内見譚 ―壁の中の女の子

千田美咲

第1話

 ぼくはある女の子を探していた。

 その女の子から最後のメッセージが送られてきたのは一年前のことだ。いわく、これからあるマンションの一室の壁に引きこもることにします。どうか探さないでください、とのこと。

 ぼくはそれまで彼女のメッセージはほとんど適当な相槌を打つか、既読をつけるだけだったのだが、今回ばかりは、壁に引きこもる、という非現実的な言葉が頭から離れなくなった。ろくに顔を見たことがない彼女の言葉にハートを射貫かれてしまったというわけ。

 それからぼくは複数の不動産会社を利用しながら、休日に女の子が住んでいた地区内のマンションやアパートの部屋を見てまわった。ほとんど趣味のようなものだ。

 目的自体は人探しではあるものの、いちおう不動産会社には引っ越しの内見ということにしてあった。もっとも、女の子を見つけたら、そのままその物件に一緒に住んでしまうつもりだった。

 もう五十件以上は見ていた。不動産会社の人間には、とても慎重で面倒くさい人間に見えているのだろう。

 問題の部屋はその日の二件目だった。ぼくは残業でくたびれた両脚をなんとか動かして、三階建てのマンションの階段をのぼった。不動産会社の社員である上村は、スリッパを入れた手提げカバンをゆらしながら、舌足らずの口を動かした。

「エレベーターがないのは不便かもしれませんね」

「たしかに。それにしてもここはアパートというわけではないんですか」

「そうなんです。いちおうマンションということになっています。壁はブロックなので、木製のものよりはずっと防音性はあるかと」

 スーツを着こなした上村は、ぼくを案内するのが二十件を越えていたということもあり、つくり笑顔をしなくなっていた。

「あと、まえにも説明したとおり、おおきなロフトがあるんですよね」

「ロフトはどれくらい高いんですか」

「カプセルホテルくらいの高さですね。見ていただけばわかると思います」

「なるほど」

 そう言っている間に部屋のまえにたどり着いた。建てられてからもう三五年は経っているマンションのはずなのに、ドアのそばのインターホンには綺麗なレンズのカメラがついていた。上村がカギをまわすと、金属のきしみとともに、ドアがひらかれた。

 ぼくは上村が用意したスリッパに履きかえて部屋に上がった。

 クッション系のフローリングと壁紙は、内見前に貼りかえていることもあり、これ以上になくきれいだった。かりに住むにしても、床を傷つけないようにマットを購入するなどして細心の注意を払わなければならない。ぼく自身、四年前の引っ越しでかなり痛い目を見たことがある。

 玄関ちかくのキッチンには、備えつけのちいさな冷蔵庫が置かれていた。その電源コードがどこにつづいているかを確かめようと隙間を覗いてみたら、暗がりのなかに古き良きブロック造の壁面が見えた。

「ここがロフトです」

 上村が指差した先にロフトへとつながる梯子があった。ロフトはそれなりにひろいようで、見上げただけでは奥の方がどうなっているかはわからなかった。

「木製ですか」

「梯子はまあ、そうですね。でも、いきなり折れるとか、そういう心配はないかと」

 ぼくは上村の言うことを聞きながし、さっそく梯子に足をかけた。のぼるたびに梯子がきしんだ。梯子のあいだから下のようすが見えた。上村は下からのぼっていくぼくを呆けたような表情で見ていた。

「大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ」

 ロフトのカプセルホテルサイズの部屋に上村の声が反響し妙な感じになっていた。かなり聞こえにくい。

 ロフトはさすがにひろく、コンセントまであったが、いまはなにも取りつけられておらず、かなり薄暗かった。ここのフローリングは貼りかえがされていなかった。

 ぼくはロフトの奥を見るまえに、はしから下方をのぞいた。あいかわらず下から見上げている上村の姿がそこにあった。

「上がらないんですか」

「二人上がると降りるとき大変なのでいいんですよ。見るだけ見たらもどってきてください」

 それを聞いたぼくはそのままロフトの奥をのぞいた。

 彼女がいた。

 彼女は黒いシミとなって白壁に引きこもっていた。水墨画のような侘び寂びのある美人だった。ぼくは下にいる上村に言った。

「すいません。ここには昔おおきなシミかなんかはありましたか」

「いえ、まえもそんなのはないはずですし、クリーニングがはいっているからいまもあるはずがありません」

「そうですか。それじゃあ、まえはどんな人が住んでいたかわかりませんかね」

「それはわたくしの言えるようなことではありませんよ」

 あくまで上村は事務的だった。口をつぐんだぼくは彼女の口元にそっと耳をあててみた。すると水滴の落ちるような音とともに、ささやき声が聞こえてきた。

「どうして来たの」

 聞きおぼえのある声だった。大学生のときにうしろからよく聞こえてきた女の子の声だった。ぼくも上村に聞きとれないような声でささやいた。

「きみがメッセージを送ってきたから」

「来なくてもよかったのに」

「それならどうしてメッセージを送ったんだい」

「わからない」

 いまにも泣きだしそうな声だった。

「とはいっても、ぼく自身どうしてここまでしたかは、じつのところわからないんだよなあ」

 ぼくは頭を掻いた。

「ところで、壁のなかはどんな感じなの」

「わるくないよ。なんも食べなくていいし」

「あとどれぐらいそこにいたい」

 沈黙がながれた。

「わからない」

「それなら出てきたらメッセージをまた送ってよ。引っ越してくるからさ」

「わかった」

 彼女の返答がかえってきてすぐに上村の顔がロフトにのぞいた。ぼくは驚いて言った。

「どうかしましたか」

「いえ、なんか女性の声が聞こえませんでしたか。田中さんも話しているふうだったし」

「そんな、電話もしていませんでしたよ」

「そうでしたか」

「それにしてもきれいな壁ですね」

「まあ、ふつうの壁ではありますけど、まあ、クリーニングがはいったからそうかもしれないですね」

 上村には彼女の姿は見えていないのだった。

 それからぼくはそのあと予定していた内見をキャンセルして帰途についた。

 彼女のメッセージが来たのはそれから二年たってからのことだった。

 ぼくはまだゆるされていないらしい。

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