第16話「淡く照らされて」

 『ガーネット探偵事務所』の中で、クロエは机に脚をのせて、いつものようにゆらゆらと椅子を揺らしていました。何を考えるでもなく、ただただぼうっとしています。

 クロエの青い瞳には、少女の心の中と同じようにうつろなガスランプの弱々しい光が映りこんでいます。


 扉が開き、ドアチャイムが小さく鳴りました。

 事務所に入ってきたのは、電報配達員でした。


「電報です」


 クロエは立ち上がり、電報を受け取ります。


「どうも。ご苦労様です」


 少女は電報配達員を見送ると、デスクに戻りました。


 だらしなく脚を机にあげることはせず、きちっと椅子に座り、電報を見ます。

 

 差出人は、ウィル・ピーターソンでした。ウィル少年です。


 少女は電報を読みます。こう記されていました。


 彫像ハ 明日 井戸ノ広場ニ戻リマス 母ハ 少シ 元気ニナリマシタ アリガトウゴザイマシタ


 少女は電報を机に置きます。肘を付き、手に顎を乗せ、壁に掛けられた写真を眺めます。どこかの乗馬場で、父と母が幸せそうに笑っている写真です。


 事件が解決し、ウィルの母親の容態が良くなってきているのだから、心から喜ぶべきなのでしょう。

 でもなぜか、なぜだか、心底嬉しいという気持ちにはなりませんでした。

 その理由は、少女自身よくわかりませんでした。



 事務所のドアが、これでもかというくらい乱暴に開かれ、ドアチャイムが、じゃりんぎりん、とけたたましく鳴りました。

 少女はドアの方を見ます。


 ぎょっとしました。


 リトル・ハダムの大工、ドワイトが立っていました。


 クロエは反射的に立ち上がり、一歩さがります。


 大工ドワイトは右手を握りしめ、岩の塊のように突っ立っています。


 少女は顔を引きつらせて、吠えるように言います。


「な……なんの用よ!?」


 ドワイトは、眉を寄せて言います。


「まあ、まて、そう慌てるな。これだ」


 ドワイトはそういうと、握っていた手を開きます。


 ドワイトの手のひらには、黄金に輝く羽のブローチがありました。


 アークエットさんからもらった大切なブローチ。リトル・ハダムの村で落としたブローチです。


 大工はクロエの方へのしのしと歩いてきて、デスクのうえに優しくブローチを置きました。


 ドワイトは言います。


「これ、嬢ちゃんのだろ?」


 喜びと、言いしれぬ動揺に包まれたクロエは、何も言いません。


 ドワイトは、その外見に似つかわしくない穏やかな口調で言います。


「こういう大事なものは、しっかり付けておかなきゃだめだぜ」


 クロエは大きく開いた瞳で、大工の目をみつめながら言います。


「これを届けるために、わざわざ街に来てくれたの?」


 ドワイトの顔は、急激に赤くなりました。


「ち……違う! おれは街に仕事道具の買い出しにきたんだ! ついでだからここに寄っただけだ!」


 そう言うと、クロエに背を向けドアに向かいます。

 ドアノブをつかんだドワイトは、少女のほうに振り向いて言います。


「なあ、この探偵事務所は女房の浮気調査なんかも請け負ってるのか?」


 クロエはにんまりとして答えます。


「ええ。わたしの得意分野よ」


「そうか、ひょっとしたらその件で世話になるかもしえねぇからよ、おれのことよく憶えておいてくれよな。あばよ」


 大工はそう言って、乱暴に外へ出ていきました。


 少女は、デスクに置かれたブローチを手にとります。

 子狐の尻尾のように鮮やかに輝くブローチ……。

 ずっと探していたブローチ……。


 クロエは、しばらくの間、じっとその眩いブローチを眺めていました。

 やがて、少女は顔をあげます。

 小さな探偵は駆け出します。勢いよくドアを開き、急いで左右を見ます。


 大工ドワイトは、もうだいぶ事務所から離れていました。


 クロエはドワイトの大きな背中にむかって大声で言います。


「ありがとー!」


 大工ドワイトは、止まることも振り返ることもせず、ただただ遠ざかっていきました。





 クロエは国立美術館の正面にある、それはそれは幅の広い階段の最上部に座っています。国立美術館は雪のように真っ白な建物で、正面にある巨大な8本の柱が特徴的です。

 もう、陽はだいぶ沈み、美術館はオレンジ色に照らされています。


 クロエは、よくここの階段に座りにきます。ここで、何も考えず、ただぼうっとするのが好きでした。


 階段や、美術館入口の前、階段下部に面した広い道には、多くの人々がいました。艶のあるトップハットをかぶり、しゃれたフロックコートを着た紳士たち。ショールを羽織り、華々しく飾り付けされたベール付きの帽子を被った淑女たち。飾り気のない質素な上着と地味なズボンの人々。赤い制服の美術館の関係者らしい人もいました。


 少女は、誰かを待つでもなく、何かをするでもなく、ただ、広い道を眺めています。

 幅のある道を静かに見やっていると、黒い塗装が上品に光る立派な馬車がやってきて、止まりました。

 馬車の後部のキャビンから、男性が出てきました。

 見おぼえのある男性でした。

 少女はその男性をじっと見ます。

 いつか、蒸気自動車発表会でクロエに声をかけてきた、ハンサムな男性、ジャクソン紳士でした。

 馬車から降りたジャクソン紳士は、キャビンの中に手を伸ばします。ジャクソン紳士に手を引かれて、女性が降りてきました。タイトなシルエットのデイ・ドレスを着た美しい女性でした。

 ジャクソン紳士と、美しい女性は腕を組みます。ふたりは、楽しそうに話しながら歩き出し、どんどんクロエの視界から遠ざかっていきました。


 少女の胸の中は、なんとなくもやもやしました。


 クロエの腰の横には、紙袋が置かれています。

 少女は紙袋の中に手を入れ、紙に包まれた、それを取り出します。

 包み紙を開きます。美術館に来る前に、料理店で買った一切れの木苺のパイが顔を出します。

 

 クロエはパイを一口食べます。木苺の小粒の種が心地よく舌を撫でます。苺の甘酸っぱい香りと、パイ生地のこうばしさが、口の中に広がります。


 心のなかのもやもやは、一瞬でどこかに飛んでいきました。



 静かに沈みゆく夕日から放たれる甘い光は、建物や道を淡く照らします。その日の仕事が終わり、夕食のビーフシチューの濃厚な香りを想像しながら陽気に家に向かう人々を、夕焼けの柔らかい輝きが包み込みます。

 道端に、愛らしい車体の、スコーンの移動屋台が止まっています。羊のように柔和な顔の店主が、芳醇なクロテッドクリームや艶やかに輝くジャムをスコーンに盛り付けます。店主は子連れの母親たちにスコーンを手渡します。母親たちは、この世の何よりも愛おしい子供たちに、買ったスコーンをやさしく与えます。子供たちは、天使にも負けない笑顔をみせ、甘美なお菓子を幸せそうにほおばります。至福の表情を作る子供たちの顔を、橙色の夕日が照らします。

 料理店やパブが、店内に暖色の明かりをともします。店の窓から、綿毛のようにやわらかく美しい明かりが、ふわふわとあふれ出ます。


 この日の夕暮れ時も、やわらかな光が満ち溢れ、すべてがその光をおだやかに浴び、王国は琥珀色に染められていました。



       終





  

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琥珀の王国の探偵少女 澤野玲 @sawanorei

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