五時間目の教室
「……飼、犬飼! ……おい犬飼!!」
どこかへ霧散していた意識が、現実へと引き戻される。
赤い、と思った。そこが夕暮れに照らされた教室だと気付くのに、少し時間がかかった。じっくり周りを見回すまでもなく、違和感に襲われる。
ひとつめは、やけに机が少なくて、そのいくつかは倒れていること。
ふたつめは、教室の中には誰もいないこと。ペンケースやノートはあちこちに見えるのに、その持ち主だけが忽然と姿を消しているのが不気味だった。
みっつめは、あたりに立ち込めた異臭。ちょうどいい言葉を知っていたような気もするけど、ぼやけた頭では思い出せなかった。
その異様な光景のせいか、夏の暑さのせいか、教室を塗りつぶす赤橙のせいか、じっとりした嫌な空気が教室に満ちている。
教室の隅にある数少ない椅子のひとつに、おれはだらりと腰掛けていた。
「ッ犬飼ってば!!」
我に返って、声の主を探す。さして時間をかけずに、そいつは見つかった。教室の後ろ側、ベランダ際。おれの対角線上。今まさにベランダからどこかへ避難しようとしているのか、そいつはアルミの窓枠に足をかけていた。
夏服の半袖シャツをべったり汗で濡らして、こちらに向けた顔を心配そうに歪めている。上半身は外にあるようなもんなのに、短い黒髪が揺れてないのを見るに、外も蒸し暑い無風なんだろう。嫌だなあ。
「みんなもう避難したぞ! お前も早く来いって!!」
こんなに切羽詰まった声を聴かされているのに、おれはどうしても焦ることができなかった。頭がぼんやりして、緊張感を入れるためのレバーがぶっ壊れてるみたいな感じ。
なんでみんないないんだろ、変なの。とか思って、ふと直近の記憶が戻って合点が行く。ああ、そうだ──
「ゾンビ……ッ! もう来ちまうぞ!!」
そう。ゾンビ。昼休みが終わった頃、校庭に出ようとした三組がパニックになって返ってきて、あちこちで悲鳴が飛び交って。窓の下で見知ったジャージを着た死体が歩いてて、一、二組は全滅とか机でバリケード作れとか声が飛び交って。スマホの電波が一斉に途絶えて。急いで教室に戻ろうとして、それで──
「あー……ごめん、先行ってて。すぐ行くから」
椅子から立ち上がりもせずに、おれはへらりと笑った。そいつはしばらく戸惑ったような、躊躇うような顔をした後、「絶対すぐ来いよ」って言って、ベランダの向こうへ消えていった。
「……さて、と」
ダンッ、という大きな音が、おれの鼓膜を刺した。がたがたした音の質感から、背後のドアが叩かれたのだとすぐわかる。
呑気にゆっくり振り向くと、バリケードとドア越しに見慣れた顔と目が合った。おれはぶらりと片手を上げる。
「よ、内村」
似合ってないつってんのに昔っから変えないツインテール、充血して虚ろだけど、いつもみたいに吊り上がった目。腕のところが破れたジャージと、その裂け目の中心に頓挫する歯型。だいぶ変わり果ててはいるけど、そこにいるのは間違いなくおれの幼馴染──
「一組だもんなあ、おまえ」
「ゔぅぅ゙…………」
「ヴ……ぅぅゔ……ッ!!」
内村はガラス越しにおれの存在に気付いてるみたいで、さっきからドアに埋め込まれた窓に食い付いて、ガラスの両端を爪でガリガリ削っている。
膝で蹴破ろうとでもしてるのか、時たまガンガンとドアの揺れる音がする。ちょっとうるさいけど、誰かの呻き声や悲鳴を消してくれるなら悪くない気がした。
「……あだっ、ッテテ……」
けたたましい衝突音に呼応するように脛がビリっと傷んで、おれは顔をしかめた。必死こいて教室まで逃げるとき──階段上ったときかな? 噛まれたヒザの下。制服のスラックスをまくってみると、歯型あたりの皮膚が厚ぼったくなって、黒く変色し始めていた。
「あー……、やっぱダメか。ワンチャンあるかなと思ったけど。……あるわけねえ?」
内村に話しかけるみたいに、ちょっとはっきりした声色で呟く。おれそんなに独り言するタイプじゃないし。
「切り落としたらどうにかなったりするかなと思ったけど──サッカーできなくなんならいいかなぁ、って」
