第四話『温かいリンゴジュース』

 校舎の一階にある購買まで降りると、放課後になって少し暇そうにしている購買部のおばさま。もといおばちゃんがこちらを見て小さく笑った。

 俺が購買の購入スペースに近づく前に、彼女はリンゴジュースと決まった銘柄のお茶が置かれる。

「今日も大変ねぇ、館センセ」

「ま、あの子らがやってる事に比べると軽いもんですよ……」

 この買い出しももう数ヶ月もやっているのだ。あまりにもいつもの事になりすぎて、購買のおばちゃんもまた、いわゆる『いつもの』で通るようになってきた。


 今日頼まれたのはリンゴジュースだけだったのだが、出されたものを突き返すのも何となく気が引けて、俺は早鐘ハヤガネの財布からリンゴジュース代を改めて取り出す。

「あら、可愛いお財布ねぇ」

 俺をからかうようにおばちゃんが笑い、嫌な印象を与えないよう俺もそれに苦笑で返す。

「画家ってのは良い趣味を持ってるもんですからね、はは……」

 高校は良い、どの飲み物も大体お値段据え置きだ。

 しかしまぁ安いにしても、二人の関係は平等にしてあげたい。

 そもそも、平等にしてやらないとアイツらは妙に拗ねる。早鐘ハヤガネは財布を返した後に中身を確認するのだ。樋廻ヒバサミ程では無いが、アイツらは奢られる事を極端に嫌う。

 財布を預けた相手から返してもらった後にすぐに財布の中身を確認するなんて、随分と失礼な行為に見えはするけれど、彼女は間違いなく俺が多く金を取っているなんてことは微塵も思わず、ちゃんと俺が金を取っているかどうかを確認しているのだろう。

 だけれど、理解が行き届いていない人にとっては心象が悪い。そういう事もゆくゆくは大人として教えてやらないといけないなと思いながら、俺は早鐘ハヤガネの財布と、自分の財布からそれぞれ百円を出して、お茶を貰った。

「言うだけあって良い趣味ね。ソレ、長い事使ってるの?」

 今度は俺の財布を見て、おばちゃんが目を丸くする。子供の頃に貰った、子供にはふさわしくない武器用な父からのプレゼントだった。

 流石にそこまで良いブランドでは無かったとは思うが、丁寧に使っていたのと、経年劣化しない革財布だったお陰か、多少絵の具のシミこそあれ、渋みは出ている。

「あーっと……そうですね。このシミなんか、あの子達よりも年上ですよ」

 購買のおばちゃんは学校の中でも珍しく俺に対してフランクに接してくれる大人の一人だ。

 大人の一人というか、人間の一人と言った方が正しいかもしれない。教師も生徒も、基本的にはなんだかよく分からない目で俺を見ているのは流石に察する事が出来た。

 だからこそ、色眼鏡無しで俺と会話をしてくれるこのおばちゃんは、ある意味俺が純粋な雑談が出来る数少ない人間なのかもしれない。俺ももっとフレンドリーに生きたいものだが、中々に難しい。

 財布の事だって些細な事だ。だけれど、少しだけ痛みが多かった二十代を忘れて、子供の頃を思い出す事が出来た。


 それ以外の、この学校の人間は、基本的に俺を煙たがっているというか、関わらないようにしている節がある。教師の間で、俺や特別美術部の話は確実に伝えられている話ではあるだろうし、その特異性については、生徒にも広まっていた。特に常勤の美術教師なんかには目が合うと睨まれたりもしている。

 そもそも、まあまあ偏差値の高いうちの高校に、三年生で転校してくるという事自体が目を引く事なのだ。一時期は屋上に見物客なんかも来ようとしていたから、二人の為に断った記憶がある。それも割と大量に。

「物持ちが良い男はモテるわよぉ? 金運はまぁとっかえっこね!」

 春に買う財布は縁起が良いなんて事も聞くけれど、あまりそういう事を気にした事はなかった。

 それでも、こういう会話を何となく楽しいと思える自分にホッと出来る。

 

 俺は、お茶とリンゴジュースを受け取って、購買を後にする。


 この購買での会話に何の意味があるかと言われると、深い意味も内容も特に無いのだが、お互いそれは大人だから割り切っている。世間話ってのはそういうもんだ。

 暇なおばちゃんとパシられ教師、そんな妙な関係性ではあるが、この人は俺と違って、あの性格できっと生徒にも慕われているのだろうな、なんて事を考えていた。


「うぃー、戻ったぞー」

 屋上のドアを開けると、涼しげな風が入り込んで来る。

 些細な息苦しさは、やはり錯覚だったのだろうと思いつつ、返事をせずに無言で絵を描いている二人の隣に飲み物を置く。

「あ、俺のもか。金払うよ」

「ん、頼まれてないけどおばちゃんが出してきたから買っちまった。飲み終わりそうだし、丁度いいだろ? お前は集中しすぎるとそこらへん忘れるからな」

 樋廻ヒバサミは単純に身体の線が細い。

 男らしい体付きなのは筆を振るっている腕だけで、絵を描く時のその荒々しい風貌は、まるで自分に色を塗っているかのようにも思える。ただそんな彼も、素直に「たすかる」と言ってポケットから俺に百円と、飲みかけのお茶を飲み切って、その殻を俺に渡した。暗黙の了解の捨てておいてという感じ、本当に可愛い馬鹿である。

「先生、今日はお財布からちゃんと取ってますよね?」


――金を取っておいて良かった。

 やはり確認していた。早鐘ハヤガネちゃんと目ざといのだ。たまにバレないように五十円玉をに枚入れたりして誤魔化すのが楽しかったりしたのだが、見逃されていたということか。

 というか奢られた事を見逃すというのも変な話で、ありがとうの一言が普通でもいいとは思うのだが、ありがとうと言われたくてやっているわけでもないので、さっきちゃんと金を抜いておいて良かったという気持ちの方が勝った。


「なんのことだか、いつも貰ってるよ。ただまぁ、このくらいは出してやってもいいんだけどな」

「いえ、そういうのはちゃんとしてた方が私の気が楽なので、私の我儘です」

 矜持とでも言うのだろうか、甘えてくれるのも可愛いもんではあるのだけれど、しっかりしているのは決して悪い事ではない。

「ただな、早鐘ハヤガネ、預けた財布を受け取ってすぐに中身を確認するのは、俺以外の前では辞めたほうがいいぞ、心象が悪い」

「あぁ……確かにそうですね。ありがとうございます。でも多分大丈夫ですよ、先生の前以外ではやりませんし」


――憎たらしくも、可愛い馬鹿である。


 流石に春から夏までとは言えど、毎日のように屋上で一緒の時間を過ごしていたら、二人の性格も何となく分かってくる。特に早鐘ハヤガネ樋廻ヒバサミに対抗心のようなものを燃やしているようにも見えた。

 そうして、昼休みに俺が買っておいた飲み物をすんなりと受け取ったあたり、それはそれで俺が昼休みに遅刻をした詫びだってことも理解した上で貰っていたりするのだろうなと、この子の聡い部分を想った。

「財布よこしな、鞄入れとく」

「あ、助かります」

 女子生徒のスクールバッグを開けるというのもなんだか気が引けたが、普通の子ではないという事くらい分かっている。俺は彼女のバッグを開けて財布をそっとしまい、買ってきたリンゴジュースを彼女の椅子の側、左側に置いた。

 彼女はそれを、すっと陽の当たる所に移動させる。無意識の癖なのか、自分のスペースみたいな物が存在するのか分からないが、彼女はいつも細かく飲み物の位置を微調整していた。

「なぁ、温くならないか?」

「温くしてるんですよ? 私、温かいのが好きなので」

 成る程、と思った。


 趣味嗜好はそれぞれだが、暖かいアップルティーなんて物もあるわけで、だったら温めたリンゴジュースを好む人がいてもおかしくは無いだろう。

 俺が昔、共に画家を目指していた仲間の中にも、そういう事をするヤツがいた。もっとも、彼はもう既に絵を描く事をやめて、音沙汰も無くなってしまったけれど。

 

