある。『二の字』である必要が無くなってしまった日から、俺は堕落した。

 ただ筆を振るだけの、画家崩れならぬ、崩れた画家になったのだ。


 そんな事を考えていると、流石に二日連続で遅刻はまずいだろうとセットしておいたアラームが鳴る。思いの外思案に耽ってしまっていたようだ。

 正味、あんな夢を見てしまったなら納得も行く。どうせなら亡くなった彼女が出てきてくれたなら良かったのに。けれどきっと彼女が夢に出てきたとしても、言える言葉は何も無いんだろうななんて、そんな事を思いながら、俺はそっと線香立ち上る夜空の絵を描き終えた絵の一枚として部屋の隅に立てかけて、玄関に置く事を習慣としている兄貴から貰った大事な時計を、左手につけて家を出た。


 学校に行く途中で、何となく昨日の早鐘ハヤガネとの会話を思い出して、スーパーマーケットに寄って、予めリンゴジュースとお茶を二本ずつ、それとついでに携帯コンロと小さい鍋、それと魔法瓶というのも少し古いかもしれないが、小さめの水筒を手に取ってレジに通した。


――このクソ暑いのにか……?

 そんな考えが頭に浮かび、一瞬躊躇したが、生徒の為にしてやれる事がそう多くないのだから、ついでにこのくらい良いだろうと思い、リンゴジュースを温める用意だけしてから、学校へ、そうして屋上の扉を開いた。


 まだ昼休み前、二人は来ていないが、昨日描いていた二人の油絵の片一方はまだ完成しきっていない。

 彼ら程の筆の速さだと、学校様から貰っている強めの乾燥剤のおかげで、油絵ですら昼休みから、放課後にかけて一枚の絵が完成する事もままあるのだが、樋廻ヒバサミあたりはそこらへんが物凄く適当で、固まり切っていない絵の具の上にも平気で絵の具を落とすから溜まったものでは無い。

 彼については全てが感覚、ルールなんてものは無いのだろう。そもそも絵を勉強した事があるのかすら怪しい。必要な事だけ覚えて、後は全て我流、結果印象派に近い画風を生み出しているというだけで、彼の画風を型にはめるのは少々無理があるような気がした。


 一方、早鐘ハヤガネの方はキッチリとした写実主義が見て取れる。そのせいかどちらかといえばしっかりと油絵の具の様子を見る必要がある為に、待ち時間が長い。

 ではその待ち時間に何をしているかと言えば、次の絵を描き始めているものだから最初見た時には目を疑った。

 彼らは一枚の絵に固執しない。樋廻ヒバサミもまた、待ち時間が必要だと感じた時には平気でその時に描いている絵を放り出して次の絵をさっさと描き始める。

 絵に対する愛情が無いわけでは無いのだろう。ただ描くという事に愛情が向きすぎているのかもしれない。だからこそあの二人は常に描き続けている。

「水彩画にすりゃあいいのに。適当な癖、拘りが強いったら……」

 呟きながら、俺は慣れない手付きで携帯コンロに火をつける。

 鍋にリンゴジュースを入れて、煮立つ前に早めに水筒に移し替える、湯気の雰囲気的に、温かいくらいだろう、鍋に残ったジュースを飲みつつ、丁度良い温度だと確認している所で、屋上の扉が開いた。

「何やってるんですか?! このあっつい中で!」

「だよなあ?! 俺も何やってんだろうって思ってたよ!」

 今日は早鐘ハヤガネの方が到着が早かった、まだ授業終了のチャイムが鳴っていないあたり、早めに授業が終わって急いで登ってきたのだろう、相変わらず少し息が切れている。

 そんな時に見た光景が自分達の部活の顧問が携帯コンロに火をつけっぱなしの状態で鍋から何かを飲んでいる絵面であれば、そのツッコミが入るのも納得という所だ。

「まぁほら、温かいリンゴジュースって売ってないだろ」

 とりあえず水筒を渡してみる炎天下。ただ、二本買ったペットボトルのうちの一本は普通の状態で渡す。流石に好みよりも体調を考えるべきだったかと少し反省する。日傘かなんかを買ったほうがまだマシだったかもしれない。

「あぁ……っと……」

 早鐘ハヤガネもやはり少し困っている様子で、言葉を濁しながらピンクの水筒を受け取る。

「ありがとうございます?」

「疑問形でもまぁ……いいか。この炎天下に渡す俺もどうかと思ったよ、ほれ普通のも持っとけ」

 早鐘ハヤガネは少し意外そうな顔をしてから、珍しく朗らかな笑顔をしてペットボトルと水筒を見て笑った。

「ふふ、女の子に青って、なんか先生らしいですね。えっと……」

 彼女は財布を出そうとして、両手が塞がっている事に気付いて少しあたふたしていた。これも計算通り、いつも生徒から金を貰ってちゃしょうがない。そこは俺の矜持だ。金銭感覚を養うという意味で、毎回貰うべきだとも思うが、これは俺が勝手にしている事だから、金なんて貰う必要は無い。