利き足だしな、と続けながら、捲り上げた裾をずり下ろす。
「……あ、てかさっき意識飛んでたのって
あいつの不格好な後ろ姿が頭に過ぎる。あいついいヤツだもんな。名前なんて言ったっけ。思い出せないのは
「っよ、こらしょと」
ドアとその向こうにいる内村に背を向けるように置かれた椅子を跨いで、背もたれを抱くみたいに座る。休み時間に友達と
「ぅあ゛ァあ゛……!!」
ふと、表情がさっきより怒気を帯びたことに気付く。相変わらず目に光はないけど、こっちを鋭く睨み付けていて、歯を食いしばっていた。さっきより怖くなったけど、口喧嘩をしていた昨日までの面影を感じた。それが嬉しくて、おれは徐ろに口を開く。
「……なんか、顔いつもと一緒じゃね?」
ダンッ!! って、一層大きな音が教室に響く。埋め込まれたガラスに共鳴して、より鋭い響きが出た。その音を内村の返事と受け取ったおれは、少し気をよくした。いつも飛んでくる「は?」とか「もう一回言ってみなさいよ」とか、そういう言葉の代わり。その後に続いた「ぅゔうゔ……」って唸り声も怒ってるみたいに聞こえる。自分の口角が上がってることに気付いて、この状態ってニヤけるなんておれも相当だなと自嘲した。
「……ゾンビって理性あんのかな」
これは独り言。自分にしか聞こえないくらいの声量で、ぼそりと呟いた。しばらく考えた後、おれは息を吸い直す。
「や、あるよな! おまえがよくわかんねえウイルスごとにき黙らされるようなヤツだったら十年ちょいも苦労してないからな!」
皮肉っぽくそう言うと、内村がまたドアを強く叩いた。頭にガンガン響くけど、気付けみたいな感じでちょうどいい。どうせもう終わる。
また一層眉を吊り上げた彼女を見ながら、おれは背もたれに肘を置いて頬杖をついた。
十年ちょい、と、噛みしめるようにもう一度つぶやいた。声に出してみて改めて、その長さを実感する。自他ともに認める犬猿の仲。そのくせ中学どころか高校まで被った腐れ縁。毎日の小競り合いが始まったのは小三の夏休みくらいだけど、それでも十年ぐらいのはず。
その日常も、今日で終わりだった。明日も明後日も続くと思っていた腐れ縁は、今日でぷっつり途切れてしまう。
おまえ朝まで元気だったのにさぁ。おれが不意打ちでデコピンして逃げたあと、おまえが上げた牛みたいな叫び声だって鮮明に思い出せる。
帰宅部のおまえがおれに追い付けるわけもないのに。追っかけてきたおまえを爆笑しながら難なく振り切って──それが最後になってしまった。
……機嫌直してやろうと思って好きでもないのに買ったレモンソーダ、どうしてくれんだよ。
目頭がじわじわ熱くなってきて、おれは誤魔化すようにふぅっと息を吐いた。内村の前では取り繕っていたかった。最期まで。
声が震えないよう息を整えて、おれは顔を上げる。
「……ねー、内村」
思ったより緩慢な口調になった。腕に頭を
多分もうすぐ。心地良くはない眠気から意識をひっぺがして、ゆったりした動きで顔を上げる。それとなく息を整えて、おれは続ける。この際だから聞くけど、という前置きをつけようかと思ったけど、必死だったもんだから言い忘れてしまった。
「内村ってさ〜……おれのこと好きだった?」
口を閉じるより早く、内村がなにか吠えた。腹の底から喉をぶち抜いたみたいな、ごく短い、雷みたいな喚声。驚く間もなく、ガンッ!! って今日一番の強さでドアを叩かれる。
あまりの衝撃にリールから外れたドアが視界の隅に写って、おれは静かに悟った。へら、って笑顔を雑に作り、彼女の目を真っ直ぐ見据えて口を開く。
「そっか。おれも」
そう言い終わると同時に、決定的な衝突音が鼓膜を貫く。内村に押し退けられたバリケードが倒壊して、椅子の脚に反射した鋭い光が目に刺さった。
心底安らかな気持ちで、おれは瞼を閉じる。
おれかあいつの血の味がした。 創思鼠 @soushi_nezu
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