第13話 貸し出し
―明日、センシティブホテルに13時になった―
「昼間か…」
舞衣は木野から送られてきたスイーツを見て呟いた。
きっと、カーテンを開けたまま犯される。日差しを浴びながら、身体の隅々まで全てを見られるだろう。名前も顔も知らない、まだ会ったことのない人に。
舞衣は貸し出しの話を聞いてから、走るようになった。外食を減らし、自炊もするようになった。食事を減らせば、体重は落ちる。でも、貧しい身体は望んではいない。適度に肉がつき、凹凸のある女らしい身体を目指さなくてはならない。
「痩せた?」
遊びに来ていた拓也に言われた。
「モテようと思って」
「誰に?」
「拓也に」
舞衣はベッドで横になる拓也に覆い被さった。じゃれ合いながら唇が触れる。離れて、見つめて、また触れる。これを何度か繰り返した後、舌が絡み合った。
先が読めるセックス。
何度も見ているドラマみたい。ドキドキはないけど安心感はある。集中してなくても、ついていける。
本当いうともう、拓也とのセックスでは感じなくなっていた。それよりも強い刺激を知っているから。
朝方、拓也は早々に家を出た。解体作業を生業にしている拓也は土曜日も仕事に出かけることが多い。
静かになった部屋。舞衣はむき出しのラックを眺めた。ラフな服と会社用の服が一緒くたになっている。
襟がレースになっているクリーム色のブラウスに膝丈の紺のスカートを手に取り、身に纏う。面接を意識したコーデ。
全真鏡の前に立ち、全体をチェックした。
頭から糸で吊るされたように立つ。
背筋が伸び、姿勢が良くなった。
奴隷は綺麗でいなければならない。
その使命感が常にある。
肩まで伸びた髪は茶色く染まり、印象は明るくなった。目に掛かる前髪は横分けにし、大人なイメージに。
大丈夫。綺麗に着飾ることができている。
鏡に顔を近づけ唇に紅をひいた。唇の色が少し明るくなる程度の自然な色。グロスを塗ろうか考えたけど辞めた。この場合、下品すぎる気がする。
この短期間で一気に気温は下がった。日中だというのに寒さが身に染みる。
信号は赤。車は途切れることなく走り、待つ人は数秒で爆発的に増える。都心の休日の人口はえげつない。
舞衣はロングコートのポケットに手を入れ、マフラーに顔を埋めた。歩道の脇に植えられた並木の葉は落ち、枝だけが残っている。
「すいません、お茶でもしませんか?」
振り向くと、普通に良い男だった。長身で清潔間がある。肌は綺麗で、自分よりも若いかもしれない。
でも、今は話す余裕がない。
丁度よく信号が青に切り替わり、小走りで先を急いだ。
〝貸し出し〟の話をされたときから心が落ち着かない。
舞衣はバッグを探り携帯を見た。
まだ時間はある。でも、早く着かなくてはと気持ちが焦る。遅刻するわけにはいかない。
人波はセンシティブを目指し進んでいた。この波にのっていけば、迷うことはないだろう。でも、建物の中に入れたとしても油断はできない。
一階からホテルへ上る直通のエレベーターは二基しかないらしい。そのエレベーターを無事に見つけることができるのかも不安だった。「おい」
その呼び声に舞衣は足を止めた。
雑踏の中でも、すぐに自分を呼び止める声だとわかったのは何度も忠誠を誓った人の声だから。
舞衣は振り返った。
行き交う人は目に入らない。舞衣の目に映るのは木野だけだった。
「行くぞ」
深みのある紺のジャケットに黒のマフラー。下は細身の黒いパンツを合わせている。髪はいつもよりラフで、無造作だった。
「偶然ですね」
好意の人と思いがけがけず会う嬉しさ。休日姿の木野を見て、舞衣の瞳は輝きを増した。
「目的地が同じだからな。そんな驚くことじゃないだろ」
「それでも嬉しいです。こうやって逢って、秋吉様に声をかけてもらえて」
木野は視線を舞衣から外した。ほんの一瞬、木野の表情が柔らかくなったのを舞衣は見逃さなかった。
もしかして、照れてる?