 本来は冷やして飲むアップルジュースだから風味がどうなるのかは分からないが、少なくとも彼女の飲み物の位置の微調整は意味のある行為だったという事だ。

 ただ、ある程度は無意識にやっているのは確かなのだろう。絵を描きながらも、時折膝の上にパレットを置き、左手で陽の当たる位置にフラリとジュースを移動させていた。

 けれど目は真っ直ぐにキャンバスを見つめたまま、おそらくは手で感じる温度感で判断しているのだろうと思った。


――それにしても、何でコイツらはいつも隣同士なんだ。


 屋上はそれなりの広さがある。しっかりと防護柵と、その先に更に落下防止用のスペースが設置されてはいるものの、場所を変えれば見える景色もハッキリと変わる。

 山も見えるし、ビル群も見える、グラウンドも見えるし、川だって見える。ロケーションとしては決して悪くないのだ。

 だけれど二人は春からずっと同じ距離感を保ったまま、隣同士で絵を描いている。そこに男女特有の気まずさのような物は全く見えず、それを後ろから見る俺の方がほんの少しだけ気まずいような、不思議な感じをずっと抱いていた。

 ただ、それに言及すると二人の関係性に何かしら影響を与えてしまいそうで、何も言わずに見守っているのだが、流石にいい加減ジャブも入れなきゃいけない。

「なぁお前ら、いっつも同じ場所だと飽きないか? 場所を変えれば風景はいくらでも……」

「分かってないなーセンセは、俺等はこの風景をまだ描ききってない」

「全くです。同じ場所でも、私達は同じ景色を描いた事なんて一回も無いですよ?」

 珍しく完全一致の意見と、振り向いてこちらを見た少し強めの二人の視線に、少しだけ圧倒されてしまった。曰く二人は、ずっと同じ場所で、同じ空を見ながら、違う絵を描いているという事だ。

 全くこいつらには敵わない。毎日何を描こうと思っている俺の浅はかさが透けて見えるような気もした。それと同時に、このままで二人は良いのだろうかとも教師として考えてしまう発言だった。

 

――固執は、時に毒になる。

 確かに出来上がる絵に移っているのは違う空かもしれない。だけれどこの二人が本当に描きたい物を見つけなければ、彼らを正しく画家と呼べるのだろうかと考えてしまった。

 好きで書いている、きっと好きで空を書いているのだろう。だけれど、その画風の違いや、考え方の違いは、必ず道を違えていく物だ。同じ空を眼の前にして描いていたって、二人は全く違う絵を描くのだから。


 だからいつか、彼らは屋上から降りなければいけない。

 もしくは羽ばたくと言う方が正しいのだろうか。確かに此処は開放的で、二人が今までいたどんな環境よりも健康に絵が描ける環境だろう。

 それでも、それを理由に屋上に留まり続けるのは、いくら自分達が描く空に納得しきっていないにしても、良くない事だ。

 屋上から見る空も、地に足をつけて見る空も、窓から見る空も、全て違うという事を、二人は知らなければいけない。知っていたとしても、それもまた経験していかなければいけない。

 彼らの絵を全て見てきたわけではない。だが少なくともこの学校に転入してきてから、二人の今まで描いてきた作品を洗いざらい見たが、そういった作品を目にする事は無かった。

 そもそも、空を目にする事すら無かったのだ。

「分かってない、か。まぁ……そうかもな」

「そーだよ。しばらくは」

「それに、此処は温かいしね」

 いつのまにかキャンバスの方に身体を戻して、既に二人は筆を動かし始めていた。

「学生味が無いねぇしかし、お前ら子供かよ本当に」

「そりゃ子供さー」

「えぇー……子供扱いはちょっと……」

 そういう所はしっかりと反応が違うあたり、やっぱりそこそこ子供らしくて可愛げがある。

「じゃあまぁ、俺は大人の特権を振りかざしてコイツを吸いながら待ってるよ」

 俺は流石にそろそろ集中させてやりたいと思い、屋上のドアの横に座って、ボウっと空を見ながら煙草を吸う。

 安いライターの着火音に早鐘が一瞬ピクリと身体を動かしたのが見えたが、お叱りの言葉は今日は貰わずに済んだようだ。


「こういう、煙が立ち昇る空だって、あるんだがなぁ……」

 俺は二人に聞こえないように小さく呟いて、俺は二人がちゃんと水分補給をしているかだけ確認しながら、日陰、紫煙立ち上る空の下、少し涼しげな風に身を任せていた。

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