白い思慕

犀川 よう

白い思慕

 わたしは教室の黒板とチョークが奏でる音で、その人がどんな人なのかを想像するのが好きだった。例えば、数学の中年男性教師は、壁画に絵文字を刻むようにチョークを黒板に当てていた。無骨な手に似合わない神経質な文字を、一つ一つ丁寧にカツカツと埋め込んでいく。Σの上と下に書く文字だけはとても下手で、その刻む音も彼のシャツのように情けなかった。わたしは、この人は自分の情けなさを権威という形で補う人なんだろうなと、勝手に結論づけていた。三十前半の英文法の男性教師は、大雑把な文字をゴリゴリと打ち付けるように書いていた。授業の半ばになると、何故かチョークを滑らせるようにして、投げやりな文字を書いていく。時折、キーという身体が震える音を出して、わたしたち生徒の静かな顰蹙を買った。無論、彼はそんなことはお構いなく、無意識にWを強調させながら黒板を引っ掻いていった。彼の結婚生活もおそらく相手を不愉快にさせるだけの荒れたものなのだろうと思い、わたしは彼を勝手に軽蔑していた。


 二十代後半の現代文の教師は、真っ黒なひっつめ髪で冴えない眼鏡をかけた、いかにも自信の無なそうな女性で、書く文字はとてもか細く、カッ、カッ、と小さな音を短い周期で出しながら文字を書いていた。多くの女子生徒から半ば見下されていることを自覚しているのか、身体もチョークを握る手にも落ちつきがなく、黒板に齧りつくように書いていた。彼女の筆圧は強くないはずなのに、良くチョークを折っていた。それは折れたというよりも、欠けたという方が正確かもしれない。愛という文字を書くときに二度チョークを欠けさせていたのを見て、わたしは彼女が今まで誰からも愛されたことがないのではと想像して、一人哀れんでいた。


 その日の彼女の授業でも、使い道のない白い欠片がポロポロと下に落ちていた。高い所から欠けたものは彼女の頭に降りかかっていた。わたしは板書することよりも、それを見ることに集中していた。彼女の震える音が静かに教室を満たす中、白く小さい破片が荒めの粉雪のようにハラハラと床に舞い落ちるの見て、わたしは一体誰がそれを掃除するのだろうかと心配になった。


 授業が終わると、日直が黒板を消すことになっていた。当番はわたしの右隣りの男子で、先程までいた彼女のように、どこか自信と落ち着きのない人だった。わたしがなんとなく彼を眺めていると、彼が床をじっと見つめていることに気がついた。やがて彼は腰を屈めると、小さく散らばった白い粉をとても、本当にとても大事そうに掬い上げ、自分のハンカチに乗せてそっと包み込んだ。そしてまた立ち上がると、消しすぎてしまった日直欄に自分の文字をそっと書き直した。彼の書く音は、彼が思いを寄せている人と同じものだった。


 その密やかな時間を立ち会ったのは、わたしだけだった。つまりそれは、わたしだけが、彼を好きになる権利が与えられたということを意味するのだと、わたしには思えた。――わたしなら、君にもっと良い音を聴かせられる。君のハンカチのように優しく包み込んであげられる――。そう思ったら、自分では制御できない切ない想いが密度の高いマグマのようにわたしを襲ってきた。やがてそれは彼への愛おしさに生まれ変わり、わたしの身体の中のあらゆる場所を駆け巡って、焼き焦がしていった。わたしが想像する彼女のように、彼もまた今まで誰からも愛されたことがないのであれば、わたしこそが彼への愛を満たしたいと思うくらいに、彼のポケットの中にいるを捨て去りたいという強烈な想いを、わたしは彼に抱いてしまったのだった。

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