蝉は飛ばずにどこへ行く2

 「任海一年生」

 声をかけられ任海煤花とうみ すずかは目を開ける。少し滲んだ視界が空間に慣れるように焦点が合わさっていき薄茶色の天井がはっきりと見えてきた。

 「どうしました?」

 煤花は顔だけを動かす。少し離れた場所に千田軽せんだ かるが立っていた。

 「帰る」

 千田の言葉に煤花は上半身を起こす。長机の脚がぶるぶると震えるように揺れた。

 「もうそんな時間になったんですね」

 千田は何も言わず本棚の間へと消えていく。いつもの事なので煤花も長机から降りると頭上に置いていた黒いリュックを背負い本棚の間を抜けると廊下へと出た。

 「冷房は切ったんですか?」

 扉を閉める為に待っていた千田に声をかけると「あぁ」そう言って小さくうなずき千田は扉を閉め鍵をかける。ガチャリという音と扉が小さく軋むように動き静かな時間が数秒。千田が扉の取っ手に手を掛け開かない事を確認すると「行こう」そう言って歩き出したので煤花も追いかけるように彼の隣へと並んだ。

 「あの冷房、今日も壊れませんでしたね」煤花が歩きながら言う。

 「まるで壊れる事を望んでいるような言い草だ」淡々とした口調で千田が返す。

 「そんな事ないですよ」

 廊下は蒸し暑かったが図書室の空間で冷やされた体は順応するようにその暑さを受け入れていた。解凍されている感じはこんな感じなのだろうかと煤花はぼんやり考える。他の生徒の気配はない。ほとんどの生徒は滅多にこの辺り、つまり第二図書室がある三階まではやって来ない。廊下は煤花と千田、二人の足音と蝉の鳴き声だけで構成されていた。

 「でもいつ壊れるかわからないって思うとひやひやしません?」

 「冷房だけにか」

 「あ」煤花は千田を見る。「わざとじゃないですよ」

 「そうなのか」

 二人は階段を下りていく。少しだけ千田が先を歩き煤花は彼のつむじを意味も無く見た。

 「今日お土産をもらいました」

 「お土産? 誰から」

 「兄です。水族館に行ってきたらしくて」

 「へぇ」

 「先輩水族館行った事あります?」

 「小学生の時に遠足で行ったよ。それからは無いかな」

 「お土産タコのピンバッジでした。見ます?」

 「結構」

 「兄の中で僕のイメージどんな風になってるんでしょう」

 「君の事を考えてお土産を買ってきたのか」

 「それ以外に何かあるんですか」

 「自分が良いと思ったものを買ってきたかもしれない」

 「あぁ、なるほど」煤花は顎を揺らすようにうなずいた後「たぶん前者だと思います」

 「そうか」

 二階を過ぎると外から何かスポーツの部活動をやっている生徒たちの声が聞こえてきた。

 「先輩は夏休みの予定とかあるんですか?」煤火が聞く。

 「定期的に図書室には来るつもりだよ」

 「夏休みもですか?」

 「勉強もできるし、快適に過ごせる。君も来るか?」

 「気が向いたら」

 一階に到着すると千田は職員室に鍵を返しに行く為、二人はそこで解散した。別れの挨拶に千田が鍵を持った手を軽くあげて挨拶を返す姿を見た後、煤花はひとり廊下を歩いて玄関へと向かう。

 廊下の空気は湿気を感じる暑さが漂っている。そんな中で蝉の音が耳に入ってきて煤花はなんとなく外を見てみた。この時期は一日が長く感じる。日はまだ高く暗くなる様子は微塵も感じさせない。遠くで部活をしている生徒たちの声が聞こえる。入学当初まだ名前も覚えてない教師からバレー部に入らないかと誘いを受けたが煤花は入らないと即答した。体を動かすことは嫌いではないがスポーツは好きではない。特に集団で力を合わせてひとつの事に向かって頑張っていくというのがどうにも苦手である。運動神経が良くないという自覚があるからだろう。

