第六話『紫煙立ち昇る空』
あの二人が帰ってから、ニ時間弱で簡単に描かれた俺の絵は、二人のそれと比べて見れるようなものではなかった。俺は左手の筆を置き、大きく伸びをする。
「……くぁあ、線がブレるねどうも。心が歪んだ証拠かねぇ……」
左腕を回し、肩をトントンと叩くと、心地良い痛みが走る。夕暮れの空に歪んだ紫煙が這っているボヤケた絵は、倉庫の中の俺専用の場所に見つからないように残した。
これも一つの例として、いつか誰かが見つけて、意味のある絵になりますように。
一人の美術教師の、一人の凡才画家の腕の、証として。
俺も例に習って、最後に画号を残す。といっても自分の名前を簡略化しただけの書くだけの簡単な作業。『
要は単純な二本線、界隈では『
俺の兄『
そんな事を考えていると、急に寒気が走る。
思えば寒いからって生徒を返したのに、彼らよりも免疫力が無くなっている俺が寒空の下ボウっとしている場合では無い。俺は羽織るのも忘れていた自分上着を拾い、屋上に忘れ物。特に紙や画材といった風で飛びやすい物が無いか、一応まだ夜ではないもののスマートフォンのライトで照らしつつ確認する。
「はぁ……ゴミはゴミ箱な」
独り言が虚しく響く、俺はあえてなのか偶然なのか分からない置きっぱなしのリンゴジュースとお茶のペットボトルが二つ仲良く並んでいるのを拾い上げる。だけれど嬉しい事にその中身は言った通りにちゃんと全部飲み切ってくれていた。
「というか此処にゴミ箱持ってくりゃいいのか。でもまぁゴミ捨ては結局俺になるんだろうが……」
単純な事を失念していた。思えばこの屋上は描く事にのみ特化していて、その他の施設が無い。流石に水場はあるが、まさかこの為に増設されたかどうかというのは、あまり考えたくはない。
もしかすると、そもそも方針として美術を伸ばしたいのかもしれないとも思った。
「ま、知ったことじゃあないか。しかし寒いなおい」
本当に夏かと思う程の冷夏。暑い日もまあまああるのだが、それにしてもこの温度は秋口と言っても良い、天気が機嫌を悪くしているのか、それとも俺達の機嫌を良くしてくれているのかは分からないが、とりあえず暑いのが苦手な俺にとってはありがたい。
それに、このくらいの温度感で食べるラーメンは美味い。まだ馴染みのラーメン屋はギリギリ空いている。
俺は右手につけた時計を確認しつつ、もう一度屋上のチェックをしながら屋上を出た。今日は鍵閉めをしなくても良さそうだ。まだ職員室に電気も付いているし、なんなら購買のおばちゃんも何かしらの仕事をしているようだった。
「あらセンセ、お疲れ様」
「どーも、お互い遅くまで大変ですね」
屋上から戻る最中も何人かの教師とすれ違ったが、お互い軽い会釈をするだけで言葉は無い。というか同僚、しかも教師同士で会釈って、どれだけ俺は気を使われているのだろうか。
「ほんと、でもまぁ子供達が元気にやってくれるって考えりゃね。わたしゃ天職って思い込む事にしてるのよ」
「それは……羨ましい話ですね」
少しだけ、心の奥に仕舞っていた願望のような物が顔を見せてしまい、ハッとして口を噤んだ。
流石に相手も大人、何かを察してくれたようで話は流してくれた、だが流石おばちゃん、三十歳半ばの俺よりも一回り半以上経験を積んでいると、上手い事絶妙に余計な話を付け足してくれる。、
「……まぁセンセも大変そーね。いい男なんだから奥さん探せばいいのよぅ」
「はは……この歳になると金が、ね……」
「今の子ったら現金よねぇ? アタシなんて貧乏亭主捕まえたから未だに購買のおばちゃんってのに」
俺には俺の人生があるように、おばちゃんにもおばちゃんの人生がある。当たり前の話だが、なんだか少しだけ、やはりこの人との会話は和む。きっと誰にでもそうなのだろうが、年の功と言うのは失礼だが、やはり会話に長けている。
彼女から見れば生徒も俺くらいの歳も同じ子供のような物だ。だからこそきっと、俺も上手い事載せられているのだろうと思いながら、苦笑して俺はその場を後にした。
「天職だからいいじゃないですか。僕から見ても、そう思いますよ」
「私を口説いても手遅れよ! それじゃあねえセンセ!」
その、冗談でも口説かれているなんて思ったフリで口に出す自信が、ちょっとだけ羨ましかった。
校舎から出ると、屋上よりかは少しだけ温かい、夏らしい風が頬を軽く撫でた。
しかしやや寒い事には変わりない。
「まだ間に合うか。どうせ品切れってこた無いだろ」
俺は自宅近くにある妙な中国人が経営している中華料理兼ラーメン屋の暖簾をくぐった。
「アイヤ、ダテ! お久ぶりネ゙」
今時分、アイヤなんて言うのも、また俺を名字で呼び捨てにするのも不思議な感じがするが、『アイヤー』が日本語で言う所の「わっ」とか「おっ」みたいな驚きの意味になると考えれば、抜けないという事もあるのだろう。だけれど日本語が饒舌なのにここらへんを頑なに変えないあたり、なんとなくキャラ付けをしている感じが否めない。
――けれどまぁ、そういう胡散臭いのは嫌いじゃない。