 それに、わざわざ教えなくてもいいくらいに、この二人はその辺りしっかりしている。

「そーだよ。俺はてきとーなの。でもお前らは上手くやれよ。大人はこういうお節介しか出来ないからな。だから黙って奢られとけ」

 流石に水筒とペットボトルで両手が塞がっていては財布もすぐには出せまいと、俺はさっさと倉庫の中に日除けでも入っていなかったかと確認しに彼女に背を向ける。


「先生って私の好きな色、知っていましたー?」

「どうだっけなー。丁度目についたんだよ」

 倉庫の外から聞こえる彼女の言葉に、小さな嘘を吐く。

 本当は知っている。丁度この前聞いたばかりだ。だが会話に於ける集中力は明らかに絵を描いている状態の二人より俺の方が上だ。彼女は話した事を忘れているかもしれないが、俺は聞いた事を覚えている。

 だからとりあえず偶然という事にしておいた。喜んで欲しいのは当然だが、わざわざ青を選んだと言えば何処かプレゼントのようで、少し気恥ずかしかった。彼女を女性として意識しているわけでは勿論無いにしても、この年頃の子はそういう事に少し敏感……なような気がする。

「ほら、キンコン鳴るぞ。早めに準備しとけ。樋廻ヒバサミに遅いって笑われちまうぞ」

「ヒバとは画風が違うんだから仕方ないでしょう! 分かって言ってますよね?!」

 勿論分かって言っているが、意識を逸らすのも仕事の内。

 あくまで距離感は保ちながら、自分の事は誤魔化しながら、出来る事はきちんとやっていく。それが今の俺の立ち位置としてのモットーで良い。

「どうだろな、俺ぁてきとーだからなぁ」

「もう! 見直して損した! たまに先生って本当意地悪ですよね!」

 本気で怒っているわけではないけれど、このくらいの温度感が心地よい。


――それでいいのだ、そのくらいで丁度良い。

 とりあえず大人としての、俺なりの正解。

 画家としての、俺なりの不正解。


 それを教えてあげられたら良いと思っている。


 そうして、俺は人間として、正解なのか不正解なのかは、未だに俺ですら分かっていない。


 倉庫にはちゃんと画材や温度管理機能すらあるものの、流石に日除けは無さそうだったので、それをどうするか考えながら倉庫を出ると、丁度屋上の扉が開き、樋廻ヒバサミがいつもよりも気怠げにボサボサの髪でやってくる。さてはコイツ寝ていたな。

「おはよーセンセ、今日はあっちぃな……って、今日はハヤの方が先か!」

 未だに四限の終業チャイムも鳴っていないのにこの二人と来たら、急いで作品に取り掛かりたい気持ちも分かるし、この時間を楽しみにしているであろうことは嬉しいのだが、それでも少し

「二人ともチャイムが鳴る前に来るのがおかしいんだっての! そこらへんはある程度しっかりしとけ。お前らは空気を描けても読むのはまだまだだからな」

「むー、難しいもんだな。でもまー、特別扱いされてんのは分かってるよ。大丈夫だセンセ」

 意外とこういう時、樋廻ヒバサミの方が柔軟で話しやすい。早鐘ハヤガネも聞いていただろうが、もう既に描くモードに入り始めているのか返事は無かった。でもまぁ、聞こえていて邪険にする程の子じゃない事も知っている。少しずつ、少しずつでいいのだ。

「素直でよろしい。ほれ、持ってけ」

 俺は樋廻ヒバサミにお茶を入れた銀色の水筒と、お茶のペットボトルを渡す。

「お……? おー! 丁度良いな! 家から持ってこれるからセンセの財布が軽くならんで済む!」

 そういう考え方もあったかと、少し驚く。

 柔軟な発想、彼は彼なりの優しさで動いている。やはり良い子達なのだと思った。

「まぁーなー、貧乏画家も大変でな」

「さっきと言ってる事違いますよ!」

 流石に早鐘ハヤガネから突っ込みが入るが、俺は軽く笑って「てきとーだからなー」と返した。



 俺は組み立てた携帯コンロを丁寧に外して、倉庫の端に置いた。一応燃料タンクは鞄に入れる。火の気を持ち込むのは流石にまずい。とりあえず今日やるべき事は終わっただろうなと思って、二人の背中を見ながら、壁に背を付けて煙草に火をつけた。


 炎天下、二つの水筒が並ぶ。

 今日は早鐘ハヤガネもライターの音を聞かないフリをしてくれたようだ。少し心配しながら様子を伺う日々ではあったが、今日は怒られるどころか、彼女は眉一つ動かさずに、真っ直ぐに自分自身の作品と向き合っていた。そっと水筒を取って、その中身を飲んで笑っている横顔が見えた。


 結局は人間同士、大人と子供というだけの話で、理解していくのはお互い様なのだろう。

 関係性もまた、ゆっくりと上手い事作っていけば良いのだと改めて思いながら、少しだけ嬉しくなっている自分がいる事に気付いて、思わず吸い込んだ紫煙がフッと空へと勢い付けて消えていった。

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