第二話『同じ空、違う色』
結局、努力ってもんは見えない所でこそ行われるんだろうって思うんだ。
眠たさに目を擦りながら、眠いという事はつまり集中が切れているという事に気がついて、俺は眼鏡を外す。途端にぼやけるキャンバスの絵を見て、その方が綺麗かもなと皮肉めいた事を考えていた。
午前六時、ブギウギな気分も冷める頃合い。火をつけない煙草のフィルターは湿り気を帯びていて、一本分の煙草を無駄にするのが俺のルーティンだった。もっと言えば一枚分の紙を無駄にするのも、ルーティンかもしれない。
アイツらは授業中ずっと突っ伏して寝ているらしいが、大人の俺はそうもいかない。無理にでも眠って、一応はシャキっとしておかないと面目が立たない。そもそも今の段階で、
きっと、今もあの二人の筆は動いているのだろう。だけれど俺の夢の時間は此処で終わり、一旦本当の夢に潜らなきゃやっていけないのが大人だ。
幸い非常勤扱いだから出勤も雑で良い。というよりも、一介の美術教師として雇われているといえば嘘になる。汚い大人の事情が絡むが、要は俺自身は昼休みくらいまでに学校に付いていればいいのだ。
要するに、俺はあの二人を導くという体の元、とりあえず大人が一人見ているという理由付けの為に雇われているような物なのだから。
「楽な仕事って言っちまえば楽な仕事なんだけどねぇ……」
咥えていた煙草をゴミ箱では無く水場の三角コーナーの中に捨てて、俺は煎餅布団に潜り込む。
夏場のこの時間は丁度良い。クーラーも無い俺の部屋だと、どうしたって昼頃には暑さで目が覚めてしまうが、入眠には丁度良い温度。上手い下手はともかく、毎度の如く集中は出来ていたようで、すぐに瞼が重くなる。こんな暮らしがいつまで続くかなんて事を考えなくていいから、やっぱり俺は絵を描くのが嫌いではない。そんな、よく分からない事を眠りの淵で考えていた気がした。
「遅刻ですか先生。良いゴミ、ご身分ですね」
翌日、というか眠ったのが当日だからその日の高校の昼休み、終了十分前。
「ゴミって言ったか? お前今ゴミって言ったな? これでも教師なんだぞ……確かに遅刻はしたが」
その日は随分と涼しい日だった。心地の良い睡眠の中で、絵を描く悪夢で目が覚めたら、出勤時間ギリギリ、急いで学校に駆けつけて、他の教師には見てみぬふりをされながら辿り着いた屋上で、まずは罵声を浴びせられる。
「じゃあやっぱりダメじゃないですか。クズじゃないだけマシってもんです」
「ゴミも言い過ぎだろ。なあ? センセ。でも来てくんないのは寂しいな」
よく分からない事を言いながら、
――何とか、完成のタイミングには間に合ったみたいだ。
「今日は、コイツだな」
今日は水彩絵の具で描かれた曇り空の絵の隅に、赤い色で大きなバツ印がつけられていた。
流石に1時間弱あるにしても、時間の少ない昼休みは毎回水彩絵の具で描くのが決まり事のようになっている。だけれど
「は? これでダメって、嫌味なの?」
思わず
というか理解が追いつかない。屋上から見る景色はいつも同じだと言うのに、コイツの描く絵は毎度毎度違う風景のようにすら思える。同じ風景なのに、新しい絵を見る度にその印象が変わる。今日はグラウンドで運動をしている生徒が多かったのだろう。細々としたいくつもの線の集まりは、明らかに人だと分かる躍動感を持っていた。きっと、この瞬間だからこそ書けた絵なのだ。
視点も妙にズレていた。流石に屋上のフェンスギリギリで作業させるのは危ない。だからある程度距離を取った二人の位置からは基本的に遠景と空しか見えないはずだ。だけれど
だが彼にとっては失敗作という判断らしい。逆に、
「嫌味じゃねえよ。いくら時間が少ないからって今日は雑すぎだ。雲を描くのを忘れてる。だから頼むぜセンセ、見ててくんねえと」
そう言われて、申し訳無い気持ちと同時に少しだけホッとする。きっと、ぼうっと『今日は珍しく曇っているな』くらいの言葉は言っていたかもしれない。基本的に絵を描いている時に会話の無い二人にとっては、俺のなんとなしの言葉は反応が無いにしても意味があるようだった。
今日は曇り空、灰と青で塗りたくられた空の色は、言葉に出来るとしたら何色なのだろうか。
「なぁ
「知らね。灰と青じゃねえかなぁ」
「言うならまぁ、み空色でしょうね。感覚でその色を出すなんて馬鹿よ。ほんと、やってられない」
その目は、愛し憎しというべきか。その色に目を囚われているのはハッキリとわかった。
「でもまぁ、私は雲、ちゃんと描いているけれどね」
