お庭のミルク

黒中光

第1話

 島谷稔は車から降りると、目の前の家を見て、ほうっ、と息を吐いた。里山の端に建ったその家は、都会では見ない平屋建てで、壁に使われた木の板は、長年の風雨にさらされ、味のある黒味を帯びていた。青い瓦葺きの屋根はくすんでいて、ひなびた印象を受ける。

 齡七十歳。妻に先立たれ、最期に自然豊かな場所で静かに暮らしたいと願っていた彼にとっては、願ったりの家だった。

「玄関はこっちですわ」

 四十過ぎの、頭の毛が寂しくなり始めた市職員が先に建って鍵を開ける。

「埃っぽいかもしれんで、マスクつけてください」

 手渡されたマスクをつけながら、もうもうと舞い上がる埃を眺める。カーテンは日焼けしているが、壁紙はまだ綺麗で、手触りからして柱も問題なさそうに見える。役所で、二年間誰も住んでいないと聞いたときには、手直しの不安があったがこの分では必要ないだろう。

 職員が廊下の先にある部屋へと入る。島谷も後を追っていくと、南に面した掃き出し窓があり、気持ちの良い日差しが入り込んでくる。

「広めの庭がよかったんやね」

「ええ。花を育てるのが趣味で。都会のマンションだと、小さなプランターでしかできなかったんですが、庭があれば色々やってみたいと常々思っていたんです」

 十坪くらいの広い庭が広がっている。市が時折手を入れていると言っていたせいか、雑草は少ない。左奥には、大きな桜の木が植わっていて、ポツポツと蕾がついているのが見える。もう少し温かくなれば、ここで花見をするのも楽しいだろう、と島谷は思った。

 彼は、ふとある物を指さした。

「あれは、なんですか?」

 庭の真ん中にお椀が置いてある。動物のイラストが描かれた可愛らしいお椀で、その中に牛乳が入っている。都会育ちの島谷は、動物よけの一種かと思って質問したのだが、職員は途端に眉をしかめた。

「まあたか。いえ、気にせんで下さい」

 自分の頭を撫で回しながら、歯切れの悪い声で応える。

「あれは、その、どっからか出てきよるんですわ。俺も何回か見つけて、その度に捨てるんですが、いつの間にか置いてある。誰かのイタズラやとは思うんですが、誰のせいかさっぱりで」

 島谷は玄関先の様子を思い出す。家の周囲には当然塀があるのだが、門は格子状の扉に閂をかけるタイプ。外から手を差し入れれば、簡単に開けられてしまう。

 田舎でも変な者はいるのだなあ、と思っていると、職員が額をピシャンと叩いた。

「人が住むようになれば勝手に入ることもなくなるでっしゃろ。なんなら、ホームセンターまで乗せていきますから、南京錠でもつけたらええんとちゃいますか。うん」

 防犯面での問題をなんとかクリアしたいのか、必死だ。島谷は会社勤めを五年前に卒業した身だが、こうして見ていると、お役所も大変だと思う。

 しかし、彼が心配するには及ばない。

 家の中も外もじっくりと見せて貰って、島谷はこの家が気に入ってしまった。花や小鳥を眺め、静かな場所で、のんびり自分の時間を過ごしていく未来が想像できたからだ。

 皿に入った牛乳は不思議だが、怖がらねばならないようには見えないので、彼は気にしないことにした。歳を取ると、怖い物などなくなる。妻が死んでから、どうせ老い先短いのだからと、簡単に踏ん切りがつくようになった。

「実際に一晩過ごしてみると良い」と言われて、役所に置いてあるという布団と小型電気ストーブを借りる。普通は内見でここまでしないと思うが、この町は過疎化が進み、車内からも空き家が目立っていたので、どうしても転入者が欲しいのだろう。この老い先短い身に、転入者補助金を割り当ててくれるという話だから、島谷としては助かる。

 スーパーまで買い出しに連れて行ってもらい、惣菜を買い込んで家に戻る。職員が帰ってしまうと、途端に静かになる。テレビもラジオもない。スマホの小さい画面を老眼で見続けるのは辛く、早々に寝ることにした。

 風が木々の間を駆け抜け、どこかで犬が鳴いている。時計の秒針がチクタクと刻む音が感じ取れる。

 いつも住んでいるマンションでは夜でもひっきりなしに車の音が聞こえていたが、ここにはそのような喧噪はない。温もってきた布団に満足し、気が付くと眠っていた。

 目覚めたのは、朝五時。いつも通りの時間だ。起きたときには見慣れぬ天井に驚いたが、それだけ深く眠れたのだろう。

 部屋は底冷えして、ストーブではちっとも温まらない。スーパーで買った弁当は寒さのあまりご飯がカチコチに固まっていて、食べるのには難儀した。具材の卵焼きは自分で作るよりも味が濃いはずなのだが、全く感じられない。やはりご飯は温かい者に限る。やかんで沸かしたお茶だけが救いだ。一口飲むと、喉で、腹で、痺れそうになるほどの熱が流れ落ちるのを感じる。ささやかながら「生きている」と実感できる。

 空が白み始めた。掃き出し窓から外に出ると、東の山々から光が零れだしてゆくところだった。清浄な光が夜を照らしだし、世界に向くな彩りを与えてゆく。

「綺麗なもんだ」

 空気が澄んでいるのか。ここまで綺麗な朝日を見たのはいつ以来か。島谷はもう思い出せなかった。

 しみじみと、空の移り変わりに見惚れていると、後ろで足音がした。

 振り返ると、ランドセルを背負った女の子が立っていた。島谷をまじまじと見つめている。

「おじいちゃん、ここに住んでるの?」

「これから、住もうと思ってるんだ。島谷稔と言うんだ。よろしくね」

「神崎真穂です」

 真穂の手には、小さな紙パックの牛乳が握られていた。

「あれは君が?」

 島谷がお椀を指さすと、真穂はコクンと頷いた。

「サクラにあげるの」

「桜に?」

 思わず庭に堂々と枝を広げる木を見上げる島谷。立派な枝振りではあるが、牛乳は栄養になるのだろうか?

 真穂がお椀に牛乳を注ぎ、手を叩いた。

「ご飯だよ」

 途端に、桜の根元から茶色い毛玉が飛び出した。

「仔犬」

 柴犬の子供が、一心不乱にミルクを舐める。首輪はしていない。野良犬だろうか、しかし、真穂には懐いているようで、彼女が櫛で毛をすいても全く嫌がる素振りを見せない。

「この仔、桜の木に住んでるの」

 真穂に案内されて桜に木の裏に回り込むと、根元近くにぽっかりと穴が空いている。どうやらここにサクラが棲み着いているらしい。島谷は夜中の鳴き声を思い出した。どこか犬を飼っている家があるのかと思っていたが、もしかするとサクラの鳴き声だったのかも知れない。

「ねえ、おじいちゃん」

「なんだい」

「ここに住むんなら、サクラのこと飼ってくれない? わたしの家、ペットダメなの」

 話していることが分かるのか、サクラが島谷のことを見上げてくる。無垢な瞳でお願いされると、断りづらい。

 島谷には、息子が二人いるが、孫はいない。孫に何かをねだられるのは、こんな心境かも知れない、そんなことを思った。

「分かった。約束しよう」

 真穂が歓声を上げて抱きつくと、サクラが遠吠えする。

 静かな家かと思っていたが、思ったよりも活気のある生活になりそうだ。しかし、それも悪くはなかろう、と島谷はそう思った。

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お庭のミルク 黒中光 @lightinblack

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