落ち着かないテンションがさらに高くなった。
木野はセンシティブに入ると、地下へ降りた。「下に行くんですか?」
「地下駐車場から直接ホテルへ行けるよう配慮されてる」
舞衣が「そうだったんですか」と感心すると、木野は溜め息をついた。
使えない奴だと思われている。駄目な奴だと。でも、馬鹿な子ほど可愛いみたいな。そんな感情もあるはずと信じている。
エレベーターに乗り扉が閉まると、舞衣は木野に身体を寄せた。
「どうした?」
木野の腕に手を回す。指輪が見えたけど、気にしないことにした。
「今日、ずっとこうしたかったんです」
指を一本ずつ絡ませる。
「外じゃ、人目もあるから出来ないし」
舞衣は拒まれないよう、話を続けた。
「秋吉様、私ずっとテンションが変なんです。お化け屋敷に入る前みたいな感じ。わかりますか?ジェットコースターに乗る前みたいな。乗る前のドキドキする感じが、ずっと続いてるんです」
「こわいのか?」
「たぶん」と舞衣は頷いた。
「それでいい」
木野の言葉は舞衣の身体にすとんと落ちた。これで、いいんだと素直に思えた。
マインドコントロールって、こんな感じなのかと思う。
迷いはなくなり、その道が正しいと思えた。
高層階のセンシティブホテルに着くと、別世界が広がっていた。
赤いグロリオサは客人を迎え、高い天井に吊されたシャンデリアは人々を法悦させる。硝子窓からは陽光が入り、贅沢な空間の一翼を担っていた。ソファや椅子は充分に余裕をもって置かれ、ランプシェードは〝上品〟という言葉がぴたりとはまる。
ヒエラルキーの文字が舞衣の頭に浮かんだ。この下にあるカフェは人がごったがえし、机と机の幅はないに等しい。だが、ここの広々とした空間。成功者しか足を踏み入れることができない領域。ここにいる人達は富裕層であり、完全な勝ち組。自分とはほど遠い。急に自分の服が恥ずかしくなった。
木野は辺りを見渡している。
こんな所でも臆することなく、堂々としている。緊張した素振りもなく自然体だった。すんなり溶け込む木野を見て、舞衣は疎外感を感じた。富裕層相手の風俗嬢。着飾っても本当の自分が露呈しているみたいで、自信が一気になくなっていく。場違い。身分不相応。しっくりくる自分の呼称に、また傷ついた。
「おい」
舞衣は現実に戻された。
木野はソファに座り、手招きをしている。対面に誰かがいる。後ろの背もたれからは帽子の上部しか見えない。
本当の面接みたいだと錯覚する。1歩進む度に早くなる鼓動は面談室に向かうときのようだった。舞衣は大きくなる鼓動を抑えながら、木野の横に立った。同時に男と向かい合う。ニューヨークヤンキースのキャップを被っていた。色の濃い大きめのサングラスで、表情は読めない。でも、薄い唇は微動だにしなかった。
冬なのに半ズボンで半袖。よく見ると、ズボンはヴィトンだった。
得体の知れない空気を纏っている。
男は頬杖をついた。
舞衣は足を揃え、胸を張る。少しでも良い印象にしたい。
男はサングラスに手をかけた。
悪役の登場シーンさながら、たっぷりと時間をかけて、男の顔が露わになっていく。スローモーションみたいだった。隈が濃く、瞼の重たい目。余白が多く、全体が中心に寄っている。素顔の方が鋭さや気迫が増した気がした。生きてきた修羅場の数なのだろうか。眼光炯々。キャップから覗く男の目は執拗に舞衣を見据えた。視姦されているようで、舞衣は動けなくなった。異様な雰囲気をもつこの男に気圧される。
「よ…よろしくお願いします」
自信のなさから声が小さくなる。頭を下げると「はい、よろしくー」と思いがけない軽い声がかえってきた。
「じゃぁ、行きましょか」と言い男は立った。舞衣は木野と男の後についていく。
廊下を進む途中、家族連れとすれ違った。幼い子どもが2人、走りながら騒いでいる。母親が注意するけど、そんなことでゆうことを聞くはずもない。そんな普通の風景と隣り合わせに私はいる。今なら、引き返せる。
「ここだよ」
急にイントネーションが標準語になった。
男はカードをかざし鍵を開ける。
「さぁ、入って」
木野が入り、舞衣の番になった。立ち止まっていると男に「どうした?」と聞かれた。
「いえ…」
部屋に入ると背後で扉が閉まった。
部屋はカーペットでヒールが沈んだ。足が重くなり、何かが阻んでいるように感じる。奥に長い廊下を進んだ。扉を開けると前面に広がる大きな窓が目に飛び込む。舞衣は外の景色から、自分のいる階の高さに驚いた。壁側にはピンと張った存在感のあるベッドが置いてある。横には1人掛けソファが向かい合うように2脚置かれていた。壁には薄型テレビが掛けられ、窓側には机と椅子が並ぶ。さっきまで仕事をしていたのか、ノートパソコンが半開きの状態で止まっていた。
木野と男は、それぞれソファに腰を掛けた。舞衣は居場所がわからず、扉の側で動けずにいる。
「今日は何しに来たん?」
目の前に座る相手に話しかけるには大きすぎる声。
だとしたら、自分に話しかけている。
急に矛先を向けられ、舞衣の身体は強ばった。自分が話す番だとわかっているのに声がでない。どうしよう。どうしようと。頭の中で堂々巡りする。
「はぁー…」
男の長い溜め息で沈黙は破られた。男は首を回し、舞衣に顔を向けた。
「これが面接なら確実に不採用だわ。相手がリードしてくれるのをひたすら待つタイプか。常に受け身で何様やっちゅうねん。こんなんじゃ社会ではやっていけんて。ほんま」
まくしたてられて、言葉がさらに引っ込む。
挙動不審になりながら、舞衣は男の座る足下に正座した。
「すいません」
声が震える。
「こっち見ろ」
顔なんて見たくなかった。でも、拒む勇気も無い。顎を持たれ、無理矢理上を向かされた。陰湿な目。
「あんた、仕事できへんやろ」
そんなこと、自分が一番わかってる。
「あとな、木野の顔チラチラ見るなや。不愉快や」
無意識だった。
「すいませ…」
「すまん、躾がなってなくて」
木野が割って入る。
ご主人様に謝らせてるなんて。
奴隷として失格だ。
「何かしゃべってみ」
「えっと…」
「挨拶とかあるやろ。面倒やな」
苛立ちを隠すことなく、男の声は荒くなった。「宮内舞衣です。今日はご指導よろしくお願いします」
舞衣は額をこすりつけた。
「顔、上げ」
下を向いている方がよかった。あの目に睨まれると金縛りにあったみたいに身体が動かなくなる。舞衣は息をのみ、ゆっくりと顔を上げた。
男は舌舐めずりをして言った。
「俺は久保田や」
背筋がぞくっとした。
甘美な蜜は私を堕とす 西門いちほ @ichiho_nishikado
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