第五話『屋上で花火を待つ夏』
夏真っ盛りというにも、まだ少し時間があって、本当に珍しく涼しい日というか、屋上で風を受けていると少し肌寒さすら感じる日だった。
少しずつ日が落ちてきて、二人も脱いでいた制服の上着を着始めている。
「今日は珍しく冷えるな、そろそろ上がるか?」
「やー、まだもうちょっと」
「ですね、私ももう少し、三十分くらい欲しいですかね」
時間としてはもう放課後を通り越して、下校時刻に差し迫った頃。いつもは下校時刻を過ぎて一時間、長くてニ時間くらいして、夜が近づいてきてやっと解散するのだが、流石に二人もこう温度が安定しない日には調子が出ないのだろう。いくら絵が上手いとはいえ、人間のバイオリズムは確かに存在する。イレギュラーに身体は弱い。まだ子供であれば当然な事だ。
特に、子供は風の子元気な子をやってきた二人では無いだろうから尚更。
もう二本、ゆっくりと煙草を吸ってから、殻になった紙煙草の箱をクシャリと丸めてポケットに入れて、俺は立ち上がる。しばらく座りながら考え事に耽っていたせいか。少し身体が痛い。
本当ならば俺もこの時間で絵を描いていたいものだが、流石にこれでも仕事の最中だ。空き時間ならばともかく、部活の顧問として自由時間にするわけにはいかない。
とはいえ煙草を吸いながらボウっとするのもどうかとは思うが。
「結局今日の空は、そんな色に見えたか」
俺も一応は特別美術部顧問だ、俺は
実際に見えた風景とは全く異なるような、それはまず描いた晴れ間の絵を元に描き始めたような、強い光沢のある青に雲を纏わせたような絵だった。
「いーや? 雲が書けなかったからリベンジした。ちゃんと描いたのは晴れを見た時の印象だけだなー」
そう言うあたり、やはり彼も自分が思う失敗を、次の絵で取り戻そうとしているだろう。もしかするとその『雲』に拘るあたり、悔しいという気持ちもあるのかもしれない。
「独特な青だな。結局拘ってんじゃねえか」
「見えたもんを描いただけだよ。あんな色だったろ? 違ったっけか」
その言葉に
だがそれ以上に目を引いたのは、リベンジだと言うだけあって、見るからに現実の空よりも多い雲、どんな雲かと言われると普通に空に浮かぶ雲ではあるのだが、明らかに力が入っているのが見て取れる。現実ではあり得ないような風景だった。晴れ間から覗く青空は『青空は青が一番良いだからつまらない』と言っていた通りに、塗り重ねの少ないシンプルな描写になっていたが、やはりそれでも彼独特の青色なのは間違い無い。
だが逆に雲の色彩が非常に細かく、青が一番良いと言うからにはしっかりとぼやけさせていない強い青色と対象的に多すぎる多彩で微妙な色味の違う大量の雲が浮かぶ絵となっていた。
「こいつを意識せんでやってるあたり、何も言える事はないわな」
「まー、今日のはこうかな」
「まぁそうでしょうね、そうじゃなきゃ怒るわよ……」
早鐘が口を挟む。その表情は何処か満足そうに思えた。
彼女の目から見ても、青を軽く言う割にしっかりした色を創られたのが悔しいのだろうけれど、それ以上に同じ画家としての作品の出来に目が負けたのだろう。
確実に凡才には描けない絵、描こうとしても描けない絵なのだ。
「この天才共め……でも合宿の場所は考えておいてくれな。夏休み入ってもやるからさ」
とりあえずジトリとした視線を躱す為にその目先に一応は楽しげなイベントをぶら下げてみる。
しかし、二人の瞳はそれに食いつかなかったようで、二人共が何となく少し考えた顔つきをした後に、まずは
「んー、此処でいいよ。部活動があるから校舎は空いてるだろ?」
「そーね、私も此処でいい」
――もっとなんか、学生らしい事したくないのか君らは。
「……その心は?」
また睨まれるんだろうなあと思いながらも二人に聞くと、
「まーだ俺等にはさ。早いんだよそういうの」
天才は、何処までも顕著だ。時に図々しくもあり、我儘であり、理不尽ではあるが、自分の作品について何処までも謙虚だった。空を描ききっていないから、いつまでも屋上にいていいのだと、彼も彼女もそう思っているのだろう。それも本心でそう思っている。
「まぁ……二人がそれでいいならまるっと合宿代は浮くわな。ならネコババしてやろうぜ。どうせ夏休みなんだ、朝から晩までやれるんだから、合作でもデカいのでもなんでもいい。お前らがやりたい事をやれ。金はまぁ、出る」
言うと
「……夏祭りくらいは行けよな。描くだけが全部じゃねえぞ。俺が言うのもおかしな話だけどよ」
「いいえ、全部ですよ」
――全部じゃないんだよ。でも、いつかそれは自分で気づかなきゃいけない。
「そーかなぁ、でもまぁ祭りあんだね。センセ、こっから花火見える?」
「あぁ……こっからも見えるよ。ベストスポットだわな」
