第三話『青空の創り方』
放課後まで後二十分、アラームによって俺は空の世界から現実へと引き戻される。目覚ましのアラームには気づけなくても、このアラームを聞き逃した事はない。
集中していないというわけでは決して無いのだが、この姿をあの二人に見せるのは流石に気まずいという理由がきっと大きいのだろう。強く意識しているわけでは無いが、手慣れた片付けを思えば十分程度でも余裕があるくらいなのに、二十分前に設定しているあたり、やはり意識はしているのだろうなと何とも言えない気持ちになる。
「少し、晴れたか」
夏の昼間は曇り空、雨は振らず、そうして夕暮れが近づくにつれて見せる晴れ間。
本当に今日は過ごしやすい日になりそうだった。夏休み――夏本番まであともう少し。今年から設立されたばかりの特別美術部ではあるものの、合宿の許可も既に降りていた。後は何処に行くか、というより何を描きたいかの言い合いに上手い落とし所を作ってあげるという仕事が残っている。
「何せライバルだしなぁ。張り合うんだろうなぁ……」
はたして川か山か海か、今日あたり聞かなきゃいけない事に少しだけげんなりしながら、俺は自分の画材を片付けて、倉庫の奥に目立たないように仕舞う。
そこから出たと同時に、屋上の扉が開かれた。
「おー、センセ。お疲れ~」
まだ授業終了の鐘は鳴っていないはずだが、こういう事があるから二十分前のアラームが必要なのだ。
それを知った上で、気まずそうな顔をするということは、つまりそういうことなのだ。
「お疲れ様……です。な」
「そんくらい分かっちゃいるよ。他の大人にはしゃーなく言うけど、センセには良いだろ?」
「俺にはいいか? 俺も一応ちゃんとした良いオッサンだぞ。まぁ他の先生達よりは若いかもしれんが」
「いーんだよ。センセはセンセ。これでもハヤよりは敬ってるつもりだぜ?」
彼は
忘れもしない春の日の事だ。櫻の花が踊る二枚の絵が未だに脳裏に舞っている。
高校三年生になっての急な転校、それも受け入れるのは画壇を騒がせている高校生画家二人。
非常勤として名ばかりの碌でもない美術教師が、急に面倒事を押し付けられた日の事だ。どうやら私立高なのに目をつけられたようで、そこそこの金が動いた結果、我が高校で受け入れる事になったらしい。その辺の事情を聞かせてもらえる程の立場にはいないから良くは知らないが。
思えばその日も屋上に行けばもう二人が無言で絵を描いていたんだった。
聞けば、登校初日に昼から授業をサボって、自己紹介すらせずに描いていたというから驚いた。
それから約数ヶ月、やっと二人は授業をサボらなくなってくれたが、破天荒さはあまり変わらない。 というよりも、そもそも最初の頃は
流石に俺もお叱りを受けていたので、説得をし続ける事十日程、先に言う事を聞いてくれたのは意外にも
「ホームルームくらいはまぁ……許されるか」
「許されるもんですか! ズルいわよヒバ!」
終業のベルが鳴り、数分もしない内に
彼女も彼女で、
「ほれ、軽くやっといたわ」
愛称で呼び合うのもフレンドリーには聞こえるが、実際の所二人は明確なライバル関係だ。
だからこそ俺はホームルームをサボって先に準備を始めた
「ハヤはいつもずりーなー」
「良いのよ、その為の顧問でしょ?」
「その為の顧問だけど、ありがとうございますくらいは言えないもんかお嬢さん」
「惜しいですね、その"お嬢さん"が無ければ言ってましたよ」
どうせ言わないだろうに、一見綺麗なじゃじゃ馬娘は少し笑いながら作業を始める。その内にその目は真剣な物に変わっていった。
生意気な二人ではあるが、心を許してくれているという感覚はある。
最初は中々とっつきにくい印象を覚えたが、軽口を言っている内に、その面倒臭さに呆れたのか雑に扱ってくれるようになった。俺の軽口と、彼女の雑で多少辛辣な態度。そうしてそれを許す俺が居て、初めて彼女とのコミュニケーションは成立している。
「もう雲は描かなくて良さそうか?」
「そーだなー。晴れちゃったかー、リベンジしたかったけどなぁ」
「青空の方が良いじゃない。私、青って好きよ」
話しながらも、二人の筆は止まらず、視線も真っ直ぐに空とキャンバスを行き来していた。
この雰囲気で合宿の話をするのは憚られたが、少なくとも
「青空はなぁ……青が一番良いからつまんねぇんだよなぁ……」