「なぁ大将、そのエセ中国人風のキャラ付けやめねえか? もう色々透けてるぞ」
「何を! ワタシ生粋の中国人アルよ。エセなんて蔑称アル! 激辛して欲しいか?」
辛いのは得意だから歓迎だが、この人の場合は加減を知らないので、とりあえず茶番は置いて、注文をする。
「辛いのはまぁいいけど、いつものね。ちなみに蔑称なんて日常じゃ日本人でもそうそう使わんからな」
「アイヤー……勉強なるネ゙」
――やっぱりキャラなんじゃねえか。
俺はいつもの野菜炒めと担々麺を待ちながら、意外と小綺麗にしている店内の、セルフサービスになっている水を一杯飲みきり、もう一度同じコップで水を組みに行く。
「コップ二つ使ってくれてもいいアルヨ、ダテは変に拘るネ゙」
同じ野菜を使う料理だからか、早めに出される野菜炒めと野菜たっぷりのタンメンを運びながら、大将は妙な顔をして俺のコップを見る。
「でも洗うの大変だろ。個人でやってるのに店綺麗だし、そこらへん大変だろ?」
「うう……そういう事言ってくれるのダテだけヨ。でも食洗機アルヨ」
心配して損した。しかも中々立派なヤツを用意していやがる、思った以上に繁盛しているらしい。
「まぁ……確かに美味いしな、頂きます」
「ハイヨー!」
この店は大将が元気なのが非常に良い所だが、逆に元気が無い時には来ない事に決めている。
極論疲れるからだ。今日はちょっと物思いが多すぎて失敗したかなと思いながらも、何とか上手く話せたみたいで良かった。
軽い寒空を歩いた後の、濃すぎないタンメンの野菜の甘みが身体に染みる。
野菜炒めはご飯抜き、流石に今食べすぎると眠くなって夜が駄目になる。
だがしかしご飯が欲しくなる野菜炒めにはしっかりと味が染みた豚肉も含まれている。昼時に来た事もよくあるが、実際定食もよく出ているよう。。野菜に野菜だが、その辺は多少気を使わないといけない歳になってきた。ビールは流石に飲むわけにはいかない。
野菜炒めが上手い中華料理屋は美味いという自分の理論的に考えると、いつかあの二人にもご馳走してやりたいなと思った。その時はビールも飲みたい
少なくとも、この大将を見ただけで何かしらの刺激を受けるだろう。
ずんぐりむっくりに白帽子、目は細い。
やはりキャラ付けか……と思いながら、店名の『早乙女飯店』という文字を見て改めて日本フリークか! と突っ込みたくもなった。お湯かぶったら男が女になるいつかの大人気漫画のパロディで名前つけてるじゃねえか。
「なぁ、大将はお湯かけたら何に変身するんだ?」
お会計を済ませた後、何気無く聞いてみると、彼はテンション高めで「虎アルネ!」と言った。
それが李白でなければいいのだけれど、と苦笑しながらも、彼の事を何も知らないまま、俺は自宅に戻り、左手につけた時計を外して、玄関に置いた。
「生徒の天才的な絵を見て、おばちゃんと話して、エセ中国人と話して、ラーメン食って、今日の俺には何が残ってっかねぇ」
画材は用意せずともそのまま、ある程度の整頓や整備はしているものの、寝に帰ってきているようなもので、描きに戻っているようなものだ。
絵は描けば描く程増えるから少々邪魔にはなってくるが、それでも大事な作品には変わりない、何とかかんとか、ボロ屋でも一軒家を借りて空き部屋を駆使しながら生活している。
つまり、だから金が無いわけだ。
食えない給料ではないし、養えないわけではないが、俺は夢の為に色んな物を捨てている。
愛で絵が描けるなら欲しいもんだが、悲しい事に俺は絵を愛してしまっているから堪らない。
「モチーフ、モチーフなぁ」
こういう時、若いあの二人はすぐに思いつくのだろうが、流石に三十歳も半ばになるほど描き続けていると、ぱっと浮かぶ物は大体描いてしまっている。
同じ物を描ける事なんてとは
俺だって、同じ物を描き続けた時期はある。だが、限界が見えてしまうからこそ、凡才なのだなぁとしみじみ思った。
きっと彼らには限界が見えないのだ。だからこそ描き続けられる。じゃなきゃ数ヶ月も同じ空を描くなんて事は出来ないだろう。
限界が見えるか、見えないか。そうして越えられるか越えられないか。
それが大きな壁になっているように思えた。
そうして少なくとも、俺には越えられないように思えていた。
――ただ、思いついた。
屋上で吸った、煙草の紫煙が昇る空。
それを窓越しに描いてみようと思い立った。
「これもまぁ……夜空か」
そう呟いて俺は、彼らには無い夜半を越えた、筆が走る時間にのめり込み始めていた。
出来上がった頃には空は白みはじめていて、俺の眼の前には、明るい窓の中に夜空が埋め込まれ、そこに一本のふわふわした煙草の煙が白く立ち上る夜空が描かれていた。
「暑い、ちゃんと起きられるな」
そんな事を呟きながら、俺はいつのまにか水分を取る事も忘れていた事を反省しつつ、水を飲んでから念入りに手を洗って、眠りについた。
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