一方、早鐘の絵は誠実さに満ちあふれている。灰色の空の中に埋もれている細かい雲の形がハッキリと見える。その色味の変化、この『曇り空』という一つの風景を描く為に、どれだけの灰色を基準にした色を作ったのかは、パレットを見ればよく分かる。
写真のような、だけれど写真では味わえないような美しさ。純粋に絵としての美しさが表現されているように思える。彼女はその絵の端っこに、細い筆を使って赤い水彩絵の具で『kanashi』と書いた。
kanashiは彼女の画号だ。一丁前にその名前で画展に入選までしている。新鋭画家kanashiは良く分からない存在として、画壇を騒がせたりしていた。その正体はこんな高飛車な少女だったわけだが。
「あぁ、ちゃんとした雲だ。羨ましいもんだよ。画号以外は」
「何が羨ましいわけ? ただの写実画よこんなの。それに馬鹿正直に
彼女は家庭環境があまり良くないらしく、自分の名前や風貌について嫌悪感を抱いている節があった。自己肯定感が低いというのだろうか。だからこそいつもその裏返しに気を強く保っているのかもしれない。
利愛というのも、悪い名前では無いと思うのだが、やはり彼女はそれを嫌い『Kanashi』という、悲しいとも読めるような、『愛』の珍しい読み方を画号にしていた。
「まぁ、それもお前らしいか」
「私らしい、ね。まぁそうかもね」
二人の関係はあまり良好とは言えない、だが険悪とも言えない微妙なバランスを保っていた。
お互いの事を好いている様には見えないが、少なくともお互いを画家として意識しあっていて、お互いの絵を良い物として捉えている。要は互いが互いの絵に恋をしているというような雰囲気を醸し出していた。
作風も、性格も、見た目すらも両極端な二人。
正味、染髪が禁止されているこの学校で金髪の男なんて、目立って仕方ないだろうに、逆に彼はそれを楽しむかのように闊歩して歩いているようだ。友達がいるのか少し心配になる。
そんな二人が似通っているのは背格好くらいだろうか。まだ成長期ではあるだろうけれど、
「どしたーセンセ。ぼーっと見て」
思わず絵ではなく二人を観察してたのを
「いや……あぁ、お前ららしいよ。あと片付けまでが絵を描くって事だからな。ちゃんとせえよ」
面目が立たないまま言うべきではなかったと一瞬思ったが、
「めんどっちいけど、まぁ言い得ちゃいるかぁ……。センセは賢いなぁ」
だが彼の場合は、それが親愛の印なのだということに少しずつ気付いてきた。要は口下手なのだ。仮にも一回り以上歳の差がある子供に『賢い』と言われるのは何とも癪に思えるかもしれないが、彼の場合は本当に俺の事を賢いと思ってそれを言っている。つまり他意という物が無いのだろう。
面倒だけれど、確かに画材は片付けなきゃいけないよな。それを教えてくれる『センセは賢い』
彼の言葉を噛み砕いて言うと、おそらくこうなる。
だからこそ、この子達を見ているのは面白い。遅刻した自分が言える義理では無いが。
「賢いだろー? だったら敬えなぁ。その口が通るのは俺だけだと思っとけよお前ら」
笑いながら二人をそっと諭す。
二人の画材が片付けられる。それと同時に俺はポケットから煙草を出して、口に咥えた。
「あー、また怒られんぜセンセ」
「んっとに、遅刻するわ授業はしないわ。屋上でお煙草とは本当に良いゴミですね」
各々の反応に、苦笑しながら俺は屋上から出ていく二人に手を振る。
「んあ、そうだ」
俺は落ちかけた煙草を上手くキャッチして、二人に買っておいたジュースを渡す。
「んじゃ、また放課後な」
お茶を
「……どうも」
「たすかる!」
なんだかんだ、やっぱり可愛い教え子達なのだ。
「いーよ、後で買いに行くのも面倒だしな」
――だけど
とはいえまぁ、複雑な年頃なのだろう。普段は大人しい子だと聞いているし、頭ごなしに否定するのも違うんだろうなと思って、俺は一人になった屋上で空を見上げた。
そうして、二人が特設倉庫にしまった絵を改めて眺めながら、俺の画材を手に取る。
「さて、と。……み空色ね。俺に見える空の色は、何色かね」
放課後まではまだニ時間程時間がある。その間にやる事は、決まっていた。きっと
「ほんと、良い教え子達だわな」
天才と秀才の時間が終わり、凡才の時間が流れ始める。
涼しい風が頬を軽く叩いて、俺は咥え直した煙草のフィルターをギュッと噛みしめる。
火はつけずにそのまま、俺は画材を用意して、空をしばらく眺めたあと、パレットに水彩絵の具絵の具を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます