蝉は飛ばずにどこへ行く

蝉は飛ばずにどこへ行く1

 目の前を蝉が飛んで行った。

 一瞬の出来事だったが不思議とそれは蝉だとわかった。いやもしかしたら蝉じゃないのかもしれない。季節が夏、この暑さ、周りのどこからとわからず聞こえる鳴き声に別の虫を蝉を思い込んでいる可能性もある。

 渡り廊下に漂う空気は、サウナのようだ。久我瑞香くが みずかはサウナが嫌いだ。好き好んで入るヤツの気が知れないとさえ思っている。室内に入るとそれだけである程度日光が遮断されるので涼しさを感じる。まぁ可愛らしいものだとすぐにうんざりするのだが。

 この時期、購買所では期間限定でアイスが発売される。ミルク味の棒アイス。値段は一本百円だ。

 買えるのは昼休憩の時間だけ、数はひとり三本までと決まっている。チャイムが鳴ると同時に我先にと買いに向かう生徒は少なくない。まぁ数に限りがあるので制限を付けたところでどうしても買える人間と買えない人間が出てくるが、全員が食べたいわけでもないので折衷案としては最適なのだろう。

 ちなみに瑞香はそのアイスを一度も食べた事は無い。買いに行った事も無く、喧噪を遠くから眺めた事はあった。別にここで買わなくても学校が終わればアイスが買える店舗はいくつかあるのだが、そう言う話では無いという事は瑞香もわかっているので口に出した事は無い。学校で食べるからこそ特別を感じるのだろう。

 廊下を歩いていると階段から誰かが降りてくる足音がしたので瑞香は左へと顔を向ける。踊り場に同級生で同じクラスの野本真理愛のもとまりあが立っているのが見え野本も瑞香に気づくとぱっと笑顔を見せた。

 「瑞香ぁ~ちょうどいいとこにいた」

 跳ねるような声を出し階段をテンポよく降りてくる。瑞香たちが通う高校は基本制服があるにはあるが、校則は自由服装となっている。瑞香は毎日服を変えるというのが面倒なので、制服である淡いブルーのシャツとカーキ色のチェック柄のズボンが基本スタイルとなっているが真理愛は気分によって私服だったり制服だったりの時がある。今日は上は瑞香と同じ制服のシャツ、下は制服のスカート(柄はズボンと同じ)という格好をしていた。

 「何か用だった?」瑞香が聞く。

 「いや」降りてきた野本が首を横に振る。「ただ言っただけ、どこ行ってたの?」

 「トイレ、真理愛は?」

 「部室でご飯食べて喋ってた」言いながら野本がピースサインをする。「教室戻るでしょ?」

 「うん」

 「一緒に帰ろっ」

 真理愛がぴょんっと跳ねるように肩をくっつけてくる。基本彼女は人との距離感が近い。瑞香はよろけそうになるのを踏ん張って耐えた。

 二人の教室は一階の建物突き当りにあり、校内の各教室には冷暖房が備え付けてある。一クラス平均三十人程度、これでも結構な密集率である。

 「廊下にも冷房あればいいのにね」真理愛が顔の前で手をぱたぱたと仰ぐ。「てか、全館空調にすればいいと思わない?」

 「費用の問題じゃないかな」

 「あ~早く明後日になんないかな」

 明後日は夏休み初日である。真理愛は待ち遠しいという風に言った。

 「夏休み、なんかするの?」瑞香は聞いてみる。

 「するする! ここだけの話短期バイト入れたんだよね。間に遊びに行くし、海も一回は行きたいかな」

 「アクティブだね」

 「てか、瑞香はどっか行ったりしないの? なんならどっか遊び行く?」

 「いや、家でのんびりしておく」

 「いいなぁそれができるって。私家にいたらおばばがうっさいからさぁ」真理愛が大きなため息をつく。

 一年のクラスは全部で三クラスある。真理愛と瑞香は一組になり教室は一番奥にある。その隣、手前側にあるのが二組の教室で三組の教室だけは別棟と呼ばれる渡り廊下を挟んで向かい側にある建物の一階にある。

 教室に近づくと複数の人間の声が聞こえてくる。二組を通り過ぎる前、教室前方の扉が開き中からひとりの男子生徒が出てきた。

 「あ」

 瑞香は無自覚に声を出して、そしてしまったと後悔した。聞こえて無ければいいがと思ったが、真理愛が聞き取ったらしく「どうかした?」不思議そうな顔をして聞いてきた。

 「いや、なんでも」

 「何? 何よ?」

 覗き込むように顔を向けてくる真理愛に瑞香はごまかすように笑みをたたえて「ちょっと思い出しただけ、くだらない事だよ」

 「えぇ~気になるんですけど」

 真理愛の追及を適当に流しながら瑞香はちらりと男子生徒を見る。向こうは瑞香たちに興味なさげに横を通り過ぎていった。


 ◇◆◇


 ホームルームが終わり瑞香が帰る準備をしていると真理愛がやってきて机にとんっと両手を置いた。

 「ねぇねぇ瑞香、今日一緒に帰らない?」

 「あれ、真理愛部活は?」

 「今日は休み」

 「そうなんだ。私今から図書室寄って帰るけど一緒に来る?」

 「図書室? え、それってどっち?」真理愛が眉をひそめる。

 「別棟のほう」

 瑞香が答えると真理愛の表情が途端に苦くなった。

 「こっちにも図書室あるのに何でわざわざ向こうに行くの?」

 「読みたい本があっちにあるから。どうする? 一緒に来る?」

 「私パス」

 真理愛はそう言うと瑞香の所を離れて別の同級生に声をかける。その姿を数秒見た後、瑞香はリュックを背負い教室を出ていった。

 時刻は十六時前。廊下には教室から出てきた生徒達で溢れており瑞香は時折ぶつかるのを避けるように左右に軽いステップを踏むように進んでいく。二クラス前の廊下を過ぎれば一気に人の数はまばらになり、それだけでも雰囲気が変わった気がした。

 瑞香はリュックの肩ひもの位置を微調整する。下駄箱がたくさん並ぶ玄関ではすでに靴へと履き替えた生徒たちが外へ向かっていく後姿が見えた。

 瑞香は後ろを振り返ってみる。真理愛が追いかけてくる様子は無かった。一緒に帰る人物が見つかったのだろう。瑞香は正面に向きなおす。

 瑞香が通う高校には図書室がふたつ存在する。ひとつは瑞香たちの教室がある棟の二階。本を借りる際、生徒のほとんどはこの図書室を利用する。瑞香が向かっている別棟の図書室は、本を借りれる事は借りられるが役割としては倉庫としての役割のほうが強い。あまり借りられない本や古い本などは別棟の図書室のほうに保管されている。

 瑞香の教室から別棟までは廊下を進み渡り廊下を挟む。三階にあってこの時期は向かうだけでも汗をかくし疲れる。

 ここへ行くと言えば真理愛はついてこない事は予想できた。彼女は以前あまり本は読まないと言っていたし図書室に行くという事自体数える程しか無いとも言っていた。だが彼女が図書室を、特に別棟図書室を嫌がるのにはもっと違う理由である。

 三階に到着した瑞香は廊下に突き出るように吊るされた【第二図書室】というプレートを見て扉を開けた。

 「おや、久我一年生じゃないか」

 室内にいた三年生の千田軽ぜんだ かるが瑞香の姿を確認して声を掛けた。

 「どうも」

 瑞香は小さく頭を下げると図書室内に入る。冷房が効いておりその涼しさに瑞香は小さく息をはいた。

 教室の大きさと変わらない一室には本棚が背を向かい合わせるような形でひと一人が通れるように間隔を取って並んでおりそこにぎっしりと並べられた本と本棚と室内の匂いが混ざって瑞香の鼻に届く。入口正面には本棚と相対するように設置された机がありそこにはデスクトップパソコンが一台とファイルが数冊綺麗に並べられた状態で置かれている。そのスペースは千田軽のテリトリーと言っても過言ではない場所となっており今も彼はパソコンで何かの作業をしているようだった。

 「何か探し物かね?」千田がパソコンを見たまま瑞香に声をかける。

 「任海君来てますか?」

 瑞香が訪ねると千田はパソコンから視線を動かすことなく右手で本棚を指さした。

 「どうも」

 瑞香は小さく頭を下げて本棚の間へと向かう。途中ちらりと千田を見ればこちらの事などまったく興味がないようにキーボードをたたいていた。

 本棚の間は光が遮られている為に薄暗く、かいた汗が冷えていくような感覚になった。実際冷房によって冷えてきているのだろうと瑞香は思う。この第二図書室には各教室に冷房が備え付けられる前から冷房装置が置かれていた。クリーム色で一見するとただのどでかい箱のようなそれは随分と年季モノで現在進行形で壊れずに作動しているのが奇跡のようなものだった。

 本棚を抜けると瑞香の探し人はすぐに見つかった。

 「任海君」

 声をかけるとぱちっと目が開く。本棚奥にある広くないスペースに置かれた長机の上で任海煤花とうみすずかは仰向けになって目を閉じていた。

 「やぁ」首だけ動かして煤花が瑞香を見る。

 「邪魔して悪いね」

 「大丈夫だよ」

 そう言って煤花が上半身を起こす。細い長机の脚が耐えるようにぶるぶると揺れ、見ている瑞香のほうが多少ハラハラした。

 「何か用?」煤花が長机から降りながら瑞香に聞く。

 「渡すものがある」

 「渡すもの?」

 「そう」

 瑞香は背負っていたリュックの中から青い包装袋を取り出すとそれを煤花に差し出した。

 「何?」煤花の表情が少しだけ訝しさを見せた。

 「お土産、墨花ちゃんから」

 「……どうして久我さんが墨花君からのお土産を持ってるの?」

 「この間、半紙君と一緒に水族館行ってきた時のお土産。渡してくれって預かったから」

 瑞香が早く受け取れという風に包装袋を差し出すと煤花は受け取り中身を手のひらに出した。

 「タコ、かな?」瑞香が煤花の手のひらに乗るピンバッジを見て言った。

 「そうだね」

 「素敵だと、思う」

 「あげようか?」

 「なんで」瑞香は首を小さく横に振る「それは任海君へのお土産だよ」

 「君はもらったの?」

 「うん。半紙君がクッキー買ってきてくれた。美味しかったよ」

 「若干の相違がある」

 「何?」

 「何でも無い」煤花はピンバッジを包装袋の中に戻すとそれをポケットにしまった。 「ありがとう。わざわざ届けてくれて」

 「どういたしまして」

 「教室前で僕を見た時の反応はこれが理由?」

 「気づいてたんだ」

 「一緒にいた人には話したの?」

 「適当にはぐらかした」

 「最適解だと思う」

 「どうも。あ、墨花ちゃんに連絡してね」

 「どうして?」

 「ちゃんとピンバッジ受け取りましたっていう報告」

 「気にはしないよ」

 「私は気になる」

 「君からすればいい」

 「墨花ちゃんの番号知らない」

 「そうなの?」

 「そうでしょ」

 「そうか……教えよっか?」

 「めんどくさがらないで」

 「そういう訳じゃないんだけど」

 煤花はそう言うと長机の上にあがり仰向けに寝るとお腹の上で両手を組むようにして置き目を閉じる。

 「喧嘩でもした?」

 瑞香が聞くと煤花は目を閉じたまま口だけを動かし答えた。

 「するほどに連絡を取り合っていない。最後に連絡したのは……忘れた」

 「だったらいい機会だと思うけど」

 「連絡しとくよ。君も半紙さんによろしく言っておいてくれないか」

 「半紙君に? それこそどうして」

 「経路的に墨花君から半紙さん、半紙さんから君を渡ってやってきたのだろ?」

 煤花は先程ピンバッジを入れたポケットを軽く叩く。

 「いや、私が直接墨花ちゃんから預かった」

 「は?」煤花が目を開ける。

 「半紙君を家まで送り届けてくれた時に、任海君に渡しておいてくれって」

 瑞香の言葉に煤花から反応は無い。天井をじっと見つめて黙っている姿は人形のように見えてきたが呼吸する為に動いた胸の動きに何故だか瑞香は安心した。

 「戻ってきたなら寄ればいいのに」ぼそりと煤花がつぶやいた。

 「時間も遅かったし、気を使ったんじゃないかな」

 「めんどくさがったんだよ」

 「似た者同士?」

 瑞香が言ってくすっと笑う。首だけ動き自分をじっと見てきた煤花の視線に「ごめん」肩を小さく動かして瑞香は謝った。

 「それじゃあ、私の用事はこれで済んだから帰る」

 「ありがとう」

 煤花はそう言うと目を閉じる。長机の上の彼をしばし眺めた後、瑞香は来た道を戻るように本棚の間を通り抜けた。

 

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