 玄関に到着し下駄箱で靴を履き替える。入学祝のひとつとして買ってもらったスニーカーは最初の頃小指が内側に当たって少し痛かったが三か月も経てば慣れてきた。

 「任海!」

 不意に後ろから声をかけられ煤花が振り返ると同じクラスの野瀬川が立っていた。

 「今帰り?」野瀬川が任海のほうへと歩いて近づく。

 「うん」上履きをしまいながら煤花は答えた。

 「俺も今から帰るねん。一緒に帰ろう」

 そう言うと野瀬川も靴を履き替える。任海は静かにうなずいて歩き出すと隣に野瀬川が跳ねるように並んで立った。

 「今まで何してたん? あ、また図書室おったんやろ」

 「そうだね」

 「好きやなぁ、本読み放題やもんな」

 野瀬川がハツラツな声で言い笑う。煤花よりも少しだけ背が高く、日に焼けた素肌には汗がにじんでいた。

 「任海は今日自転車?」

 「うん」

 「俺も。なぁ明後日からの夏休み任海はなんか計画してる?」

 「特には何も」煤花は自分のスニーカーを見る。「野瀬川は?」

 「ちょっとだけ大阪に戻ってくるわ」

 「大阪?」

 「そ、親戚がなユニバに行くねんて。実は住んでた時は一回も行った事無いねん。せっかくなら一回は行っといたほうがええやん?」

 「そうかな」

 「そうや」野瀬川はうなずく。「任海は行った事ある?」

 「どこへ?」

 「ユニバ」

 「無いよ。大阪にも行った事ない」

 「ええとこやで! おもろいもんいっぱいあるし」野瀬川はサムズアップする。

 自転車が置いてある駐輪場は校舎を離れ、車道を挟んだ向こう側にある。横断歩道の信号が青になるのを待っていると蝉が飛んでいくのが見えた。

 「人も多いし、夏も暑そうだ」煤花がつぶやく。

 「でも東京よりはマシや思うで」野瀬川が眩しそうに目を細めて空を見上げる。

 「申し訳ないけど、同じに見えるよ」

 「東京には行った事あるん?」

 「あるよ」

 「えッ⁉」

 「え?」

 お驚きの声を上げた野瀬川に煤花もびっくりして顔を向ける。

 「おま、東京には行った事あるって、なんや大阪は何がアカンのや?」

 「いや、中学の修学旅行先が東京だっただけだから」

 「あぁ、なるほど」

 「強すぎだよ」

 「何が?」

 「大阪への、愛?」

 「そうか? でも大事やで何事にも」

 「何が」

 「愛や」野瀬川が自分の胸をトントンと叩いてみせる。「最近見た映画でも言っててん」

 「映画?」

 「そう、大阪が舞台でおもろかったわ」

 横断歩道の信号が青になり二人は並んで渡った。

 

 ◇◆◇


 「なぁ、野瀬川って水族館行った事ある?」

 自転車に乗りながら煤花は隣を同じように自転車に乗って走る野瀬川に聞いた。

 「水族館? あるで。子供の頃、地元にでっかい水族館あって何回か行った事あるわ」

 「あぁ、そっか。聞き方が悪かった」

 「何?」野瀬川が首を小さく動かす。

 「いや、こっちにもあるんだよ。水族館」

 「あぁ知ってるで。なんやったっけアクアリズムやったっけ?」

 「そう」

 「つまり、お前が聞きたかったのはそこに行った事があるか? っちゅう事か?」

 「そう」

 「質問が粗かったな」野瀬川が笑う。

 「僕も思うよ」

 橋を通り過ぎ、短く緩い坂を上った後下る。漕がなくても自転車は進み歩くよりも感じる風が涼しく思えた。

 「答えは無い、やな。一時期名前はよぉ見てたけど」

 「そう」

 「ほら、なんか敷地内のどっかの絵? やっけ。いたずら書きされたやろ?」

 「いたずら書き……」煤花は記憶を探すように呟く「あぁ、なんかなんかあったな」

 「館長が静かにキレてたの覚えてるわ。そうそう、イカがタコに描き換えられてん」

 「イカがタコに」

 「なんであんな事したんやろ」野瀬川が特に興味無さげに言った。

 「暇だったんじゃないかな」

 「暇やからっていたずら書きしたらあかんやろ」

 「でも、そんな馬鹿な事するって事はよっぽどくだらない思考だったんだと思うよ」

 「えぐいなぁ自分」

 「何が?」

 「気にしんとき」野瀬川はカッカッと笑う。

 前方に見える信号が赤に変わり二人はゆっくりとスピードを落として横断歩道前で停止する。

 止まった途端、どっと押し寄せてくるように暑さを体全体が感じる。うなじがじりじりと日によって焼けているような感覚がした。

 「日焼け止め塗るの忘れた」

 煤花がそう言うと隣で小さく揺れていた野瀬川が「俺もええ加減やったほうがええかなと思いながら毎年塗らずに終わってる」

 「君は綺麗に焼けてるから」

 「そうなん? 俺って綺麗やったんや」

 「僕は赤くなって痛くなるんだ。それが嫌で対策してる」

 「あ~うちのオカンもそういうタイプやねん。バケツに氷溜めて顔ツッコんで冷やしてたの見た事ある」

 「アグレッシブだね」

 信号が青に変わる。二人はペダルに足をかけゆっくりと漕ぎ出す。

 「オカンいわく、肌も引き締まって一石二鳥や! 言うてたけど。民間療法にもほどがあるで」

 「まぁ信じる者は救われるかもしれないし」

 「足元やったらえらいこっちゃやけどな」

 野瀬川がカッカッと笑う。話の内容は置いといて、こういう返しをさらりとしてくる所が煤花は野瀬川の好きなひとつであった。

 「さっきの話だけど」煤花はペダルをこぐ。「いたずら書きをした犯人って見つかったの?」

 「いや、まだ見つかってないと思うで。せやからあのいたずら書きはずっと残ったままや」

 「え? 残してるの?」

 「おぉ」野瀬川がうなずく「館長がやった本人に綺麗にさせるって言ってたから。いまだに残っとるちゃうかな。知らんけど」

 「へぇ」煤花はそうかと心の中で呟く。「じゃああの水族館のどっかには足が十本のタコがいるんだね」

 「そういうこっちゃな」

 墨花君はそれを見たのだろうか。煤花はふとそんな事を考える。もしかしたらその印象が残っていて自分のお土産にタコのピンバッジを選んだのかもしれない。

 「野瀬川、タコ好きか?」

 「好きやで、でもぶっちゃけイカのほうが好きかな」

 「そうなんだ」

 「うまいやろ」

 「よくわかんないな」

 「何が?」

 「魚のほうが好きだ」

 「それ言うたら俺かてフライドポテトが好きや」

 「海から山だ」

 「大移動っちゅうわけでもないやろ。すべては自然というおおきなくくりで纏まってんねん」

 適当な事を言っているなと煤花は思いながらも、なんだかこのやり取りが楽しかった。

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四角い空と隙間に吹く風 ゆきしたけ @_yukisi

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