おそらくは色彩の話。彼の感性からすれば、青空の色味は青一色で良いと言いたいのだろう。ポツリと呟く彼の発言に、
「…………スカイブルー、ゼニス、アザー、セレスト……!」
そりゃそうなるだろうなぁと思いながら、俺は
青だなんて言っておきながら、何色もの色を重ねて一つの複雑な青を表現する
彼女からすれば、その一つというのが気に入らないのだ。
――きっと、それと同時に、それが綺麗だと思ってしまう。
「はいはい、お前らはそもそも画風が違うんだから。
「でもよー」
「こんぺき!! あまいろ!!!!」
「でもじゃないんだっつの! お前は隣にも画家がいることを意識せい!」
それだけ言って、やっと
どうしてか二人はこの屋上に固執して、他の物を描こうとはしなかったのだ。だが、場所が変われば二人の空以外の作品も見る事が出来る。
「ん、センセ。お茶ー……はあったか」
「昼に貰ったじゃない」
「んー? でもお前のはもう無いじゃんか。ポキチョコもまた溶かしてるし」
「育ち盛りよ、悪い? 集中させてよ、もう」
彼女は少しだけ俺と似た所がある、絵を描いている時の儀式めいた事が好きなのか、何となく口寂しいのか分からないが、俺が絵を描く時に火の付けていない煙草を咥えているように、棒チョコのチョコがついていない部分をそっと咥えていた。
だが流石に夏になるにつれてチョコもしんなりと溶けていくのが分かって、少しハラハラさせられるのは事実だった。
「夏なんだから気をつけろよ。上着も脱いでるんだから、シャツに付いたら……まぁ絵の具よりはマシか」
注意しかけて気づいた俺に、彼女は少しだけ振り向いて少し呆れた顔をしてから、小さく鼻で笑った。彼女が絵を描いている最中にこちらを向くのも珍しい。
「そうですよ、何言ってんですかほんと。チョコが垂れたくらい。どうせシャツは汚れたら捨てちゃいますし」
「染めて売りゃいいじゃんか。画材も買えるし」
「嫌よ面倒、そんな時間あったら……でしょ?」
「それもそーだなー」
実際、汚れたワイシャツも染めて売りに出せばある程度の収入になるだろうに、画材を自費で買う自分としては正直有りな選択ではあったが、二人はそこらへんを気にする必要がないあたり、大人気ないが少し羨ましい。
「というわけでセンセ、お願いしますね」
彼女が椅子の隣に置いたスクールバックから何かをゴソゴソと取り出して、フワッとこちらに何かを投げてきた。
「あぁ……はいはい……」
投げつけるというよりは柔らかく、バレーボールをトスするかのように投げられたそれは彼女の財布だった。もう空を飛んでいるそれを見ただけで分かる程度には見慣れた財布。
彼女がこちらを向くのも珍しいと思っていたが、そりゃこっちを向かなきゃ財布は投げられない。
「リンゴジュースな、購買のでいいんだろ?」
「贅沢は言いませんよ、よろしくです」
とにかくまぁ、そんな時間があったら描くのがこの子達だ。だからまぁ、仕方なくパシリも受けよう。というか昼に渡した遅刻の謝罪代わりのジュースはもう飲んでしまったらしい。
夏だから仕方もないだろう。逆に
「じゃあ行ってくる。
「へーい」
なんと無しの空返事、でも彼は素直にお茶を手に取り口に含んでいた。俺の声こそ聞こえているが、もう彼の対話相手はキャンバスになっているようだ。
――こうして、青が創られていく。
俺は可愛げがありつつもシンプルな青い財布を持って、屋上の扉を閉める。
流石に教師と生徒言えども、パシられてはいれども、金くらいは渡すあたり、彼女にとりあえず残っている倫理観と真面目さが伺える。だが、俺は小さく息を吐いた。
「やっぱ、空気が違うな」
決して不満があったわけではない。ただ、少しホッとしたのだ。パシられる事は慣れたが、やはり二人が絵を描いている時間は、妙に空気が張り詰めている。
息が詰まるという程では無いが、たったの三階建ての屋上ではなく、何処ぞの山の何合目かにいるような感覚を覚える。空気が薄いというか、生命を吸い取られるというのは言い過ぎかもしれないが。
躍動する筆が、息をしているのかもしれない。
そんな事を思いながら、俺は財布をポケットに仕舞い、自分の財布からリンゴジュースの代金を取り出して、軽く手で持て遊びながら、ゆっくりと購買に向かった。
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