ただ、そういう考え方もあるのかと、少し驚いた。
確かに屋上から見る花火というシチュエーションは、普段には無いもので、それならば彼女の言う『全部』の隙の中に経験が入り込んでくれる事だろう。
若い頃にしか吸い込めない物がある。あればあるほど苦しかったり、なければないで虚無感に襲われたりする、思い出という物だ。
そういう物で、人間というものは出来ていく。
この二人は確かにこの歳から考えるならば異常な程絵が上手い。
けれど、それだけが幸せな人生に繋がるわけじゃない。
俺はこの二人の顧問であり、先生であり、決してロクな人生は送っていなくとも、軽く一回り以上は歳を重ねた大人だ。
俺自身に、苦い思い出が多いからこそ、この二人には少しでも学生時代という物を、青春みたいな物を味わって欲しいというのは、単なる俺の我儘なのかもしれないが、それでもそんな事を密やかに祈っていた。
「じゃあまぁ、買い出しのリスト出しとけよ。良い画材屋は多少遠いし荷物になるからな。休みの日にでも車出して行って来るよ」
「それは行きてぇな」
「私も……それは行きたいです」
即答だった。
コイツらは絵の悪魔か何かに取り憑かれてでもいるのか。夏祭りよりも画材屋。まぁ構わなくはあるのだけれど、学生としてどうなんだろう。というかこの春から夏になるまでずっと二人きりの男女が隣同士で絵を描いているというのに、色気という物は存在しないのだろうか。
とはいえ三人目のこの
多少なんというかこう、芽生えるものは無いのだろうかと、教師が考えるのもなんだが心配になった。
「ま、というよりお前らはそれが無いからやっていけるのか」
「……? どういう事です?」
「んーや、こっちの話。おう偉いな
「まぁなー。センセが言うならそうなんだろうなって、というかめんどくせーけどいつか俺がやらなきゃいけねーしなー。時短の方法でも編み出さにゃなーって」
そう言って彼はポンポンと慣れた手付きで、やや荒っぽくも見えるがとりあえず及第点を渡せる程度に片付けを済ませていく。
「よく考えたら、自分の画材を触られるのって、あまり気持ちの良い事じゃないんですよね」
「分かってきたじゃないか。そういうもんだ、俺だって人の画材や作品を触るのは良い気持ちじゃあないさ」
そういう理由も存在するのだ。気持ちの良い事では無いというのは少し言い過ぎかもしれないが、俺もあえて同じようなニュアンスで言葉を返した。
他人のテリトリーを荒らすような気持ちになって、あまり良い気分では無い。
使いっ走りとして動く分にはいくらでも構わないが、気持ちの上でやってあげたくないという事も確かに存在するのだ。
だけれどそれは、ある程度誘導した上で二人が気付いて理解してくれなければあまり意味が無い。
『片付ける』という一つの行為から気付ける事だって、沢山あるのだ。その一つを今、
「俺はセンセになら任せられるけどなー、めっちゃ丁寧じゃんか」
「それはそうだけど……でもきっと駄目。自分の世界は、守らなきゃ。凄く大事にしてくれてるのは、分かるんだけどさ」
何となく褒められてしまったせいで、こちらも何ともむず痒く、彼女の顔を見ないようにしながら聞こえないフリをして俺は話を勧めた。
「そうだろうそうだろう? 伊達にこの歳まで貧乏画家やってねえからなぁ。でも慣れてくもんだよ。
「そーゆーもんかー」
「そうよ、現に私の方が早くて綺麗でしょ?」
――というか、出来るなら今までずっとやってくれ。
ただ、今日みたいな早帰りを選択する日も少なかったというのも理由なのかもしれない。
「じゃあほら、今日は解散解散。夏だからつって、油断するなよ。熱中症もそうだが、風邪も怠いからな」
「へいへーい」
「言われずともです。じゃあ先生、お疲れ様でした」
そう言って二人が出ていって、階段を降りていく音を確認する。
思えば二人の家は何処だっただろうか、帰り道が一緒であの態度だったらいよいよアイツらに青春は無さそうで本当に心配だが、それはまぁ、あの二人が決める事だ、教師の領分を越えている。
「俺もまぁ人だしな、青春が無かった分青春を見たくなるのも当然か」
呟きながら、俺は自分の画材を倉庫から取り出す。
時間も遅いが、彼らが普段帰る時間から考えるとまだニ時間程は余裕がある。
つまりはこの中途半端な寒ささえ我慢すれば、この屋上は俺の物だと言うことだ。
「まだ描ききっていない、か」
俺は煙草に日をつけ、空に紫煙を巻きながら、ゆっくりと空を見上げる。
「ま、これは俺にしか描けない空かもしれんな」
ゆっくりと、その煙が消えていく夕暮れを眺めながら、俺は左手で筆を取り、少しだけ雑に、煙が登りゆく夕暮れの色を、考えていた。
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